第四十八話 三橋彩音の喪失 境界線
彩音が圭南子を守ると誓ったあの日から、よく圭南子は三橋家に遊びに来てご飯を食べるようになった。
彩音の目論見通り、お人好しな両親は珍しく頭を下げて頼み込んだ彩音のお願いを快く受け入れた。それほど裕福な家庭ではないが、彩音の後に子供を作りたくても作れなかった2人だ。むしろ家族が増えた感覚で、食卓に1人加入したことを喜んでいるように見えた。
「今日はおばちゃん特製のカツ丼やでぇ。カナちゃんの好みに合わせてあまーく煮たからなぁ。」
「ありがとうございます……だけど……」
「あぁ……オカン。圭南子は白いご飯食えへんねん。なんか見ると気持ち悪くなっちゃうみたいで……給食でも全部残してしまうねん。」
「あらぁ大変。なんやろ、この前来た時は普通に食えとったのになぁ。」
ーーー圭南子は突然、白米を食べられなくなった。口に運んだ途端にトイレに駆け込み、それを嘔吐してしまう。
それが圭南子が食べる茶碗に砕いたガラスの破片を混入させていた、彼女の母親の痛々しい虐待の傷跡だと彩音が知ったのは……もう少し後の話になる。
「ごめん……なさい……」
「ええのええの。彩音なんて昔はあれ嫌いこれ嫌い言うてなぁ。大変やったわ。」
「わがまま放題なんは今も一緒やけどなぁ」
「オトン、言わんでええやろ今それ」
多少の重い雰囲気はガハハと笑い飛ばして消し飛ばす。そんな明るい気質の両親2人の存在が、圭南子にとってどれだけ救いになっただろうか。
ーーーいじめも、目に見えて減った。
事件から結構な時間が経ったことも要因の一つだが、やはり四六時中側にいる彩音の存在が大きかった。
彼女が本格的な成長期で身体が大きくなり、ソフトボールのための筋トレが身を結んだことも相まって、イジメに来た小学生の男連中くらい片っ端からボコボコにできるようになったからだ。
学校に女番長として君臨する彩音の保護下にある圭南子。相変わらず無視といった女の子達の嫌がらせ行為は続いているが、前よりは幾分かマシにはなっている。
三橋家総出の支援によって彼女の顔色は少しずつ良くなった。冬を超えて四年生に進級した春になる頃には笑顔も見せてくれるようになった。
ただ………日に日に虐待の痕は増えていく。5月が近くなって気温が上がると着る服が長袖から半袖になって……腕に刻まれた内出血は衆目に晒されることになる。
「………大丈夫、ちゃうよな。」
「しゃーないねん。コレでしかストレス発散できひん人やから。しゃーないねん……ウチが我慢するしかない。」
この事態に先生達もようやく重い腰をあげ、児童相談所も動く。彩音にとっては『遅いわボケ』と言いたくなる話だったが……これまで孤軍奮闘で戦ってきたことを考えれば十分すぎる進歩だった。
▼△▼△▼△▼△▼△
一冬を超えた彩音は、目に見えて身体も投げるボールも強くなった。
「ゆ、夢……?夢ちゃうよな?」
「彩音ぇぇぇ!!!勝ったんや!勝ったんやぞ!」
その成長スピードは驚異的で……そのピッチングは彼女の調子次第でチームを1人で勝利に導いてしまうほどに圧倒的だった。
彩音が小学生四年生の5月半ば。彼女のチームは初めて大会で優勝した。参加チームは4チームとごく小規模の大会だったが、初めての優勝。この成功体験が、チームの意識を大きく変えた。
「カントク!もう週一の練習じゃ足りん!平日もやろ!」
「彩音のためにももっと上手くならんと!」
そんな声が選手たちや保護者達から自然と飛び出すほど彩音のピッチングは眩しかった。この才能をこんなところで浪費させるわけにはいかない。それが、彩音の圧倒的なピッチングを見た人間達の共通見解だった。
彩音がずっと待ち望んで、孤独に腕を振って、走ってそして勝ち得た結果と周りの評価だ。嬉しくないわけがない。ようやく、自分の思い描いたスターダムに一歩近づいた。この道を突っ走ることに何の疑いもなく、彼女はよりソフトボールにのめり込んだ。
そして練習量と、ソフトボールに拘束される時間が長くなればなるほど……当然ながら圭南子に費やせる時間は減っていった。
「彩音ちゃん……今日は……」
「すまん、圭南子。この後すぐ練習やねん。明日は陸上の方も出なあかんし……しばらく一緒には帰れんわ」
「そ、そうなんや」
こんな会話が、日常によく増えていった。この頃の彩音は自らの驚異的な成長スピードに自分でもついていくのが精一杯で……はっきり言って他の人間に思いを馳せるような余裕は無かった。
その年の夏、四年生中心の彩音達のチームは五年生以下、Bチームの大会に参戦するようになり、そしてその大会でほとんど優勝をかっさらっていった。
夏休みを迎える頃には六年生とも互角に戦えるほどの急成長を遂げる。もはや1人で弱小チームをのし上げたスーパーエース三橋彩音の名前は、周辺のソフトボール関係者の間で『怪物』として有名になっていた。
彩音が望んだ日本一のピッチャーへ、完全に足場は固まった。並行して続けてきた陸上競技でも長距離走でその年のナンバーワンを掻っ攫った。
あらゆる地道な努力は身を結び、世界が自分を中心に回っていると本気で錯覚するほどに何をやっても成功した。
やれることが増えていくと共にさらに彼女に向ける期待と、そして彼女がこなすタスクはどんどん増えていく。勉強、ソフトボール、陸上競技、水泳、さらにお祭りに向けて地域の集会所で横笛の練習もある。
息抜きすら許されない、小学生としてはあまりに激務の生活の中で、少しずつではあるが自分でも気が付かないうちにフラストレーションは溜まっていく。
迎えた夏休み初日の土曜日。その日はいつものようにソフトボールの大会があって……そして彩音は朝から熱っぽかった。
ーーーその日三橋彩音は人生最悪の1日を迎えることになる。
▼△▼△▼△▼△▼△
夏休み初日は生憎の大雨。圭南子はボロアパートの窓越しから降り頻る大粒の雨音を聞いて、物思いに耽っていた。
「こんな雨の中でも……彩音ちゃんは元気に投げとるんかな」
それまでの周囲の三橋彩音への評価は決して良いとは言えない。容姿と面倒見は良いが、粗暴で喧嘩っ早い。何より犯罪者の娘である圭南子とつるんで、庇って……そのせいでどれだけ鼻つまみもののような扱いを受けてきたか、それを間近で見てきた圭南子は知っている。
だが最近はそんな陰湿な扱いもだいぶ減ってきた。彩音が『結果』という形で周囲を黙らせ始めたからだ。
ただ……人に向けられる悪意というものは一定で、減るものではない。彩音に向けられなくなった分の悪意の矛先は……彼女が目を離した後の圭南子に全て降りかかってきた。
それを彼女に相談できていたらどれほど心強かっただろうか。けれど……順風満帆に夢を叶えるための道を歩く彼女の邪魔になることだけはしたくなかった。これ以上の迷惑をかけないこと、それが今の自分にできる精一杯の努力だと、そう思っていたから。
「彩音ちゃんはウチの……ヒーローや……」
夏休みの宿題を目の前にして、ぐったりとテーブルに突っ伏す圭南子。お腹が空いて、栄養失調の影響で体と頭の動きが鈍い。加えてこの年の酷暑はエアコンもないこの部屋で過ごすにはあまりにも厳しかった。
その時、彼女の家の電話が鳴った。母親はもちろん働きに出ていて今はいない。その電話は圭南子が取らねばならない。
「はい……もしもし。セールスならおひきとり……」
「圭南子か。お前、今から青山神社に1人で来い。ちなみに命令や。」
「は……?あんた誰?なんでウチの名前を知ってん。」
「こっちはお前の家庭がぶっ壊れかねん情報を握ってる。つべこべ言わず早よ来い。」
聞き覚えのない声。明らかに声変わり後の男の人の声。だが大人というほどでもなく、多分中学生くらいだろう。
「お前のオカン、ヤクやっとるぞ。サツにバラされたらお前の家は一巻の終わりや。」
▼△▼△▼△▼△▼△
ーーー1球投げる度に、肺が張り裂けそうなほど痛い。
身体が重くて、指先の感覚がない。腕を振ることで精一杯でコントロールが定まらない。
天気が大荒れの中結構された大会。そんな絶不調の体調の中でも彩音のチームは準決勝まで駒を進めた。もちろん彩音以外にピッチャーなんていないので全試合完投。コンディションが整わない時でも打たせてとる省エネ投球で試合を作るのが彼女が麒麟児たる所以である。
だがそんな誤魔化しが効くのも午前中まで。午後を過ぎたら明らかに不調は表面化し、彩音は膝に手をついて肩で息をする場面が多くなった。そんな彩音に、タイムをとって駆け寄ってきたカズヤがマスクを取って声をかけに来る。
「おい彩音……イケるか?大丈夫なんか?」
「………大丈夫じゃなくてもいくしかないやろ。ウチがエース……なんやから……チームを勝たせられるんは……ウチしかおらんねん。」
苦しくても、辛くても、チームを背負って最後までマウンドに立ち続けるのがエース。そもそも登録人数は9人ぴったりの上に予備のピッチャーなんて1人もいないチーム事情も相まって、マウンドを降りる選択肢は存在しない。
(しかし……この相手、妙な連中やな。)
地区レベルでもいいところ中堅くらいの相手。それでも彩音達にとっては6年生が主力で出ているチームの時点で格上ではある。
だがそんな格上の相手が普通に打ってきたのは打者一巡するまで。そこからは1球目からバントの構えをして、引いて、追い込まれたら粘ってカットだ。揃いも揃ってワンパターンすぎて笑ってしまうほど謎の作戦は徹底されていた。
「とりあえず、彩音はもうバント処理走らんでええ。ファーストサードと、俺で全部カバーする。」
「あ?なんで?カズヤいつもはうるさいくらい前に出てこいって言うやん。」
「………お前まさか気づいてへんのか。相手がやっとるんは攻撃やなくて、お前への『削り』や。お前が体力を消耗するほど相手の思う壺やねん。」
「削り………?」
一瞬その日本語が頭を通り過ぎて、意味不明すぎて頭がフリーズした。彩音の単純な脳では思いつきすらしない、悪魔的な戦術。小学生のピッチャーを揺さぶって、走らせて、体力を尽きたところを滅多打ちにする。その狙いが相手のやってきたことと頭の中で繋がった瞬間、彩音は激しく唇を噛んだ。
「なんでやねん……ピッチャーとバッターの戦いは……神聖な魂のぶつかり合いやろ。プライドをかけた戦いやろ。なんかの間違いちゃうんか。」
「もう二回くらい相手の監督が審判に注意されとる。それでもルール違反やない。ピッチャーが1人しかおらんウチにはよー効くわ。」
「ふざけんな。相手の監督に蹴り入れたる……」
「アホ。そうやってイライラすんのも思う壺や。相手が勝手にアウトカウントくれとるのも事実。ウチがリードしとるんやから自分を抑えてクールに淡々とアウト取っていけば、絶対相手の方が焦って先に痺れを切らすわ。」
激昂する彩音を宥めるようにカズヤは冷静に状況を分析する。カズヤは性格は最悪だが、嘘は言わない信頼感がある。怒髪天をつく勢いの怒りの噴煙が、彩音の中で徐々にクールダウンして収まっていく。
「イライラすな、走るな。要はこれだけや、オッケー?」
「………了解」
「あと怪我があったら大変やから、なんかあったらすぐ言え。それだけ。」
カズヤがマウンドから去る。そこで曇天の空を見上げながら。顔に打ちつける雨粒にも構わず彩音はすぅっと深呼吸する。
ーーー少し前から、違和感があった。
6月が始まったあたりからだろうか。彩音と対戦する相手チームのバッター達が、皆一様に諦めたような顔をしてくるようになったのは。
どうせ打てない、バットに当たれば儲けもん。
そこそこ強いチームでも、一巡目にあった闘志が回を重ねるごとに絶望に変わっていく。彩音が望むこのスポーツの醍醐味、ピッチャーとバッターの魂のぶつかり合い。それは彩音自身が血反吐吐いて努力して、成長を遂げて強くなっていく度に遠のいていく。
それを自覚した瞬間に、彩音は膝から崩れ落ちるような虚脱感に見舞われた。
(削り……か。アイツらが本気で打ち崩そうとして向かってくるんは、ウチが完全に投げれなくなるまでガス欠した後かい。そんなん……あんまりやろ。)
自分が努力する理由。やるからには日本一のピッチャーになりたいと漠然とそう願って、突っ走ってきた。それでも苦にはならなかったのは、そのプライドを賭けた魂のぶつかり合いが楽しくて、心地よかったからだ。
それが失われたと自覚した今、自分は何を拠り所にあの血の滲むような努力に耐えれば良いのか。
「おもんない」
1球目、変わらずバントの構えをするバッターの腰が引けるくらいギリギリのインコースに絶品のストレート。
「おもんないっ……」
ど真ん中へのストレート。だが球威に押されてバントする手が弾かれてファールになる。
「おもんないねん!ボケぇっ!!!」
アウトローへの新球高速スライダー。ストライクからボールになる絶妙なコースに決まり、腰が引けたバッターは空振り三振。結局粘り切ることもできずチェンジになった。
敵味方問わず驚愕の目で彩音を見る両軍ベンチと観客席。その身に纏うはまさに修羅の如く。これが生まれて十年ほどの女の子が放つオーラだろうか。その射殺すような視線に子供大人関係なく震え上がる。
毅然と背筋を伸ばしてベンチまで行き、そこで力の抜けたマリオネットのように倒れ込んだ。
「あ、彩音っ!大丈夫か?」
「………力、入らん。あかんな。」
筋繊維の方にかなり多大なダメージが入ってはいる。風邪気味の身体は今にも悲鳴をあげて辛い。だが、いつもならこのくらいはハンデと割り切って根性で立ち上がってマウンドに上がり続けた。
しかし……今の彩音に、もうそんなことができる情熱は、轟々と燃え盛る心の火は灯っていない。
「か、監督!これどうなんの?外野も無理やろこれ」
「ウチは9人ぴったりやから……棄権、するしかないやろ」
「そんな……」
結局、その回の攻撃が終了した後も彩音がフィールドに出ることはなく……チームの棄権が確定した。
雨の音がやけに静かに聞こえる。
三橋彩音は人生で初めて、自分から勝負を投げだした。
▼△▼△▼△▼△▼△
「ちゃんと1人で来たか?アホの彩音は今日試合やもんな。」
「それより………聞かせて。ウチのママが薬やっとるって。なんの証拠があって言ってんねん。」
降り頻る雨の中、呼び出された寂れた神社の境内に1人で訪れた圭南子。そこには見るからに中学生くらいの不良のグループが5人ほど屯していた。
(いや……1番奥にいる男の子は…‥公園でウチのこと虐めてきたやつやん。小学生もおる。)
ヤバそうなオーラがムンムンに出ているアウトロー集団。今すぐにでも逃げ出したい気持ちはあるが……彼らの言う重大すぎる事案を詳しく聞くまでは絶対に引き下がれない。
中心にいるボス格っぽいヤンキーが最初に話しかけてきた。圭南子はソイツに向かって背筋を伸ばして毅然とした態度で会話に臨む。
「オレの兄貴の友達でヤクの売人やっとる奴がおってな。その人が売った顧客リストの中にお前の母ちゃんの名前があったらしい。相当な太客やからその人も覚えててん。」
「………名前だけ同じ別人かもしれんやろ。ママは賠償金返すために、ウチを育てるために一生懸命働いてんねん。変な侮辱すな……」
「かっかっか。そうかもなぁ。でも1番近くにいるお前が1番気づいてるやろ。ここ半年でそのママの様子、だいぶおかしくなったんちゃう?日常的に暴力とか、意味わからん理不尽な言動増えたやろ。」
「それは………」
あまりにも、心当たりがありすぎる。家に帰ってきた後の圭南子の母は常に情緒不安定で、本当に何をしでかすかわからない。圭南子は賠償金と仕事のストレスだと決めつけていたが……改めて考えれば薬の仕業なら納得がいく。
「お前のオカンは賠償金なんて返してへん。それどころかヤクのために闇金で借金までしとるらしい。恐ろしい転落人生やわぁ。目も当てられんな。」
ぎゃっはっはと周りの取り巻きから下品な笑いが起こる。人の不幸は蜜の味を地でいくクズ共に、圭南子は蔑みの視線を向ける。
「………それで。ウチにこの事実伝えて、何がしたいねん。なんのために呼び出してん。」
「決まっとるやろ。お前で遊ぶ。」
腕を掴まれた。振り払おうとした瞬間、頬に衝撃が走る。
視界が揺れ、降り頻る雨音が遠くなる。
「抵抗すな」
「丈太郎さんずるいっすよ。俺たちにも女触らせてや!」
「こんなの……許されていいわけ……」
「頼みの彩音ちゃんは来れんぞ。お前よりソフトボールに夢中やからな。」
その後は痛みと気色悪さに耐えるだけの時間だった。複数の手が、容赦なく体を押さえつける。恐怖で声が出ない。
(助けて)
声にならない声が喉の奥で震える。笑い声。濡れた地面の冷たさ。押さえつけられた腕の痛み。
空は灰色のまま変わらない。時間の感覚が、壊れていく。
それでも壊れずに耐えたのは、いつか圭南子のヒーローが助けに来るとそう願っていたから。こんな奴らをギタギタにぶちのめして自分をさらってくれる、そんな神様みたいなヒーローが来てくれると信じていたから。
「あやね……ちゃん………」
気づいた時、もう空の色は変わっていた。
ーーーその日、圭南子の信じたヒーローは助けには来なかった。
「オイお前、先公とかサツにチクるんちゃうぞ。母親が人質に取られとんの忘れんな。」
「うぐっ……ぐずっ………」
倒れこみ、絶望する圭南子。夏の遅い夕暮れの中、圭南子はただひたすらに泣き喚き、彼らを呪うことしかできなかった。




