第四十五話 井桁雪音
実りの秋、充実の合宿から二日。休みを経て金川ナインは再び日常に戻ってきた。
たったの二日間ではあるがそれぞれがライバル達と結んだ友情は本物。特にこの地に来て日が浅い恭にとってはこの二日で築いた人脈は宝だ。ソフトボールの技術的な話だけでなく、そういう意味でも意義のある合宿であった。
さて通常メニューに戻り、恭達はいつもの如く走り込みの準備をして各自アップを進めていたのだが……何やらグラウンドの向こうの方が騒がしい。
「あれ、そういえば未来も瑠衣もいねえな」
いつも柔軟体操中隣にひっついて離れない二人が今ここにいない。何事かと思って騒がしく声のする方向に目をやると……ジャージ姿の別嬪なお姉さんが腕を組みながら女の子達と楽しそうに話す姿があった。
(な、なんだあの激マブお姉さんは!?今まで見たことねえぞ?でも……みんな動じてないってことは俺だけが知らねえパターンかこれ。)
この夏に途中加入してまだ三ヶ月ほどしか経過していない恭にはこういう認識の違いはよくあることだ。だが今回ばかりは流石に気になる。気になるくらいには恭の目から見てもそこにいる女性はだいぶ魅力的に映った。
「お、おいあそこの女の人。あのワゴンの人。あの人誰?あんま俺見たことないんだけど。」
「ああ……雪音さんが練習に来たときに恭がいたことなかったか。試合にはちょくちょく応援に来てくれているのだけどね」
「雪音さん……雪音さんっていうのか。俺あんまり応援席までは見ないからさ。全然わからなかった。」
素直に美しい容姿に負けない涼やかでいい名前だと思った。そんな雪音が、女の子達と話し終えてこちらに向かってくる。近くで見る雪音は遠くで見る三倍くらい綺麗な女性だった。
見た目から放たれる清楚で、淑やかで上品なイメージ。そんな幻想は、雪音の次の一言で脆くも崩れ去る。
「お久しぶりあんた達。ちょっと見ないうちにみんなおっきくなったなぁ。ええ?」
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ーーー井桁雪音は近くの大学に通う女子大生だ。学校では主に体育学を専攻。ジムのアルバイトをしながら、SNSの小さなコミュニティではあるが、ボディビルダー紛いの活動もしている。
雪音はこのチームのOGであり…………そして不動の五番ライト、井桁遼太郎の姉でもあった。
(そういえば未来と初めて遊びに行った時に駅で言ってたな。大学から教えに来てくれる人がいるって。それがこの人だったわけだ。)
コーチや監督達にも軽く挨拶をしてすぐに馴染んでいるあたり、恭が来る前はよく臨時コーチとして教えに来ていたのだろう。
「それにしても井桁お前……あんな可愛い姉ちゃんいたのか。全然弟って感じのイメージねえな。」
「余計なお世話っだってんだ」
「雪音さんと遼太郎は歳が離れているだろ?だから小さい頃からそれはそれはもう遼太郎は溺愛されて……」
「梅津てめぇ、コイツに変なこと吹き込んでんっじゃねえよ!」
珍しい井桁の赤面顔。別にあんな美人な姉に溺愛されて誇ることはあれ何も恥ずかしいことはないと思うのだが……とりあえず姉関連だといい音が鳴るのは確かなようだ。からかい甲斐がある。
「そんじゃあ……一心!梅津一心いる?」
「ここですよ」
「みんなに集合かけて。おしゃべりしてたらせっかくの時間無くなっちゃうからね」
キャプテン梅津一心の号令に合わせて金川ナインが整然と集合する。小学生ならもう少し遅れがあったり私語があったりしても仕方ない。だが目の前の子供達はきちんと10秒以内に集まり、乱れのない円陣を組む。雪音はこんな小さなことからも絶大な組織力と統率力を感じられる後輩達に一瞬面食らった。
「……こほん。まずは県大会出場おめでとう。確かチーム始まって初めてよね。そこは純粋にすごい。ーーーけどね。私に言わせりゃあんた達全然まだまだよ。下手って言ってるんじゃない、人体科学的にあんた達が持ってる能力の8割も出せてないって話」
(へえ……興味深いな)
野球に関しての知識は人一倍あるつもりの恭だが、これまでの人生でこういう体作りの専門家には出会ったことがなかった。
「まずは……県大会本番まであと何日?」
「九日です」
「ありがと一心。じゃあこの九日間、いつもの走り込み禁止ね」
この一言には流石にナインの間で動揺が走る。特に狂気的な走り込み教の監督がどういう反応をするのか心配した顔が多かったが、丹内は雪音を見てニコニコするだけ。どうやら大人達の間では既に話はついているらしい。
「あんたたちに足りないもの。ズバリ言えば体のキレよ。守備に関しても走塁に関してももっとキレ良く動ける。もっと鋭い打球が打てる。私の言うことをお利口に聞いてればね。」
雪音はそう言うとバッグから肩幅くらいの長さの鉄の棒と、5キログラムと記載された真ん中に穴の空いた鉄の重りを二つ取り出し、鉄の棒の先端から二つの重りを通して取り付ける。
「これと同じやつ今私の車に大量に積んであるから。友達のバイト先のジム大学のトレーニングルームからかき集めて……多分あんた達の人数なら二人で一つ使えるくらいはあるはずよ。ほら、彩音持ってみて。」
「…………おっ、ええやん。意外に軽いな。」
「そりゃ良かった。ほんとのアスリートみたいでかっこいいわよ。みんなも触ってみて。」
金川ファイターズというチームの……というより監督の丹内の方針として、小学生の時期の過度なウエイトは成長に支障をきたすとして、徹底して自重以下でのトレーニングを心がけていた。金川ナインはこのようなウエイト器具を見るのも持つのも初めてなので、皆興味津々でウズウズしている。
もちろん、恭も例外ではない。
(鉄の匂い……鼻血出た時みたいな匂いがする)
手に持った時のずっしり感はない。重りが両方で5キロずつ、鉄の棒が5キロと仮定して15キロ程度か。これくらいならばケガする心配はそうないだろう。
「よーく大事に扱うんだよ。その鉄の棒と円盤が、あんた達を全国まで連れて行ってくれるからね。」
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雪音の指示通り、恭達は二つのグループに分かれる。一方は外野で短距離中心の瞬発力系ダッシュメニュー。もう一方恭達が所属するグループは先ほどのバーを一人一台持たされ、雪音の教えを聞くべく並んでいた。人数と器具の台数関係で30分交代制で2グループの形になったのである。
「えへへっ、楽しみだねおにいちゃん」
「俺はまだよく状況を理解できてないんだが……あの人どんくらいすげえんだ?OGの大学生ってことしかわからん」
「結構すごいよ?高校生の時は女子の日本代表に呼ばれたこともあるらしいし。もうソフトの現役は辞めちゃったらしいけど」
「日本代表!?マジで!?」
「マジの大マジよ。もっと私を敬いなさいガキ共」
帽子越しに大人の大きくて、しかししなやかな手の感触が伝わった。どうやら外野のダッシュメニューの指導を終えた雪音がこちらに戻ってきたようだ。
(香水。めっちゃいい匂い……)
近くに寄ると確かに感じられるフルーティーな香り。あまり出会ったことがないレベルの綺麗な大人の女性は否応なく恭の心臓をドキドキさせる。
「初めまして少年。私は井桁雪音。弟の遼太郎が世話になってるね。」
「は、初めまして!絢辻恭です!これからよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくね。好きな食べ物はカレー、オムライス、チゲ鍋。彼氏は……三日前に別れたから募集中だ。」
「え?雪音さん彼氏さんと別れたんすか?あぁ!ガサツズボラおんなだからだぁ!」
「うっさいぞ風太郎。こっちからフってやったの。」
(わりかし砕けた感じで話して良さそうな人だ)
みんな雪音が大人だから形式上敬語で話してはいるが、実態はかなりフレンドリー。もちろんこれまで何度も顔を合わせてきたからこそだろうが、少なくとも怖い大人ではなさそうで一安心だ。
「だからこんな雑談してる場合じゃないっての……じゃ、始めるわよ。『身体のキレ』を鍛えるなんて言っても、実際何をどうしていいのかよくわからないんじゃない?」
「はいはい!わかりません!」
「未来は正直で大変よろしい。えっと……みんないったん集まれる?あとなんか書くもの……これでいっか」
雪音はベンチの辺りから小枝を拾ってきて地面に文字を書き始めた。
「人間の筋肉にはおっきく分けて二つの種類があるの。遅筋と……速筋。みんな漢字の意味わかるかな?」
わざわざ漢字に『ちきん』、『そっきん』と振り仮名を振ってくれる。話し方がコーチというよりは学校の先生みたいである。
「遅筋はおっきい筋肉ですごいパワーが出るんだけど、出力がちょっと遅い。みんな重いもの持つ時、よっこいしょって力込めるフェイズあるでしょ。ああいうときに使う筋肉のことよ。」
よっこいしょとセリフを吹き出しながら段ボールか何かを持ち上げるイラストを地面に描く。雪音には微妙に絵のセンスはないようだ。
「ゲームで言ったらスタミナとかパワーとかそっちね。対して速筋は……瞬発系。小さい筋肉だけど出力が速い。いわゆる身体のキレっていうのは瞬発系の筋肉、つまり速筋の質のことだと私は考えてる。」
「じゃあここからはその速筋を鍛えていくんですね」
「そ。あんた達は日々の厳しい走り込みと自重筋トレで遅筋の発達は同世代に比べてかなりすごい。けど速筋はまだ伸びる。速筋のトレーニングってのは短期間でも効果が高いから、そういう意味でも理にかなってるかな。」
恭の脳味噌の中になかった全く知らない体づくりの知識。教え方が上手いのか、情報を詰め込まれて理解不能にはならずに頭にすんなり入ってきた。
「さ、じゃあ早速始めるよ。器具の重さは軽いけどそれは怪我のリスクがないってことじゃないからね。ちゃんと腰入れて、必ず今から教える正しいフォームで行うこと」
『はい!』
「いいお返事。じゃあまずは1番基本的な『カール』からかな。未来、こっち来てみんなにお手本。」
「あいあいさー!」
内野では雪音の速筋トレーニング講座がスタート。そんな様子を遠目に見ながら、外野ダッシュ組の胡桃はいつもより荒い息を切らして走っていた。
「なんや胡桃ちゃん。今日全然余裕ないな。どないした?なんか悩み事でもある?」
「…………顔に出てました?」
「ウチ以外には隠せてたんちゃう?でも残念ながら聡明な彩音ちゃんにはなんでもお見通しなんよ」
その大きな目でまるでアイドルみたいなウインクをして、胡桃の周辺に渦巻く鬼気迫った雰囲気を和らげる彩音。胡桃が何か思い詰めているのは外野ダッシュ組の誰もが感じていたことだが、怖すぎて話しかけ辛かっただけである。
「私には……何もかもが足りな過ぎる。今回の合宿で1番相手のレギュラーとの差を見せつけられたのはどう考えても私です。」
一ノ瀬胡桃をこれほどの自信喪失に追い込んだのはライバルチーム、岩代の正二塁手である白山和樹に他ならない。
白山は二遊間を組む相方の狩野光俊に何かと話題を奪われ特段目立つタイプの内野手ではない。だが実際隣でノックを受け、二日間間近で彼を見続けた胡桃はそのレベルの高さに驚嘆した。
天性の打球への反応速度、イレギュラーが起きても冷静に対処するメンタルにハンドリング。そもそもの脚のスピード。どれもこれもが一ノ瀬胡桃の上を行く能力。いわゆる上位互換の存在のように思えてしまってならない。
「しかも白山さんはあれで長打打てますから。バッティング面は元々完敗でしたが、守備でもここまで差があるとは思ってなくて……正直県大会までに追いつける差でもない。がっかりと同時に自分への怒りが」
自分は4年生で白山和樹は5年生。元々1年の差はあるがそんなもの一度グラウンドに出たら関係ない。きっと今の金川が本番で岩代と戦って負けるとしたら、それはセカンドのクオリティの差だ。この合宿でそれ以外のポジションにそこまでの能力差を感じなかったのも、胡桃が悔しさを噛み締めている一つの要因にもなっていた。
「ええ?あのアホの白山そんなにええかなぁ?女部屋覗きにくるし、軽薄やし。ウチはセカンドは胡桃ちゃんが守っとる方が安心感あるわ。」
「人間性はプレーに関係ないでしょ。」
「いやいや、意外にあんねんこれが。」
彩音は自分より小さい体躯であれこれ難しいことを考える胡桃の頭をワシワシと撫でた。
「ちょっ……今汗かいてるんですって」
「いやぁ、なんかかわいくて。そんなに思い詰めることないやん。白山とは違うええとこいーっぱいある。上位互換だなんだって、それは誰かに言われたんか?」
「………言われてないですが」
「せやろ。考えすぎ。」
胡桃と彩音の走る番がやってくる。初めにうつ伏せで寝そべり、起き上がってダッシュ。簡単な動作だが、効果的に瞬発力を鍛えられる。
前傾姿勢で加速し、30メートル付近でフィニッシュ。二人並んで走ったが、一学年上の彩音と胡桃のスピードはほぼ遜色ない。
「負けたらそれは二塁手のクオリティの差?ソフトボールってそういう仕組みで点入るスポーツやったっけ?」
「…………違います」
「ならチームの敗戦はみんなの負け。勝ちもみんなの勝ち。一人が背負えることなんて一個もない。ウチはそんな風に思うんやけど」
自己中という概念の化身。世界は自分を中心に回っていると本気で信じていた三橋彩音をずっと見ていたからこそ、今の大人びた発言には胡桃も驚嘆せざるを得ない。
「って、これウチが普段から恭くんに言われてることまんまなんやけど。なんや自分で言うと恥ずいな」
「………ありがとうございます。ちょっとだけ、元気出ました。」
「おおきに。あと………」
彩音は胡桃と向かい合うと、蒸気した頬をむにゅっと両手で挟み込んでモミモミする。可愛くてしょうがない手のかかる後輩への親愛の爆発。『むにゃ、やめてくだしゃい』と嫌がる姿も猫みたいで愛らしい。
「そうやって高い壁に悩みながら向き合える。それは胡桃ちゃんが真剣に、ガチで取り組んでる証拠やろ。だから大丈夫。見とる人はちゃんと見とるよ。」
「…………」
「そんなトゲトゲせんと、胡桃ちゃん達は楽しんでやったらええ。お兄さんお姉さん達が点取って、点守ったるから。安心して着いてきぃ。」
「彩音さんがまともだと、なんか違和感あります。もっといつものちゃらんぽらんでいてください。」
「ひっどいなぁ。歳上の先輩への敬意が感じられんわ。」
照れ隠しの悪態をつきながらも徐々に胡桃のトゲトゲしたオーラは霧散していく。柔らかくなっていく表情に周りで心配そうに様子を見守っていた他のメンバーやコーチ達も一安心だ。
「バカで自己中でろくでなしなあなたが、私は意外と好きですから」
「おお……滅多にないツンデレのデレの部分来たんやけど」
「て、照れないでください。気持ち悪い。」
時の流れは速く彩音はみるみると大人のお姉さんに変貌していく。自分の大好きな人たちは自分の一つ上の年で、自分たちより早く卒業もする。いつまでも昔のままではいられない。目に見えた彩音の精神面の成長に一抹の寂しさを覚えた一ノ瀬胡桃の秋の夜だった。




