現実世界①川の底
翌朝。差し込む朝日の眩しさに、ひよりはパチパチと目を瞬かせた。
宿屋の一室、まだ20歳の大人の身体のままだが、頭の中に直接、聞き馴染んだ鈴のように澄んだ声が響く。
「起きた、ひより? 昨日はよく眠れたみたいだね」
精神の中で優しく語りかけてくるキュアの声に、ひよりは「うん!」と心の中で元気に頷いた。新しい服やこれからの冒険への期待で、胸が弾んで仕方がなかった。けれど、現実世界のことも気にかかる。
「ねえキュア、そろそろ一度、向こうの世界に戻ったほうがいいよね……?」
「そうだね。あっちでは時間は経っていないはずだよ。戻り方は、いつも見ているアニメで知っているよね? 水の中に戻るから、すぐに水面に出るんだよ」
「うん、分かった! それじゃあ……『現実世界に戻る』!」
ひよりがその言葉を口にした瞬間、宿屋の壁も、天井も、目の前の景色がまるで水に溶ける絵の具のようにドロドロと崩れ去っていった。
だが――次の瞬間、ひよりの全身を襲ったのは、冷酷なまでの「本物の恐怖」だった。
(……え? つめ、たい……っ!?)
ゴボリ、と口から大きな泡が漏れ出る。
目を開けると、そこは薄暗く濁った水の底。現実世界の川の底だった。
10歳の小さな少女の身体に戻ったひよりを、容赦ない水圧と冷たさが襲う。同時に、左手首には現実世界の姿である、猫のマスコットがついたブレスレット型の魔法デバイス――『キュア』がしっかりと巻き付いていた。
キュアに言われた通り、パニックになりかける頭を必死に切り替え、ひよりはすぐに水面を目指そうとする。その時、ふと自分の服の胸元に命の重みを感じた。現実世界で一緒に川に落ちてしまった、本物の子猫が服の隙間に挟まっていたのだ。ぐったりとしていて、このままでは溺れてしまう。
(子猫を、助けなきゃ……!)
ひよりは必死で子猫を服の中にしっかりとしまい込み、冷たい水を蹴って急いで水面へと浮上した。
「――っ、プハァッ!!」
水面に顔が出た瞬間、激しく咳き込みながら貪るように空気を吸い込んだ。慌てて服から子猫を引っ張り出し、息をさせながら川岸に向かって必死に泳ぐ。
ちょうど水面に近いところに登れそうな場所があり、ひよりは凍える手で鉄のはしごを掴んだ。一段、また一段と、濡れて重くなった身体を引き上げてなんとか川から出る。
「もう……死んじゃう……」
限界だった。護岸のコンクリートに這い上がった途端、ひよりはそのまま意識を失ってしまった。
まさにその時、川のすぐ上の道路では、一台のトラックの運転手が顔を真っ青にして激しく取り乱していた。
「嘘だろ……!? 子供を……はねて、川に落としちまった……っ!?」
そう、ひよりが現実世界で異世界へ行く直前、彼はトラックでひよりをはねてしまっていたのだ。その衝撃で彼女は川へと転落していた。
運転手はあわてて車を飛び出し、女の子を救護しようと必死の形相で川岸へと駆けつけていた。
すると、まさに今自分が川へ飛び込もうとしたその瞬間、川底から上がってきたずぶ濡れのひよりが、はしごを伝って目の前へと這い上がってきて、バタリと倒れたのだ。
「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
運転手はあわててひよりを抱き起こし、必死に救護にあたった。すぐに携帯電話を握りしめ、震える声で叫ぶ。
「もしもし、救急車お願いします! 子供が川に……! 意識がありません、大至急お願いします!!」
手配が早かったのか、遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音が、すぐに現場へと響き渡り始めていた。
――知らない天井。
目を開けると、そこは真っ白な病院の個室だった。
左腕には点滴の針が刺さっており、心電図のピッ、ピッという規則正しい電子音が、静かな部屋に寂しげに響いている。
「…………生きてる。よかった、死ななくて」
ひよりはカサカサに乾いた唇を動かし、小さく呟いた。
その声に反応するように、ベッドの脇の椅子に座ってうつむいていた影が、ハッと勢いよく顔を上げた。
「ひより……! よかった、目を覚ましたのね……!」
ひよりのママだった。
心配のあまり疲れ果てたママの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。その泣き顔を見た瞬間、ひよりの胸の奥にも一気に感情が込み上げて、視界が涙で激しく歪んだ。
「ママ……う、うああんっ! ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 子猫を助けようとして、わたし……トラックにはねられて、川に落ちちゃって……っ!」
溢れ出す涙と一緒に、必死に記憶を言葉にして謝るひより。
ママはそんなひよりの言葉を遮るように、横になっている小さな手を両手でぎゅっと包み込んだ。何度も、何度も力強く握りしめる。
「いいの、いいのよひより……! よかった……本当に無事でよかったわ……!」
ママの温もりを感じて、ひよりは少しだけ落ち着きを取り戻した。泣きじゃくりながらも、ずっと胸の奥に引っかかっていた「一番大切なこと」を思い出す。
「ママ……あのね、いっしょに落ちた子猫ちゃんは……? 子猫ちゃん、どうなったの……?」
ひよりの問いかけに、ママは涙を拭いながら、安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。あの子なら、通りかかったトラックの運転手さんがひよりと一緒にすぐ引き上げてくれたの。今は近所の動物病院に入院しているけれど、命に別条はなくて無事だって」
「……っ、よかったぁ……!」
ひよりは心の底から安堵して、ベッドの枕に深く頭を沈めた。
自分の体は傷だらけでボロボロのはずなのに、小さな命が助かったという報せが、何よりもひよりの心を温かく癒していくのだった。
ママはもう一度ひよりの頭を優しく撫でると、「先生を呼んでくるわね」と言ってパタパタと足早に病室を出ていった。
パタン、と静かにドアが閉まり、部屋に完全な静寂が戻る。
ひよりがホッとしたのも束の間、ママが席を外して部屋に一人きりになった瞬間、左手首のブレスレット型の魔法デバイス――キュアの真ん中にある猫のマスコットが、微かに淡い光を放った。
「……ふぅ。やっと二人きりになれた。ひより、ボクのことも忘れないでよね!」
頭の中に直接響いてきたのは、聞き馴染んだ優しい男の子口調の声だった。現実世界に戻ったことで、キュアはひよりの左手首でブレスレットの姿になり、心の中に語りかけてきているのだ。
「キュア……! ううん、忘れてないよ。ちゃんと左手にいるの、分かってたもん」
ひよりは点滴の針が刺さっていないほうの右手を伸ばし、愛おしそうに左手首のブレスレットに触れた。
「それにしても、本当にヒヤヒヤしたよ。戻った瞬間が川の底だったし……。でも、ひよりがパニックにならずにすぐ水面を目指してくれたから無事助かったよ。よく頑張ったね」
キュアの優しい声に、ひよりの張り詰めていた心がすうっとほどけていく。
「うん……。でも、子猫ちゃんも無事だったってママが教えてくれたの。だから、わたし頑張ってよかった」
「ふふ、本当にひよりは優しいね。あっちの世界ではハラハが素敵な服を仕立てて待ってくれているし、明日からの新しい冒険のためにも、今は現実世界の身体をしっかり休めなきゃダメだよ?」
「そうだね……。キュア、いっしょにいてくれてありがとう」
心強い相棒の声を聴きながら、ひよりは今度こそ安心感に包まれて、ゆっくりと瞳を閉じるのだった。




