第四十七話 三橋彩音の喪失 転落
お祭りから数日後のこと。幻想的な非現実から日常に戻った彩音たち。
小学三年生の春にチームを結成し、夏に初陣を飾ったばかりの彩音達のチームは……。
「30-0で浪川スポ少。ゲームセット!」
ーーーこの秋、嘘みたいな点差でボコボコにされていた。
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「なんやねん一回コールドってぇ!ウチ打席すら回って来んかったんやが?しかも30-0て!ラグビーやっとんのかウチらァ!」
朝6時に意気揚々と出発して行ったのが嘘みたいに、午前中にホームグラウンドへ戻ってきてしまった。ミーティングが終わって解散した後、三橋彩音の怒号、というよりは強烈なツッコミがグラウンドに響き渡る。
「しゃあないやろ。僕らはみんな三年生か四年生でソフト自体も未経験がちょびっと上手くなったくらいや。他のチームは6年主体で戦ってんねん。だぁからBチームの大会出ようて監督も僕も言うてたのに。」
「二軍の試合で投げるなんてウチのプライドが許さん」
「一回で30点取られたピッチャーがプライドとかよう言うわホンマ」
彩音の隣に座って怒れる彩音を諭すのは、同級生でキャッチャー、彩音の相棒の知野カズヤだった。快活で破天荒な彩音と対照的に陰気で皮肉屋の少年。
ちなみに彩音とは幼稚園からの幼馴染でずっとクラスが一緒の腐れ縁。こういう言い方をすると何かしら邪推する輩が現れそうだが、本当の意味の腐れ縁である。
「まあええわ。ウチが日本一のピッチャーになる栄光のチャンピオンロードはすでに定められてんねん。ウチはそれに向かっていーーっぱい投げて走って筋トレしてってやるだけやし。」
「いやいや、日本一て。ならこんなド素人集団集めとる場合ちゃうやろ。教えるの上手い人のチームに行ったらええ。」
あまりに非現実的な大言壮語にカズヤも呆れ顔。だが彩音は目をキラキラさせ、自分の目標に何一つ疑念もない。
「わかってへん、わかってへんよカズヤは。この世界はウチを中心に回っとる。勝利の女神様がウチの背後で爆笑してくれてんねん。だからこの世界で起こることにウチの都合の悪いことは一つもない。」
「は?」
「フライもまともに捕れんヘボい味方も、ウザイ相棒も、強すぎる敵もぜーんぶウチの肥やし、乗り越えるべき壁になんねん。この壁をウチの力でぶち破った時が、ウチがスーパー彩音ちゃんに進化する時っちゅうこと。」
目の覚めるようなポジティブシンキング。だがその言葉は裏を返せば……言われたヘボい当自者にしてみれば、それは味方の成長になど全く期待していないということではないか。
「僕らはただの壁か。ゲームの強化素材ちゃうねんぞ。」
「いやいや、感謝はしとるよ?9人おらんとまず試合も練習も出来へんし。」
「そういうことちゃう!もうええわ!彩音なんて知らんっ。お昼休みのキャッチボールもやらん。僕は皆とサッカーやるわ!」
カズヤがプンスカと怒ると荷物をまとめてそそくさとグラウンドを後にしてしまう。彩音側には悪気はないのに相手を怒らせてしまうのは割といつものことだ。そのせいで友達などと呼べるのは同じ小学校でも1人しかいない。
「彩音ちゃんまーたカズヤくんと喧嘩したん?」
「のわぁ!?え?圭南子!?なんでここいるん?」
「1試合目で負けたって連絡きたから。今の時間にここいるかなって、ここ通ったついで。ていうかあかんよ彩音ちゃん。さっき半ベソかいたカズヤくんとすれ違ってん。また彩音ちゃんが泣かしたんやろ。」
腰に手を当てながら彩音を叱る、この藍沢圭南子こそが、三橋彩音のたった1人の親友だ。
「泣かしたんちゃう。勝手にベソかいて逃げて行った。」
「もう!そんなんだからみんなから誤解されてウチ以外に友達できひんねん。そういうとこちょっと直したほうがええよ。」
「ええのええの。圭南子が居てくれたら。」
圭南子の肩にほっぺをすりすりして甘える彩音。圭南子もこんなに可愛い姿を見せられては叱るに叱れない。
「ほんで?さっき通ったついでって言うてたやん。何しに行くつもりやったん。」
「お昼ご飯のお買い物してたんよ。今日はパパがおらんから車も使えんし……彩音ちゃんもお昼食べに来る?」
「え?ええの?いきなり押しかけて悪ない?」
圭南子はとことことお上品な早歩きで彩音から離れていく。その先には手を振る圭南子ママの姿。どうやら母親を待たせながら喋っていたらしい。
ちょうど彩音のお腹がぐぅ〜っと鳴る。お昼ご飯にと持って行ったお弁当はもう今日の試合前に平らげた。成長期の女の子はいつでもどこでもお腹ぺこぺこである。
「あははっ……なんかアニメみたいやなぁ。彩音ちゃん。みんなでお昼食べよっ」
「ううっ……でもウチ汗臭いで?着替えもジャージやし。恥ずかしいわ」
「ウチでシャワー浴びよ?アレなら着替えも貸そか?」
手を差し出し、こちらを掴んでくれる圭南子。彼女の天真爛漫な笑顔を見るだけで、嫌なことがなかったみたいに頭から流されていく。彩音の親友は、『親友』なだけではなくて、彩音の心の支えでもある。
「あら彩音ちゃん久しぶりやねぇ。元気?昔は毎日放課後家に遊びに来てたのになぁ。」
「すません。ソフトとか色々忙しくなってもうて」
圭南子の母親にもペコリと挨拶する彩音。いつも微笑みを絶やさず上品な気質の彼女は上流階級の若妻マダムのような概念を具現化したような見た目をしている。この辺で日傘をさして歩いている人など彩音は彼女以外に見たことがなかった。
「彩音ちゃんは三年生やのに放課後陸上部に混ざって走ってんねん、。朝も走っとるのよく見かけるし……ほんまにすごいわぁ……」
「彩音ちゃんは昔からスポーツ得意やったもんねぇ」
「まぁ……陸上は上級生に着いて行くので精一杯やけど。でもむっちゃ楽しいです。けど、毎日圭南子と一緒にアホなことやって遊んでた時が、ウチの中で今でもいちばんの思い出ですから」
圭南子がそれを聞いて嬉しそうに彩音の小指を掴むと微笑ましい光景に圭南子ママがくすりと笑う。
圭南子の家は父が有名な企業のお偉いさんで、母とは結構な歳の差婚だったらしい。父親も穏やかな性格で、家庭は裕福。蝶よ花よと育てられ、何不自由ない生活。彼女の家は彩音にはまさに理想に見えた。
その時、連なった3台ほどのパトカーが彩音たちの前を通り過ぎた。彩音たちが歩いているのは既に住宅街。その物騒な雰囲気は彩音がいつも見ている平和な景色には到底マッチしない。
「なんやろ。珍しな。」
「彩音ちゃん知らんの?この近くで轢き逃げあったんよ。部活帰りの高校生2人死んだんやて。」
「………ウチニュースとかあんま見いひんから」
そこからまた他愛もない会話が続く。日常のこと、宿題のこと。嫌いな先生のこと。彩音といる時だけは圭南子も年相応の女の子でいられているように見えた。
だが……歩けば歩くほど3人の中に現れる妙な胸騒ぎと緊張感。それもそのはずだ。圭南子の家に向けて歩いているのに、パトカーの音は遠ざかるどころか、逆にどんどん大きくなっていく。それはまるで……。
(これじゃ……パトカーぎょーさん止まっとるところに向かって歩いとるみたいやんか)
「…………圭南子」
「彩音ちゃん」
一瞬のアイコンタクトと名前を呼び合っただけだった。それでも2人は阿吽の呼吸で同時に走り出す。背中に明らかに暑さのせいではない冷たい汗がたらりと滴る。どうかこの妙な胸騒ぎが現実にならないで欲しかった。
(ちゃうよな!ほんとに……ちゃうよな!)
だが……走って走って、走って……角を曲がった先で彼女たちが見たもの。それはあまりにもあんまりなもので。
「圭南子……彩音ちゃん……」
「パパ……」
「嘘……やろ………」
圭南子の自慢の優しい父親は、警察官に誘導されパトカーに乗せられていた。その手に…手錠をかけられて。
サイレンの音だけが、やけに遠く響いていた。
その日、三橋彩音の無二の親友の運命は突然に……あまりにも突然に捻じ曲がり……幸せだった日常は一瞬にして崩れ去った。
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まだ小学校低学年の彩音に知らされた情報は、大人のそれほど多くはない。
だがその少ない情報の中でも、彼女の親友がどれほどの窮地に立たされているのか、それは幼い彩音にも理解できた。
逮捕から二日前の金曜の夜。夜の9時ごろに、圭南子の父親は部活帰りの高校生2人と衝突事故を起こした。近隣の住民が発見した時にまだ2人の意識はあったそうだが……2人とも病院で死亡。だが事故現場にも病院にも彼の姿はなかった。
これだけでも言い訳のしょうがない悪質な轢き逃げ。だが事態をもっと悪化させたのは、彼の車が取引先との食事の帰りに運転されていたこと。
そう、飲酒運転だったのである。
父親は逮捕され、牢の中に入った。後に残された家族にまず待ち受けたのは、卑劣な犯罪者を家族にもつ二人への社会的な責任の追求と死なせた高校生二人分の遺族への莫大な賠償だった。
「ほんまに……圭南子がここに住んどるんやな」
「………良いとこやろ。前よりはちょっぴり狭いけど。寝床があるだけマシと思わんと。」
ーーー湿ったコンクリートの匂いが鼻に残る。
壁の向こうから、誰かのテレビの音がかすかに漏れていた。ここが、圭南子の新しい家だった。
有名会社の重役だった父親の稼ぎは当然ながらもうない。金を作るには今あるものを売らなければならない。立派だった一軒家とその中にあった家具はすぐに売りに出され、圭南子と母親はボロアパートにその住居を移した。
家の周りには浮浪者のような人間もたくさん居て、明らかに治安も悪い。同じ学区内にあって彩音と離れないで済むというのが圭南子にとっては唯一の救いだった。
「………大丈夫か?」
「ウチはへーき。けど……ママが心配や」
圭南子の母親はこの何週間かでとてつもなくやつれた。お金を作るためにアルバイトを掛け持ちしながら働いていると圭南子は言う。そして……頬のぶんず色の内出血の跡。これはこの前の休みに被害者の家に謝罪に赴いた時に殴られた痕跡だ。
傍目から見ても……もう既に圭南子ママは限界だ。だが自分に解決してあげられることなんて殆どない。彩音は自分の無力さを呪って歯を噛んだ。
「学校行こか。もうそろそろ行かんと遅れてまうな。」
「………彩音ちゃんの家ここから結構遠いやろ。ウチのために何時に出てきてん。」
「朝のランニングにちょうどええの。ランドセルの負荷があって効果三倍やな。」
この何週間。彩音は登下校中、学校にいる間、ずっと片時も圭南子の側を離れなかった。みんなから怖がられている自分が目を離したら、圭南子がどんな目に遭うかは火を見るより明らか。彩音にもそのくらいの想像はできた。
しかし……そんな生活が二ヶ月も経って圭南子も彩音も少し気が緩んできた時に、事件は起こった。
「なにっ……してんねんお前らぁぁぁぁぁ!!!!」
突っ込んで来た彩音の飛び膝蹴りを腹にモロに喰らう男子。同じ学校の二つ上。彩音も何度か廊下ですれ違って、話したことはないものの見知った顔だ。
ソイツが公園で圭南子を這いつくばらせながら、頭に汚い足を乗せていた。取り巻きもニヤニヤしながら圭南子を囲んで逃げられないようにしていた。
ーーー頭に一気に血が昇り、気がついたら手も脚も出てしまっていた。
身体も大きい上級生だが、すばしっこい彩音を止められない。本当は全員気絶するまでぶん殴ってもう変なことを考えないように調教してやりたかったが、流石に複数人相手ではちみっこい女の子の彩音には無理だ。地面に泣きながら這いつくばる圭南子を救出していじめっ子グループから素早く距離をとる。
「お前ら……年下の女の子寄ってたかって囲んでシバいて……恥ずかしくないんかボケ共!」
「ボケはお前やカス。お前この犯罪者の肩持つんか?」
「犯罪者ァ……?」
自分でもびっくりするくらい、怒りに満ちた声が漏れた。自分が冷静じゃない、そのことを自覚してなお湧き上がるマグマのような怒りに身が焦がれる。
「オカンが言うてたわ。コイツの父親はその場で止まって救急車呼んでたら助かったかもしれん命を見捨てて逃げたクズやって。クズの子ぉはクズ。神様の代わりにバチ当ててやっとんねん。」
「…関係ないやろ。そら圭南子のパパはそうかもしれんけど……圭南子はなんも関係ない!圭南子が何してん!」
「犯罪者の分際で公園の鉄棒を使おうとしてたんや。ここはみんなの公園やのに。ぶん殴られて当然やろ。」
ーーー話が通じない。
タチが悪いのはこの男たちは本気で悪を裁いて罰を下している気分になっていること。自分の行いが正義で正当化されていると思い込んでいる人間の行動は、最も残忍で冷酷だ。
「………悔しいけど、逃げよ。圭南子。」
「あやね………ちゃん………」
「戦略的一時撤退や」
彩音は怒りで我を忘れることはなかった。ただ圭南子をおぶって走っても追っ手をかわして逃げ切れるくらい力が出せた。5分くらいの住宅街での追いかけっこの末、いじめっ子たちはもう誰も彩音と圭南子を追ってこなかった。
「火事場の馬鹿力やな……まさか逃げ切れるとは」
「大丈夫……?ウチのことおんぶしてあんな……重かったやろ」
「軽い軽い。ほんまに……軽なったな。」
この数ヶ月で、圭南子はみるみるうちに痩せていった。ダイエットとかそういう次元ではなく、明らかな栄養失調、ガリガリに痩せ細っていったというのが正しい表現か。お金がなく食べるものがない、そんな切実でどこか彩音には非現実的な問題が親友に襲いかかっている。
「何で1人で公園なんて行ったん?珍しい。」
「………今日はママが休みの日ぃやから。家におると辛いねん。嫌味も言われるし……その……」
「………まさか暴力振るわれてへんよな?」
「ーーーーーー」
「なんっちゅう……」
はっきりと明言はしなかったが否定もしない。彩音は親友の辛すぎる状況に頭を抱えるしか無い。そもそもあの優しかった圭南子ママが娘に虐待を行う姿をまるで想像できないが……。
「ママは……忙しすぎてぶっ壊れてもうたんや。賠償金もあるのにウチのことまで面倒見て育てなあかん。仕方ない……仕方ないからウチが我慢するしかないねん。」
「そんなことない!我慢する必要なんてない!今日はウチに来い!ご飯たらふく食べさせたる!」
「………ええの?」
「勿論。オトンもオカンも圭南子を家に呼んでダメなんて心の狭いこと言う人やない。」
「ほんまにっ……ええの……?」
圭南子は感極まって彩音をギュッと抱きしめると服をビシャビシャに濡らす勢いで泣き出した。もちろん、この日彼女を家に呼んだからといって何か根本的に問題を解決できるわけではない。だが、少なくとも今日は彼女の腹と心を満たしてやれる。
それだけでも、十分な価値がある。
存分に泣き終わって彩音の家に2人で手を繋いで向かう時、圭南子はこんなことを言い始めた。
「彩音ちゃん、何でもいいから時代劇とか見たことある?」
「あるよ?何や突然。」
ーーー少しだけ沈黙が落ちる。
「昔ってさ。死刑になった犯罪者の家族まで連帯責任で全員斬首になるんよ。前は何の罪もない家族達まで死刑にするのは可哀想って思っててんけど。今はちゃう。これは昔の人なりの優しさやって気がついたんよ。」
内側に溜め込んでいたドロドロが堰を切って流れ出すように圭南子はその胸の内を彩音に吐露し続ける。
「ウチは何もしてなくても、犯罪者の血が流れてるだけで世界はその人を拒絶すんねん。今はぶん殴られて、無視されて、公園使えないなんて軽いもんやけど……大人になったらまたちゃう。もう理想の未来なんてウチには見えんし、結婚も、就職もまともなんは無理。」
「圭南子……」
「ウチは……何のために生きたらええの?犯罪者の娘って事実はどうやっても一生消えんやん。どうせ頑張っても真っ暗な将来なのに、どうやって努力したらええの。この世界はこんなにもウチが生きてることを嫌っとるのに。」
その話し方はこの世界への絶望と諦観がひしひしと感じられて、痛々しい。以前の彼女はもう永遠に失われてしまったのだと彩音は理解した。そして……彼女からそれを奪った理不尽に、心の底から激怒した。
「圭南子……んなことない。例え世界中の人からアンタが恨まれても、拒絶されても、ウチだけはずっと圭南子の味方。ウチが目の届く範囲はずっと守ったる。」
「彩音……ちゃん……」
「ウチが……圭南子の真っ暗な将来を照らしたる。ウチが永遠に守ったるさかい。安心しぃ。」
自分の手を引く、まだ小さい彩音の身体。だが圭南子にはその時の彩音がまるでヒーローのように見えた。
「彩音ちゃん……は……私と一緒に、堕ちてくれるんか?」
「堕ちる?悪いけどそれはごめんや。圭南子は……ウチと幸せになればええねん。」
「け、結婚?これプロポーズ?」
「かっかっか。ウチに運命の王子様が現れんかったら、それもええな。」
絶望も、彩音だけは豪快な笑顔で笑い飛ばしてくれる。いつしか圭南子の笑顔は彩音の前だけで見せるようになった。彼女についていけば、全てうまくいく。そう考えて、守ってくれる、楽しい気分にさせてくれる彩音に何も考えずに追従する。
知らず知らずのうちにその関係が友情から依存、信仰のようなものに変化していったことを、感じ取れるほど2人は大人ではなかった。




