第七十一話 終幕
――正直に言えば、もう脚を動かすことすら厳しい状態だった。
序盤に負った右のハムストリングスへのダメージは回を追うごとに徐々に蓄積されていき、脚を一歩踏み出すたびに泣き叫びたくなるような痛みが花凛を襲う。
それでも立って戦い続けていられるのは、チームを背負う者の覚悟と責任感。この二つのみ。
(これは……勝っても決勝は無理ねぇ。それどころかその後だって)
無理をした分、早めの完治は難しいだろう。三週間後の東北大会には間に合いそうにないと直感でわかるくらいの痛みが脚から響いてくる。
それでも。この好敵手たちとの決着は自分の手でつけたい。監督やチームメイト達の反対を押し切って、彼女はチームの四番打者としてゆっくりと打席に向かう。
「オイオイ花凛。足引きずってんだろ?無理して本当にいいのかよ。」
「全くノープロブレムだわぁ。だってホームラン打ったら歩いてベース回れるもの。」
「……口の減らないやつ」
露骨に無理をした笑顔で恭の問いに強がり満点で応える花凛。この決断のせいで、もしかしたらこれからの輝かしい競技人生に大きく深刻な爪痕を残してしまうかもしれない。
側から見たら、この決断を愚かだと非難する人間だっているだろう。
だが、恭には彼女の意地が、気持ちが痛いほどよくわかった。だから……手は抜けない。真っ向勝負で打ち取って早く楽にしてやるのだ。
(さぁこの試合の最後のバッターだ。力振り絞ってくれ……彩音!)
バンッとミットを叩いてどしっと構える。要求はインコースへのスピードボール。流石に精密なコントロールは期待できないこの最終盤だが、厳しいコースにボールが来る。
「ぐっっ……」
「ファール!ファールボール!」
思わずバットが止まらなかった花凛は中途半端なスイングでゴロを三塁側ファールゾーンに転がす。
序盤からのペース配分を考えたらもう彩音の方も握力がほとんど残っていないだろう。だが彩音の思わず見惚れてしまうような美しいフォームは崩れない。リリースもまだまだ強い。
「お前は……本当に最高のピッチャーだよ。彩音。」
二球目は外へのスライダーの要求。少しばかり中に入るが、花凛はこれを空振りしてツーストライク。カウントはツーストライクノーボール。四葉花凛を崖っぷちまで追い詰めた。
「あははっ!さいっこうっ!最高よぉ彩音ちゃんっ!」
その死地にあって、四葉花凛は不気味に笑みを浮かべ、ハイな表情を見せる。ライバルとの魂のぶつかり合いが楽しくて仕方がないのだろう。
――それは、恭も同じだ。
(彩音っ……全てをこの一球に込めろ!)
要求はアウトコースへのストレート。遊び球なしの三球勝負。恭はドンと胸を叩いてマウンドの彩音を鼓舞した。
――深く、深く沈み込み、腕が高く上がる。
爆発的なプレートの蹴りから前に飛び上がり、リリースと共に強く腰を切る。三橋彩音の追い求めた理想のフォーム。それが今完全にマウンド上で再現され、極限まで切れ味の増したストレートが打者のアウトローへ突き刺さる。
間違いなく、今まで見た中で最高のストレート。
――それを、四葉花凛は踏み込んでバットを出してきた。
「なっ……!?」
アウトローに完全にヤマをかけていたのだろう。バットの芯でミートするも……あまりの直球の勢いに押され、打球は上がらない。
バットに当たったボールは、ショート――絢辻未来の正面に飛んでいった。
「未来!前だ!」
「ショートォォォ!!!!」
絶叫が、グラウンドに響き渡る。打球は強いがイージーゴロ。ファーストカバーに動き出していた恭も、アウトを確信して拳を握った。これで晴れて延長戦。張り詰めた緊張の糸を緩めるようにほっと一息をついて……そう……なるはずだった。
「――――――は?」
ドライブ回転で少しだけ高く弾んだ花凛の打球。前に出てとるべき打球は……慎重になってしまったのか、脚が動かず待って捕る体勢に。出した未来のグラブを――打球は抜けていった。
――その場にいた全員が、唖然として言葉も出ない。一瞬の沈黙、それを切り裂いたのは扇の要からの恭の号令だった。
「バックホーム!中継早く!早く!」
「バ、バックホームッ!」
どうやら未来のグラブに打球はかすりもしなかったようで……どんどん打球の勢いを強めたまま硬い地面をバウンドし続ける。その間にも花凛は脚を庇いながらではあるが懸命にベースを走っている。
(抜けるな……外野は抜けるなっ!)
しかし……そんな願いも虚しく、カバーリングにきた瑠衣もそのボールを捕りきれない。結局打球はフェンスに当
たってクッション処理でもさらに時間のロスが発生する。
「クソッ……間に合わねえ!」
脚を引きずりよろけながらも花凛は一歩一歩進んでいる。サードを蹴り、ついにホーム突入を開始した時、ボールはまだ外野にあった。
「ホ、ホームイン!ゲームセット!」
「――っ!!」
なんとも不細工で、ヘッドスライディングとは言い難い。それでも彼女は両腕から崩れるようにホームに滑り込んだ。
彼女はついに、決定的な一点をもぎ取って生還した。
一球の重み。ワンプレー、たった一つのミスでこれまで積み上げてきた全てが水泡に帰す、このスポーツの最も無慈悲な一面。
「み……らい……」
身体から力が抜けていく。虚脱感の中で目に映ったのは……ボールを持ちながら立ち尽くす妹の姿。
顔を真っ赤にして、赤ん坊のように泣きじゃくる、痛々しい妹の姿だった。
「ごめん……なさい……ごめんなさいっ!ごべんなさいっ!うわぁぁぁ!!!」
その瞬間、恭達の秋の挑戦は終わった。好敵手同士の激闘の結末は――未来にとって最も残酷なものになった。
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その後の話だ。
金川との激闘の準決勝をギリギリで制した岩代はそのまま午後の決勝に進んだ。
未来は決勝を観戦できるような精神状態ではなかった。だから絢辻兄妹は親の車で皆よりひと足先に家路に着いた。
――その際、肩を貸され脚を引きづりながら病院へ向かう四葉花凛を見た。怪我の状態を見てもあの後すぐに戻って試合に出られたとは考え難い。
エースで四番が不在。決勝はさぞボロボロだったに違いないと思っていたのだが。
「オイこれ……決勝11-5ってどういうこと?花凛いなくても勝てんのかい。」
激闘の次の日の朝。学校で恭や瑠衣、彩音などが集合しておしゃべりに興じている。話題はもちろん恭が見逃した午後の決勝の試合についてだ。
「やっぱ花凛がいなくて守備は苦戦しとったけど……それ以上に打って走って凄かったわ。特に走塁。塁盗まれすぎて途中から相手のキャッチャー心折れとったでアレ。」
「一試合で10盗塁って……完全に破壊してんな。」
準決勝は恭の異次元の強肩を警戒して鳴りを潜めていたが……元々岩代打線の真骨頂は狩野光俊を中心としたこの機動力にある。そこに各々の打力まで加わったことで剛柔織り交ぜた支配的な打線が完成していた。
岩代は晴れて福島県の第一代表として東北大会へ駒を進めることになる。そこを勝ち上がれば春の全国大会へ夢はつながる。
金川はそのレールに間違いなく乗るはずだった。あの一球さえなければ、そこに居たのは金川だった可能性も大いにある。
その責任を……絢辻未来は一人で背負い込んでしまった。
「………未来ちゃん、今日休み?」
「ああ……。ずっと部屋に引きこもってて……リビングにも降りて来ねえ。俺もまさか学校まで休むとは思わなかった」
「まああの負け方は責任感じちゃうだろうね。別に誰も未来ちゃんのこと責めやしないのになぁ。」
「全くだ。別に負けても死ぬわけじゃあるまいし。ましてやあのエラーって未来の責任だけじゃない。」
あの場面。カウントはツーストライクノーボールと完全に追い込んでいた。そこからの三球勝負を選んだのは彩音と恭のバッテリーだ。落ち着いて攻めれば三振だって取れていたかもしれない。
瑠衣だって一瞬の気の緩みからカバーリングが一歩遅れた。クッションボールの処理もお世辞にもいいとは言えなかった。
打線はチャンスで凡退祭り。責任と課題はあの試合に出ていたメンバー全員にある。
恭のそんな言葉を聞いて……彩音がニマニマとした表情で恭の方を見る。
「………なんだよ。なんか間違ったこと言った?」
「いやぁ?ただ、初めて会った時の恭くんとは随分見違えたなぁって思ったんよ。今の言葉、おんなじ人間が吐いたとは思えんわ。
「――お前が言ったんだぞ?勝ったら負けたりすんのが楽しいんやろってな。」
あの時はその言葉の意味などこれっぽっちも理解できなかったが……今ならそれがよくわかる。ベストを尽くして、全力を出し切ってぶつかり合って……それこそが勝ち負けよりもずっと尊いことなのだと、今ならわかるのだ。
「………未来ちゃんは頭良いから、話せばわかってくれるさ。一人で抱え込む必要ないってさ。」
「その話す機会がなぁ。めちゃくちゃ避けられてるし俺」
「なんやねん一緒に住んどるんやろ?しちめんどくさいこと考えんと、部屋に突撃したらええ。」
「部屋には鍵かかってて開けらんねえし……お前それで俺が未来に嫌われたらどうすんの?俺の方が立ち直れなくなるわ。」
「それでも……やっぱりなんとかできるのは恭くんだと、ボクは思うよ。」
瑠衣は真剣な眼差しで恭を見つめる。未来が義兄の恭のことを大好きで仕方ないのは皆周知のこと。悔しいが彼女の傷ついた心を甘く溶かして癒せるのは、悔しいが親友の自分達ではなく彼しかいないのだ。
「恭くん……お願い……なんとか。」
「――わーーったよ。大丈夫。別に作戦がないわけでもない。多分逃げられないだろうなって場所もある。けど……」
「けど?」
「なんやねん。ウチらにも教えんかい。」
気が進まない。色んな意味であまりにも気が進まない。恭は顔を真っ赤っかにしながら瑠衣と彩音に耳打ちする。
「だ、大胆だね……」
「ええ……ちょ……何それ」
瑠衣は恭と同じく顔を真っ赤にしながら覆い隠し、彩音は若干引きながら呆れていたのだった。




