第四十九話 三橋彩音の喪失 祈り
ーーーその日の、三橋彩音が自分から試合を投げ出した日の夜。彼女は近所の集会所で祭りに向けての横笛の練習をしていた。この地域では小学四年生の年齢になったら強制的に祭りで横笛を担当させられる。
なんでも今年は隣町と若連の連中が揉めたらしく町内会がえらく気合が入っている。夏休み初日から稽古が始まっていた。
祭りの神輿の中で横笛を吹くのは彩音も含めて5人。人数が少ないから練習初日からサボったら悪目立ちする。風邪気味で満身創痍だった彩音も、出席せざるを得なかった。
(…………ほんとだったら圭南子もここに居た筈なんやけどな)
圭南子はもう忘れてしまっただろうか。一年前のあの日にした約束を。あの日の楽しかった記憶を、りんご飴の甘酸っぱい味を。
その記憶を思い出すと、あったかもしれない未来を想像して胸が苦しくなって、ムカムカする。
最近自分のメンタルが身体の成長と共に明らかに不安定になってきたことを、彩音はきちんと自覚している。
それが成長期特有のホルモンバランスの乱れや、女の子特有の問題に起因するものだと理屈では理解はしている。だがこの内に秘めた怒りの炎を、煮えたぎるマグマを、制御する術を未だ彩音は知らない。
「こぉら彩音!そないに乱暴に吹いたらあかんやろ!1人だけ旋律から浮いてまう!」
「す、すまへん先生。ちょっとぼーっとしとったわ。」
擦り切れるような忙しくて過酷な日々の中で『何か』が積もっていく。
最強を目指す自分への不甲斐なさ、圭南子への周りの人間の不当な理不尽、チームメイトへの歯痒さ。身を焦がすようなこの熱は段々と彩音の身体に溜め込まれていく。
ーーーそしてそれは、彩音にとって最悪の形で表面化してしまうことになる。
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ーーーもう身も心も限界だった。
身体を汚され、心を踏み躙られた。それだけじゃない。母親への不信感、大人への不信感。そして人間への不信感。
ありとあらゆる圭南子に向けられる理不尽への我慢が、もはやはち切れる寸前まで来ていた。
「こんな日が暮れた時間に………帰ってきたら怒るだろうなぁ………ママはまだ……ウチのこと心配してくれるんかなぁ………」
声が掠れて日没直前の空に溶けて消える。帰ったらまた怒号や殴打が待っている。母親の気が狂った怒りをまた全身で受けなければならない。帰りたくない。
圭南子の帰りたいと思う『家庭』は、もう心のどこにもない。
(彩音ちゃん………彩音ちゃん………)
圭南子はもはや一筋の希望に、光に縋るほかなかった。ソフトボールの試合がいくら長引いても流石にもう帰宅しているはず。彩音に今日あったこと、言われたこと、母親の薬物のこと。全てを伝えて、聞いてもらって、楽になりたかった。何も心配いらないと、勇気を貰いたかった。もう大丈夫だと、励まして欲しかった。
ーーーだから、彼女の家の前で彩音に会えた時、圭南子はぐずぐずに涙を流して駆け寄った。
「彩音ちゃん!彩音ちゃん!」
「………何してん。こんな遅くに。」
「会いたかった!もう……頼れる人が彩音ちゃんしかおらん……もう……ダメや。」
「……………」
藁にも縋る思いで彩音の胸に飛び込む圭南子。背中に手を回し、ぎゅっと抱きつこうとしたその瞬間、彩音は彼女を拒絶するようにその手を跳ね除けた。
「………………え?」
「すまん………今日ちょっとウチ疲れてんねん。今日はやめてくれんか。」
その声色はいつもよりもずっとずっと低く、内に宿す不機嫌さが隠しきれない。今までの彩音には見られなかった冷たさに圭南子は面食らって彼女の言ったことを咀嚼するのに時間がかかった。
「でも……ウチは今……」
「でも、ちゃうわ。こないな夜に押しかけて……普通に迷惑やと思わんの?」
「彩音ちゃん……に……」
「………いっつもいっつも二言目には彩音ちゃん彩音ちゃんて。ウチはアンタの悩みをなんでも解決するドラ◯もんちゃうねんぞ。正直、ウザいで。」
彩音が圭南子をこの時少しばかり煩わしく思ったのは本当だが……何もこんな言い方をするつもりはなかった。だが一旦口をついて出た言葉はもう彩音には止められず、取り返しがつかない。そして彼女の中に秘めた行き場のない怒りが、その理性に反してその口が段々と滑っていくのを助長する。
「なぁ、いつまでウチの影に隠れて生きていくつもりや。来年になって五年生に上がったらクラス替えだってある。クラス別になったらいつも一緒には居られん。今のままで、圭南子はどないして生活すんねん。」
「彩音ちゃん聞いて!聞いてや!」
「もうええって!!!やかましい!さっさとウチの前から消えろ!」
まるで圭南子を虐めていた子供たちのように、圭南子とは関係ないイライラを彼女にぶつけて当たり散らす。
ーーーそれだけじゃない。
彩音は見ていられなかったのだ。彼女の理不尽な運命とそれに抗おうともせずに受け入れる、彼女の痛々しさが。
かつて憧れ、大好きだった圭南子はもう永遠に失われたのだと、そう認識したくなかった。
話を聞く気になれない。今の感情のコントロールができていない彼女はきっと酷いことを言ってしまう。本当に超えてはいけないラインを超える前にこの場から早く立ち去って欲しかった。
「彩音ちゃんは………もうウチのことなんかどうでもええの?」
圭南子の顔は暗がりでよく見えない。だが……彩音の目に映ったのは、そんな夏の暗闇でも隠しきれない、失意の色で染められた瞳。茫然自失といった状態で、声にも力がない。
「これも、ウチから離れるいい機会やろ。ウチに頼って縋って依存して………そんなん絶対健全な友達やない。」
「そっか…………そう……やね………」
彩音の言うことは怒りに身を任せながらも、正論だった。だから圭南子は言い返すこともできない。
間違いなく彩音は正しいことを言った。ただ……そのタイミングと言い方が本当にーーー絶望的なほど悪かった。
「彩音ちゃん………」
「………なに」
「さよなら」
帰り際の晴れやかな、久しぶりに見た圭南子の笑顔。その時の彩音には意味が理解できなかったが………それを理解したのは全てが終わった後ーーー取り返しのつかない事態が起こってしまった後だった。
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ーーーとても不思議な気分だった。
親友に拒絶され、自分の心は路頭に迷うものだと思っていた。たった一つの拠り所がなくなって、全てに絶望するものだと。
酷い疲労と倦怠感。それに間違いはない。だが心は思ったよりもずっと穏やかで……冷静だった。
いつもの見慣れたボロアパート。電気がついているのでもう母親が帰ってきているのだろう。
「こないな時間まで帰って来んかったら……殴られるんかな。ママは……ウチのこと心配してくれるんかな。」
もう夏の遅い日の入りもとっくに終わり、おそらく時計は9時近い時間を指しているだろう。家を出てきた時はまさかこんなことになるとは思っていなかったので書き置きも何もしていない。顔を殴られるくらいの罰は想定しておくべきだろう。
「ただいま」
鍵を開けて、床板が軋む部屋に足を踏み入れる。その声を確認した母親は、怒りに満ちた表情で彼女を出迎える。
「こないな時間まで何してたん。言ってみぃ。」
「…………ごめん。ママには話せんわ。」
「遊んできたんやろ。家に何の連絡も入れんで。」
ボロボロになった服。男達の不快な臭い。真っ暗なところで会った彩音はともかく、実の母親が何もわからないものだろうか。何かあったのではと察せないものだろうか。
そのまま無言の時間が続くと、堪忍袋の尾が切れたとばかりに母親が詰め寄って、彼女の胸ぐらを掴んでその鼻を直撃するように拳を喰らわせる。鼻の骨にヒビが入った感触。血の匂いが鼻腔を充満する。
「私は一生懸命!働いとんのに!あんたはそうやって!ママのことなんやと思ってるん!」
「……………」
身体を貫く怒号。怖くて脚がすくむが、圭南子にはもう言い訳する元気も、精神力も持ち合わせていない。ただ一つ………母親に真実を問いただしたい。それだけでなんとか正常な意識を保っていた。
「…………ママ。危ないおくすりやっとるん?」
その言葉を娘にかけられた後の母親の顔色の変化は明らかに異常だった。一気に血が引いたような蒼白の顔面、胸ぐらを掴んだ手は震えが止まらず呼吸も荒い。
「注射器………見たん?あんたママが注射打ってるとこ見たんか!」
「………やっぱり、やっとるんや。あかん……あかんのよママ。今ならまだ間に合うから………」
「うるさいっ……うるさいうるさいうるさい!ママの苦労なんてなんにも知らんくせに!」
瞳孔が完全に開き、圭南子を押し倒して馬乗りになりながら顔面に肘打ちをぶつける。眼窩が割れ、出血が酷い。圭南子の効き目である右手がもはや使い物にならなくなっていた。
「ママ………おくすりは、やめて。辞めるんを辞められんなら、自首して。お願い……もうおかしくなってるママを……見たくない……」
「あんたも………ウチの敵になるんか……ウチの!敵に!」
「お願い……お願いやから……」
娘は暴力でぐちゃぐちゃになった顔で、涙ながらに必死に訴える。だがもう母親には正常な状況判断力と認識能力が欠如してしまっている。圭南子をーーー自分の身を滅ぼしかねない敵と認識した。
「殺さな………私が牢屋に入れられてしまうねん」
「ママ……ママ!」
母親は馬乗りを解いて台所に向かう。そこから一本の包丁を手に取り、殺気だった目で圭南子を見た。
「賠償金も……借金も……圭南子に食べさせる金も……学校のお金も……家賃も……稼がなあかんねん。ママは……牢屋に入れんねん。殺すしかないんや!」
その時初めて、圭南子の母親は涙を流した。状況判断もできない、前後不覚になるほどの狂乱状態の中で、その口にした言葉が彼女が背負っていた重荷、抱えていた本音そのものだ。
襲いかかる包丁を持った成人女性。圭南子は朦朧とする意識の中で最後の力を振り絞って………近くにあったランドセルを手に取った。包丁をランドセルに受け止めさせ、そして思いっきり彼女の腹を蹴り上げる。
母親の手が包丁から離れ、尻餅をつく。圭南子の手には奪い取った包丁。見下ろす形になり……形成は完全に逆転した。
ーーー殺せる。
「ごめん……ママ。ママの背負ってたもの、ウチは全然わかってなかった。辛くて……お薬に逃げちゃうくらい、おかしくなるくらいキツかったんやな。」
「ま、待って……」
「ーーー今、ウチが楽にしたげる」
包丁を逆手に持ち替えて、圭南子はその刃を両手で母親の胸に振り下ろす。心臓をズブリと一突き。母親の口から、空気が漏れる音がした。
「がっ……なごっ………」
「安心してママ。ウチも……すぐそっちに行くから」
人の肉を切り裂く、生々しい手の感触。その目から完全に生気が失われて、力無い操り人形のように、物言わぬ肉塊になった自分の母親。それを見下ろした時に発露した圭南子の感情は……悲しみでも後悔でもない。ただただ可笑しかった。
「なんや……なんやねんこれっ……ふふっ、あはははっ!犯罪者犯罪者言われてたらっ………ほんまに犯罪者になってもうたっ。嘘から出たまことってこういうことなんかなぁ!あはははっ!」
返り血に濡れた、暴力の跡が痛々しい醜い顔。だがその表情は親殺しというショッキングな出来事を経て、どういうわけか晴れやかなものになっていた。
「彩音ちゃんっ……ウチ……彩音ちゃんに頼らんでもっ……もうなんでもできるっ。彩音ちゃんっ……彩音ちゃん!」
狂気に満ちた瞳。人殺しに堕ちてなお、彼女の頭の中にあるのは彩音のことばかりだ。あれほど酷い拒絶をされてなお、圭南子は彩音を大好きなまま。それでも……もう仲直りの機会は永遠に巡って来ない。彼女はこれからスターの道を歩む人間で、自分は凶悪犯罪者。もう彼女と話す機会は2度とないだろう。
「…………彩音ちゃん」
最後に……もう一度、一目でいいから会いたい。
「彩音ちゃん……」
彼女の名前を呼ぶ声は徐々に弱くなり、涙を帯びてくる。自分は彼女に拒絶された。だから彼女のことを思う資格なんて、圭南子には無いはずなのに。
ーーーどうしてこんなにも、彼女ことを思い抱く度、愛おしくて仕方がないのだろうか。
走馬灯のように巡る、彼女との楽しい記憶。悲しかった記憶。嬉しかった記憶。その全てが特別で、まるで今とは別世界の出来事のようで。
「最後にっ……ありがとうって……言いたいっ……」
精一杯の祈りが、神にもようやく届いたのだろうか。
ーーー圭南子の家の電話の、音が鳴った。
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湯船に髪まで浸かりながら、三橋彩音は人前では見せないボーッとした表情で水滴が滴り落ちるバスルームの天井を見上げていた。
「…………絶対言いすぎた。どー考えても言い過ぎた。ウチは一体なにをしとんねんホンマに」
湯船の中に疲れと共に後悔が溶け出していく。
頭の中にあるのは直前の圭南子とのやり取り。言ったことが全て間違っているとは思わないが、それでも後から振り返れば悪いのは100パーセント彩音の方だ。
ヒートアップして、どう考えても言わなくていい言葉まで圭南子にぶつけてしまった。あれはただの幼稚な八つ当たりだ。
『会いたかった!もう……頼れる人が彩音ちゃんしかおらん……もう……ダメや。』
あの時の圭南子の表情は見えなかったが……後から考えれば圭南子があれほど取り乱して助けを乞いに来るのはそうあることではない。
ーーーなぜ話を聞いてやるくらいできなかったのか。門前払いの末にあんな別れ方。いくら機嫌が悪かったからとはいえ友達に、親友にしていい仕打ちの範疇をゆうに超えている。
「頭下げて謝らな。月曜の学校で……あ、今夏休みよな。アカンやん。」
悠長なことを言っている場合ではない。たった一度の癇癪で人生の大親友を失うかもしれない。湯船からガバッと立ち上がった彩音はバスルームを出て部屋着に着替えると真っ直ぐにリビングへと向かう。
「オカン、ちょっと出掛けていい?圭南子の家に行きたい」
「はぁ!?今何時やと思ってん。こないな時間に押しかけたら迷惑やろ。」
「それはまあそうなんやけど………ひっどい喧嘩しちゃったんよ。しかもウチが10:0で悪いねん。圭南子に頭下げて謝りたい。」
「…………もう9時すぎや。明日じゃあかんの?」
「なんか………今日中じゃないと取り返しのつかんことになりそうな気がすんねん。」
ちょうどリビングでテレビを見ていた彩音の母親は、また娘が突飛なことを言い出したと難色を示したが、その表情が真剣だと分かるとすぐに突っぱねるようなことは言わなくなった。
「電話は一本入れとき。それだってまあ大迷惑やけど。いきなり押しかけてインターホン鳴らすよりはええ。」
「ーーーっ、そうする!」
「誠心誠意頭下げて、ちゃんと謝って伝わるとええな。圭南子ちゃんも頭のええ子やから。」
「大丈夫や!圭南子ならわかってくれる」
善は急げとばかりに受話器を取り、かけ慣れた電話番号を入力する。ワンコール、ツーコール。いつもなら5コール以内には出てくれる筈がこの日はいつまで経っても出てくれなかった。
生唾をごくりと飲み込む。彩音の背筋に緊張が走る。プルルルというコールの音がまるでスローモーションかのようにゆっくりと聞こえた。




