第七十二話 冬へ
――カッコ悪い。
絢辻未来はその身体を湯船に沈め、乳白色の温泉の素が入ったお湯の中に顔面をつける。
今日は勢いで学校を休んでしまった。別に彩音や瑠衣達と気まずくて話したくなかったわけではない。全身が虚脱感に見舞われ何もやる気が起きず、ベッドから起き上がることができなかった。
そんな言い訳を作って現実から目を背けている自分に一番腹が立つ。
――想い人の絢辻恭には、カッコよくて、可愛い自分だけを見ていて欲しかった。
エラーして泣き崩れる姿も、腫らした瞼も、そして現実から逃げている今の姿も。その全てが見られたくない。避けて、避けて、目を合わせない。
それが彼を困らせて……自分の本意じゃないことくらい自分がよくわかっているのに。
「………どうしよう。どうしよう。」
このまま学校もソフトの練習もずっと休み続けるのか。ずっと自分に言い訳をして生き続けるのか。
否。どこかで勇気を出して踏ん切りはつけなければならない。でなければ……やがて状況に飲み込まれ取り返しがつかなくなる。わかってはいるのだが……。
「私は……弱いよ。そんな勇気なんか、ないよ。」
鬱屈とした想いが身体に仮想の鉛を流し込む。溜め息を吐くたびに身体が重くなっていって、孤独感に心が蝕まれる。
――その孤独さえ、自らの選択によって作り出したものだというのに。
「もう……やだよぉ。おにいちゃん……おにいちゃん……」
未来は湯船の中で膝を折り曲げて抱え込んで、縮こまってしまった。――その時だった。
「未来、いるか?大丈夫か?」
「お、おにいちゃん!?」
浴室の外から、聞き慣れた声がした。心臓がギュッっと掴まれたような感覚がして、背筋がピンと伸びる。鼓動が……どんどん大きくなっていく。
「その……アレなんだが……うん。未来!」
「は、はいっ!」
「………俺!一緒にお風呂に入っても良いでしょうか!」
「はぇ………はぁ!?」
「湯船に浸かっててくれ!行くぞ!3……2……1!」
ゆっくりとしたカウントと共に浴室のドアが開く。そこには、海パン姿の義兄の姿があった。
「さて……話をしよう。未来。」
恥ずかしさに頬を赤らめて震えながら、絢辻恭は一世一代の大勝負に出た。
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恭の考えた作戦とは実にシンプル。お風呂場……未来が裸の状態の時に突撃することだ。
ここから逃げようものなら恭に裸を晒すことになる。純情で恥ずかしがり屋な未来にとって、それは絶対に取りたくない選択だろう。
彼女の好意を逆手に取ったような卑劣な作戦ではあるが……彼女からの好感度を犠牲にしてでも義妹のためにリスクを取るべきだと判断した。
「話をしよう、兄妹水入らず。裸の付き合いってやつだ。」
「お、おにいちゃんのばかぁ!おとーさんも………ママもいるんだよ!?こんなことバレたら……」
「おう。だから母さんは風呂場の外で見張ってくれてるよ。俺が変な気を起こさないようにな。だからその辺は安心して良い。」
恭はずけずけと未来と同じ湯船に浸かると、彼女の身体とは背中を向けるように座る。それを見て未来も彼と背中合わせの格好になった。
「体調大丈夫か。具合、悪くないか?」
「………悪くないよ。ズル休みなのくらい、おにいちゃんも知ってるでしょ。」
未来は、自分が思った以上に刺々しい言い方になってしまったことに驚いた。別に恭は悪いことなんて何もしていないのに、傷つけてしまっていないだろうか。
「今日の給食さ、お前の大好きなみかんゼリー出たんだ。相変わらずすげえ美味しくてさ。」
「…………」
「未来の分、持って帰ってきたから。冷蔵庫にあるやつ食べて良いぞ。」
「ほんとにっ!?あっ……」
嬉しさのあまり思い切り目を輝かせてしまって、バツが悪い。恭は後ろ手でぽんぽんと未来の頭を撫でる。
「………いいから本題に入ってよ。引きこもってんなって……俺を避けんなって……」
「未来……」
「お前の……せいで……負けたんだって。言ってよ……ねえ……私が……」
目に涙をいっぱいに溜めて、嗚咽を漏らす未来。そんな痛々しい姿の妹の頭を恭は後ろからぎゅっと抱きしめる。
「落ち着け。お前は一人じゃない。俺がいる。大丈夫、大丈夫。」
「うっ……ひぐっ……ぐすっ……」
できる限り優しい音で、優しい手つきで。未来のささくれだった心を溶かしていく。自暴自棄になって自らを傷つける彼女の姿はまるであの日の自分のようで……。
「確かに俺たちは負けた。負けたよ。未来があのボールをアウトにしてたら勝ってたかもしれない。でもそれがなんだよ。冬にパワーアップしてさ、春に見返してやろう。リベンジしてやろう。」
「でもっ……みんなの夢を……私が……壊してっ」
「みんなの夢?よく思い出してみろ。俺が入った時にみんなが言ってたのは、県大会出場だ。先輩達が出られなかった県大会に出ることだろ。その夢をお前はバットで、守備で叶えた。それはいくら三振しようがエラーしようが消えることじゃない。それは誇って良いんだよ!」
県大会出場すらずっと叶わなかった、いいとこ中堅チームが県大会ベスト4だ。今や福島中の強豪チームが金川を侮ることは絶対にない。その実力は、確実に証明されたのだ。
――少し前の恭には、逆立ちしても出せなかった言葉の数々。その一つ一つが、監督や雪音などの大人達、花凛やクリスなどのライバル達、そして未来達チームメイトからもらった宝物だ。
「おにぃ………………ちゃん……」
未来は恭からもらう一言一言を噛み締めながら一度こくりと頷き、恭の回したその手に頬を乗せた。
その体勢で、どれだけそうしていただろうか。しばらくの沈黙の後、重苦しい空気を取り払って話し出したのは未来の方だった。
「おにいちゃんは優しいね。今も昔も全然変わらない。大好き……大好き。」
「未来……俺だって……」
「でも、違うの。私はおにいちゃんみたいになれない。ダメなの。もう一回同じ場面で同じ打球が来ても……きっと私は前に出れない。気がちっちゃくて、弱っちいから。おにいちゃんみたいにエラーを怖がらずにプレーなんてもうできないよ。」
「未来!未来聞け!お前は……」
「私は……もうグラウンドに立てないよ。そんなずっとビクビクしてる選手に……おにいちゃんと同じグラウンドに立つ資格も……」
――我慢できたのはそこまでだった。恭は決定的な一言を言う前に彼女の身体を正面に引き寄せて思い切り抱きしめた。初めての女の子の裸の感触。だがそんなことすら頭に入らないくらい、最愛の妹をなんとかして救いたいと恭の頭はフル回転中だった。
「おにぃ……………っ、恭……くん。」
「お前はバカだ。俺がエラー怖がらずにプレーしてるわけねえだろ。割といつもビクビクしながら虚勢だけでやってんだよ。」
「…………嘘」
「ほんと。最終回の……白山のキャッチャーフライあるだろ。アレなんて緊張でほとんど脚動いてないからな。マジで吐きそうだった。落としたらどうしようってな。」
「でも……落とさなかった。私とは……」
「それはな、未来と同じだ。ああいう場面で失敗してきた経験があるから落とさないんだぜ。」
……え?と耳元で未来が間の抜けた声を出した。顔を見なくたって、可愛らしくキョトンとした表情をしているのが伝わってくる。
「怖いもの知らずで突っ込むことは誰にだってできるよ。でもな。本当の強さってのはそうじゃない。失敗して、ミスを恐れて、それでもそれを乗り越えて前に出れる奴が本当に強くてカッコいい奴だと俺は思う。」
「…………」
「俺と同じグラウンドに立つ資格がない?逆だよ。この恐怖を、この試練を乗り越えるからこそ、未来はスター選手になれるんだ。」
その一言が告げられた瞬間、未来は頭が沸騰するような感覚に陥った。まるで心の真ん中を射抜かれたような、居ても立っても居られず焦燥に駆られる言葉にし難い感覚。
――まだ明確に答えが見つかったわけではない。だが、その目で見る視界は、先ほどよりも明確にクリアに見えた。
「やっぱり、グラウンドに立つのは怖い。でも……これも大事な感情なんだね。これを背負って……乗り越えなきゃいけないんだね。」
「………大変だろうけどな。かっこいいとこ、俺に見せてくれよ。妹よ。」
「えへへ……」
ようやく見えた笑顔。それに恭も満面の笑みを返して、おでことおでこをくっつける。
一人じゃ険しくて歩けない道かもしれない。それでも絶対にこの過保護な義兄は未来を一人にはしない。二人ならこの先どんな困難だって乗り越えていける、そんな確信が芽生えた絢辻家の『お風呂場事件』だった。
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スカートを履いて、お気に入りの靴下を履いて、ブレザーを羽織る。いつもの朝のルーティーンも、たった1日ズル休みしただけで随分と新鮮に感じるものだ。
「………今日は髪留めしよっかな。新しいやつ、おにいちゃん気づいてくれるかなぁ」
赤いランドセルを背負って、兄の待つ玄関へ向かう。過保護な彼は心配そうな顔でずっとソワソワしていたが……未来の姿を見るとぱぁっと顔を明るくしてこちらに寄ってきた。
「なんか今日すげえ違くない?めちゃくちゃ違和感というか……」
「えへへ。私可愛い?」
「ちょー可愛いぞ!流石俺の妹!っ………と。」
いつもの調子で大袈裟に褒める恭だが……ランドセルと共に肩に提げたソフト用のエナメルバックに視線をやると、安心したように目を細めた。
「どうやら、大丈夫そうだな。良かった良かった。」
「………うん、もうへっちゃら。なんて強がりは言えないけど……ありがとね。おにいちゃん。」
「じゃ、行くか。彩音も瑠衣も待ってることだし。」
「………うん。」
子供達の挑戦は終わり、新たな目標に向かって再び歩みを進めていく。冷たい風が二人の頬を撫で、東北は厳しい冬の季節へ移ろうとしていた。
これにて本作一旦完結となります。長い間ご愛読ありがとうございました。
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