第47話『山を降りた、その夜』
山を下りる足取りは、重かった。
フェンリルを倒した直後の高揚は、もうない。
代わりに残っているのは、身体の奥に溜まった鉛のような疲労と、現実へ引き戻されていく感覚だった。
「……街、見えてきたね」
リナの声に、タクミは顔を上げる。
山道の先、闇の中にぽつぽつと灯る明かり。
焚き火、家屋、夜の営み。
つい数時間前まで“王”と刃を交えていたとは思えないほど、ありふれた光景だった。
「戻ってきたな……」
自分でも、独り言のようだと思った。
世界は、何も変わっていない。
山の王を倒しても、空は夜になり、街には灯りがともる。
(……当たり前、か)
その当たり前が、今は妙に重かった。
⸻
街の門をくぐると、夜番の兵士が一瞬だけこちらを見たが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
血の匂いも、戦いの気配も、もうこの場所にはない。
「タクミ」
少し前を歩いていたリナが、立ち止まる。
「……大丈夫?」
「ん?」
振り返ると、リナはじっとこちらを見ていた。
心配というより、確かめるような目。
「歩けてるし、意識もはっきりしてるよ」
「そういう意味じゃなくて」
言いかけて、リナは言葉を切った。
「……いや。うん、それならいい」
それ以上は、踏み込んでこなかった。
タクミはその沈黙に、何かを返すべきか一瞬迷って――やめた。
今は、自分の中でも整理がついていない。
⸻
宿屋の前に着いた頃には、すっかり夜が深まっていた。
暖かい空気と食事の匂いが流れ込んでくる。
それだけで、膝が少し笑いそうになる。
「……おい」
声をかけてきたのは、たまたま通りかかったダッカルだった。
視線が一瞬、タクミの全身をなぞる。
装備、血の跡、顔色。
「……話、聞かせてもらおうか」
「……明日でいい?」
タクミがそう言うと、ダッカルはわずかに眉を上げた。
数秒、沈黙。
それから、短く息を吐く。
「……ああ。今日はもう、休め」
それだけだった。
深く聞かない。
無理に踏み込まない。
それが、ダッカルなりの気遣いだと分かる。
リナが笑いながら代わりに答える。
「二人とも、もう限界なんです」
ダッカルは苦笑しながら去っていった。
⸻
部屋に入った瞬間、緊張の糸が切れた。
ベッドに腰を下ろしただけで、視界がぐらりと揺れる。
(……やば)
タクミは、反射的にステータスを開こうとした。
だが――
「……」
文字が、滲む。
頭の奥が、じんわりと熱い。
思考が、うまく繋がらない。
(レベル……どうなって……)
そこまで考えて、諦めた。
「……全部、明日でいいか」
ベッドに倒れ込む。
靴も脱いでいない。
それでも構わなかった。
「タクミ」
リナの声が扉の向こうから聞こえる。
「……おやすみ」
「……ああ」
それが、精一杯だった。
⸻
リナは、しばらくその場に立っていた。
(……本当に、遠くに行っちゃったな)
そう思って、でもすぐに首を振る。
遠くに行ったのは、力だけだ。
この扉の向こうにいるのは、ちゃんと“タクミ”だ。
「……明日、だね」
小さく呟いて、明かりを落とす。
⸻
その夜。
山の王を倒した事実は、まだ誰にも語られない。
世界は何事もなかったように眠りにつき、
ただ一人――
異常なほどの経験値を抱え込んだ男だけが、深い眠りに沈んでいた。
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