第七十話 激走
――以前。絢辻恭がこの金川というチームに来るもっと前の話だ。
井桁雪音が高校の時の知り合いだという男の人を練習に連れてきたことがあった。その人は元甲子園球児、六大学リーグの外野の元レギュラーだという凄い人で、春休みを利用して帰省ついでにこのチームを教えにきてくれた。
外野手の投げ方、捕り方、ポジショニング。短期間で金川の瑠衣などの外野手達に様々なことを教えてくれた。その中でもすこぶる印象に残ったこと。それは。
「だ、打球を見ないで追うのぉ!?」
「そそ。打球から目を切って背走する。ずっとグローブをしまって走って、取る瞬間だけボールを見てグラブを出す。」
「そんなのできっこないじゃん!どうやるの!?」
彼の言ったその突拍子もない話に目を輝かせる瑠衣。他の外野手も興味津々にその話を聞いていた。
「まず打球見ないで走ったらどこに落ちるかわかんなくない?」
「もちろんバッターが打つ瞬間は見るよ?打球がバットに当たったタイミング、体勢で打球方向を見て……当たった音で強さを感じ取るんだ。と言っても目を切って走らなきゃ捕れないのは……自分の真後ろの打球限定だけどね。」
「お!それ漫画で見たことあんぜ!グラウンドの照明落としてノックするやつっだよな!」
「危険だから俺はそこまでやったことはないけど。」
「やっぱ超能力じゃん!」
「違う違う。こんなもんただの『慣れ』さ。――雪音!俺にちょっと後ろの外野フライ打ってくんね?」
内野にノックバットを持って立っていた雪音に大きな声でノックを頼む彼。数秒後にコーーンと打球が上がり、自分たちの背後を襲う。
――これは超える。自分達の誰も、その打球を取れるなんて思っていなかった。
だが、彼の足はその打球に対して凄まじいケイデンスで回転し、あっという間にその落下地点付近まで一直線に走り込んでしまう。
「ほ、本当に打球見てない……なんで?どうして?」
彼のグラブは本当に打球を捕る寸前まで脇にしまわれていて……最後の最後に彼が打球を視認して手を伸ばした時にようやくその姿が見えた。
打球を追う姿勢、走路、捕球態勢。その全てが洗練され、無駄がなかった。フライ一つ取るだけでも、これが本当に自分のやっている外野守備と同じなのかと愕然とした。
――だがその高い壁を間近で見て彼女が浮かべた感情は、『挫折』などではない。
「か、かっこいい………かっこいい!!!ボクも!ボクもやる!」
二階堂瑠衣は、彼を理解できない怪物ではなく、達成可能な……いや、実現したい『目標』と定めた。
そこから、二階堂瑠衣の朝の守備練習は始まった。
「んん……瑠衣ぃ。パパ最近残業続きで眠たいんだけど……もう少し寝かせてくれよぉ」
基本的には眠い目を擦る父親をベッドから叩き起こし、朝練に付き合ってもらった。やることは簡単。自分の後ろにフライを投げてもらって瑠衣は掛け声と共にスタート。
投げた瞬間だけボールを見て、それ以外はボールを見ずに走る。ボールの飛び方を予測して、そこに向かって走って捕る。それだけの基礎練習。父親ができない日はお姉ちゃんに手伝ってもらった。
晴れている日は欠かさず毎日、朝だけでなく練習前にも早くグラウンドに来た絢辻兄妹のどちらかに投げてもらう。
積み重ねの結果を感じるくらいには驚くほど技術の向上は見えた。しかし……実際バットに当たった打球は全く違う。投げてもらったボールとはやはり比べものにならない勢い。予測不能な軌道。実戦のプレッシャー。
二階堂瑠衣はその『目切り背走』を、本物の打球で一度も成功させたことはない。それでも彼女は愚直に、その目標に向かってぶつかり続けた。
――いつかあの『憧れ』の姿に、少しでも近づけるように。
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谷皇成の轟音を伴ったフルスイング。そして放たれた打球に、誰もが目を奪われる。真芯で捉えた高い弾道の打球は、確実にセンターオーバー。
――フェンスを越えるか。それともランニングホームランか。
谷皇成はこの試合の勝利を確信して右手を大きく挙げ、岩代ベンチは歓喜の表情でベンチ前に出てヒーローを凱旋する準備をしていた。
サヨナラホームラン。この激闘も、勝負あり。
そう、誰もが思った。扇の要から見ていた絢辻恭も、持っていたキャッチャーマスクを落として膝を折りかけていた。
しかし……二階堂瑠衣は懸命に打球に向かって走っていた。信じられないほど一直線に。その様子に、一塁を回った谷皇成は大きく目を見開いた。
(なんで……なんで見ていない。なんで見ていないのにっ……打球を追えてる!?)
――心臓がバクバクとうるさい。
凄まじい恐怖心だ。この打球は、チームの命運を決定づける打球。このボールの結果次第で、勝敗が決まる。
打球方向的に、自分しかこれは追えない。なのに……それなのに……自分は打球を見ないで勘だけでその行方を追っているのだ。
ありえない。もし打球が失速して、自分が思うより前に落ちたらどうするのか。何も見えていない以上、その可能性だって否定できるものではない。
だが……二階堂瑠衣は自分の直感を信じる。今までに積み重ねた経験が、努力が、瑠衣の頭で吠えている。走れ、走れ。まだ間に合う、まだ救えると。
――間に合え、間に合え、間に合え。
振り返った瞬間、打球は目論見通り自分の近くにあった。だが……まだ足りない。まだ少し届かない。
「届けぇぇぇぇ!!!!!」
トップスピードに乗ったまま、二階堂瑠衣は打球に向かって信じられない跳躍をした。グラブを腕が千切れるくらい懸命に伸ばして――それを掴み取った。
(絶対に……絶対に離さない!)
硬い地面に身体を思い切り打ちつけた。肌は擦りむけ、鼻からは血の匂い。だがそれでも、グラブの中のそのボールだけは死んでも離さない。気力だけで、瑠衣はグラブの中のボールを握っていた。
結果を覆い隠すように舞う土煙。近づいてきた審判に、この場にいる全ての人間の視線が集まる。
「アウトォッ!!!」
大袈裟なほどのジェスチャーで、審判はその判定を宣告する。二塁と三塁の間を駆けていた皇成は、それを見て言葉もなく呆然と立ち尽くす。
「瑠衣っ!しっかりしろ!」
「瑠衣さんっ!」
顔面と肺を思い切り強打してすぐに立ち上がれない瑠衣に風太郎と井桁が駆け寄ってくる。サードの梅津、ショートの未来、セカンドの胡桃までもが心配そうな面持ちでその場に参じた。
「…………っはぁ!はぁ……はぁ……と、捕れた……」
「だ、大丈夫……?血……」
「なはは……。さっき消毒してもらったばっかりなのに」
瑠衣の美しい顔面への擦り傷。痛々しいものだが、本人はケロッと気にしていない。審判から手当てを提案されるものそれを拒否。問題ないとぴょんと飛び跳ねて起き上がる。
「いや、消毒くらいしろ。何かあってからじゃ遅いだろう」
「………この流れを止めたくない。岩代は少なからず動揺があるはずさ。ボクはすぐに再開したい」
「だが……」
「――梅津」
その覚悟の決まった凄みに、一心はこれ以上何も言葉を紡げない。プレー再開の為、瑠衣の周りからそれぞれの選手がポジションに戻っていく。
――パチパチパチ。
それはほんの小さな拍手。観客席の最前列の大人の一人が立ち上がって贈った瑠衣への拍手。それが球場全体に伝播し、いつしかスタンディングオベーションのようになっていく。
「すげえ!あんなん甲子園レベルだろ!小学生の女の子がやるかよ!」
「マジで実質決勝だなこの試合は!」
その感嘆の言葉を、一番近い特等席で聞いていた絢辻恭は改めて彼女に向かって帽子を取る。ナイスプレーを讃える敬礼に瑠衣はふふっと微笑んで帽子を取って返す。
(この土壇場で……すげえ奴だよ。アイツは)
瑠衣の努力を全て知っている、なんて綺麗事は言えない。だが瑠衣の試行錯誤、頭を抱えて悩んでいる姿は確かに見てきたのだ。
それを本番一発で成功させた彼女に心からの尊敬を。こんなにポジションが離れていなければ、抱きついて一緒に喜びたかった。だが……まだ試合は終わっていない。
(揺れる心が見えてんぜ、白山。)
三番バッターの白山はなんでもないという表情で打席に立ってはいるが……強がりだ。明らかに前の打席よりも足で地面を均す回数が多い。ルーティンのはずの審判への挨拶も無くなっている。
仕方のないことだろう。一度勝ちを確信した後、その気の緩みを子供がすぐに引っ込められるものか。
「プレイッ!」
審判のコールがあっても、未だどよめき続ける試合会場。初球に要求したストレートは構えたところよりも甘く高めに来たが……白山はそのボールをミートし損ねた。
「キャッチャー!」
「恭くん!」
「おにいちゃん!!!」
高々としたフライが、宙を舞う。バッターボックスから1メートルも離れていない地点のフェアゾーンで、絢辻恭は「オーライッ!」と大きく声を上げ、手を広げた。
ドクンッ!ドクンッ!
血液の流れがいつもより早い。それなのに、脚が鉛のように動かない。溢してしまったらどうしようと、そんな不安が脳の片隅によぎる。
極限状態のプレッシャー。それでも……この男はそんなものに負けはしない。
「アウト!ツーアウト!」
しっかりとボールの入ったミットを見て、恭ははぁ〜〜っと大きく息を吐く。思わず嘔吐してしまいそうな緊張感。これはどれだけ大舞台を経験しても慣れるものではない。
「ツーアウトだツーアウト!内野ボールファースト!」
「内野ボールファースト!」
恭から始まる内野陣の軽快なボール回し。最後にそのボールがエース三橋彩音のグラブに渡り……そして、ゆっくりと次のバッターが打席にやってくる。
「やっぱり、お前が来るよな。大人しく引き下がってくれるわけないか。」
アウトカウントは残り一つ。絶体絶命のこの窮地に、四葉花凛は不敵に笑った。




