第四十話 取引
絢辻恭は別に秘密主義を貫いているわけではない。
同チームの同じポジションを競うライバルである胡桃にも積極的に教えるようにしているし、別に岩代のキャッチャーのポジションにいた谷皇成に教えるのもやぶさかではない話だった。
ただ、岩代の絶対的エース四葉花凛。彼女まで頭を下げてきたことで恭は考えを変える。これはただ単純に谷皇成という未熟なキャッチャーの技量の話ではなく、岩代というチーム全体の大きな弱点に関わることだと確信したからだ。
両者の間に嫌な沈黙と、そして探り合いのバチバチが漂う。その中で皇成はゴクっと唾を飲み込んで、花凛の後ろに下がった。
「俺結構疲れてるんだけど。嫌って言ったらダメか」
「それは困るわぁ。だって私たち、貴方にこれを聞くためにわざわざ今回の合宿に来たんだもん。私たちにとってはこれがメインイベントなんだからぁ」
「…………そりゃ光栄なこったな」
光俊の方も今回の合宿の目的は自分だと言っていた。チーム単位で絢辻恭個人が目をつけられていることに改めて嫌な感覚を覚える。
とにかく情報が足りない。まずはそのピースを埋めていくところから始めることにした。
「お前らのチーム、5年生の正捕手いたよな。なんで今日来てねえのかわかんねえけど、そいつは教えてくれないのか」
「アイツは一週間くらい前に辞めたわぁ。この県北大会が最後って言って、クラブチームで中学生に混ざって野球やってる。だからもう居ないの。」
「………は?辞めた?」
「そう、ぜーんぶほっぽりだして行っちゃった」
恭自身もチームを離れた側の人間だが、それはチームの消滅と、母親の結婚による引っ越しという事情が重なった結果でもある。
「キャッチャーのことは去年までOBの大学生のお兄さんが教えてくれてたんだけどねぇ。春から就職して東京に行っちゃったのよぉ。コーチも監督もキャッチャーの経験がないから、浅いアドバイスしかできないの。」
「自分がレギュラーのチーム放り出して……なんで?」
「なんでって……あははっ。貴方がそれ言っちゃうのぉ?おっかしぃ」
四葉花凛はいつもにへらっとした偽物の笑顔を仮面に貼り付けたような表情をする不気味な少女だが、この時ばかりは吹き出すようにして恭を笑う。
「貴方と戦いたくないからに決まってるじゃなぁい」
そのあまりに予想外の一言に、理解が追いつかない。
「お、俺かよ」
「そう。この時期の男の子なんてみんなプロ野球選手になりたいっていうけど、アイツは結構本気で目指してたのよぉ。それなりに実力もついて自信も持てるようになって………そんな時に本物の才能を目の前で見せつけられた。心がポッキリ行っちゃったのね。」
「そう……アイツが言ってたのか」
「ううん。でもその前から辞めるって言ってたのに、県北大会のトーナメントが決まった途端にもうちょっとだけって言い出すのよぉ?結構露骨じゃなぁい?」
ーーー夢は夢を追いかけている時が一番楽しい。
一人で県内トップクラス、どころか全国クラスの機動力を一人の肩で止め切った絢辻恭のパフォーマンスを見て、その夢は現実とのギャップに衝突することになった。対戦相手としてぶつかれば、否が応でも比べられる。結局のところそれに耐えきれなかったというわけだ。
「ってことは、本気でこの皇成くんが正捕手なんだな」
「そう。かなり切羽詰まってる大ピンチねぇ」
捕手とは扇の要、まさしく守備陣の心臓に他ならない。その心臓に技量の劣る選手を置けば、たちまちチームは弱体化し瓦解する。岩代自慢の守備もその力を半減させてしまうだろう。
「こっちとしては岩代さんが早期敗退してくれる分にはありがたいんだが?わざわざ助けてやる義理はないな。」
「あらぁ?案外器が小さいのねぇ。それとも……何か取引するつもり?」
「ご明察。俺は全部チームが得するように動く。交渉の主導権は俺にあるだろ」
だいぶみみっちいことを言っている自覚はある。だが花凛はその一言に先ほどまで見せなかった感情を含んだ笑顔を見せる。恭は今、初めて彼女と会話をしたような気がした。
「うーん取引かぁ。でもこれじゃエッチなことじゃ動かなそうよねぇ」
「動くわけねえだろバカが」
「ひどぉい。私だって結構可愛いと思うけどぉ?」
「………ちょーーっとだけ。さっきの素の笑顔は可憐で綺麗だったって言っといてやる。」
「あはっ♡素直じゃなくて可愛いっ♡」
ーーー皇成の肩は、小刻みに震えていた。このままでは自分がチームの足を引っ張る。そんな恐怖が、背中越しにも伝わってくる。そして花凛の視線は、その弱点を補う手段を確信している者のそれだった。
今ひとつ会話の主導権が掴めない。花凛が話のペースを持ったままうーんとわざとらしく首を傾げて見せる。そして得意げに笑うと、ゆっくりと恭の耳元に近づいてきた。
「五十嵐志姫ちゃん。今日ね、すごく仲良くなったのよぉ?彩音ちゃんには話しかけてもむすっとされてるだけだったけど、志姫ちゃんは目をキラキラさせてなんでも聞いてくるし、お昼ご飯も一緒に食べよって誘ってくれるし。すごーく可愛いわぁ。」
「………何が言いてえ」
「話してたら色々わかっちゃったわぁ。彼女、変化球投げたいんでしょお。仕方ないと割り切っていてもストレート一本で勝負することの恐怖が見え隠れしてるのよぉ。実際県大会上位クラスならストレート一本じゃ厳しいし。今の自分が使い物にならないことをちゃんと理解してるの」
恭の耳たぶをくにくにといじりながら、小学生とは思えない色気といやらしい手つきで首元を撫でていく。魔性の女、そんな言葉がすでにピッタリの少女だ。
「貴方が首を縦に振ったら、私は志姫ちゃんに変化球一個覚えさせてあげる。どう?結構悪くない話なんじゃなぁい?」
ーーー悪くないどころの話ではない。
志姫の変化球。県北大会が終了してからの恭の悩みの種の一つでもあった。1イニング限定くらいの球数ならだいぶコントロールが安定してストライクが取れるようになってきた志姫。だがそこからどうにも成長の伸びが悪い。
岩代はキャッチャーのノウハウがなくて困っていると言っていた。それと全く同じ現象が、今の金川ではピッチャーに起こっていた。エースの彩音は感覚派で変化球も特殊、恭はそもそも野球からの転向でウインドミル投法の知識はほぼ皆無。
変化球をまともに教えられる人間がいないままこの本番直前の合宿を迎えたわけで、それは志姫にも焦りがあったのだろう……この四葉花凛を質問攻めにするくらいに。
(…………………)
このまま教えるのを拒否してしまえば、岩代はもしかしたら一回戦や二回戦で消えてくれるかもしれない。
だがそれは岩代の弱体化であって自分たちの強化ではない。県内の強豪は何も岩代だけではないのだ。
(そいつら強豪チームと戦う時にリリーフが使えないってのは、流石にキツいよな)
だがあと二日間、県内最強のスーパーエースが付きっきりで志姫を見てくれてモノにしてくれるならみっともなくゴネた甲斐があったか。既に十分な戦果だと恭は首を縦に振った。
志姫の変化球。それは単なる球種の追加ではない。
県大会を勝ち抜くための“保険”であり、未来を左右する一枚の切り札だった。
「よし、乗った。おーい未来!そんなに長い時間かからないからセカンドベース入ってくんね?」
「いいけど、自主練?」
「こちらの谷くんにみっちり個人レッスンだ」
「あ、ありがとうございます!本当に……花凛さんも」
皇成は汗を滴らせながら頭を下げっぱなしだった。腰が低くて謙虚で学ぶことに貪欲。恭にとっては敵であっても好感の持てる男だった。
△▼△▼△▼△▼△▼
「まずは何も教えてない状態で一回セカンド送球してみてくれ」
「は、はい」
セカンドベースには未来、マウンドには花凛、そしてキャッチャーボックスには皇成と恭の配置。何故か後ろでボール拾いに回ってくれた瑠衣。意図せず超豪華なセンターラインがこの自主練で誕生していた。
(そのうち過半数が女の子か。本当にこの数ヶ月くらいで俺の常識がガンガン揺らいでるのを感じる)
引っ越し前までは女の子がユニフォームを着ること自体に違和感があった恭である。男子と対等どころか圧倒できる女の子がこんなにも居ようとは流石に想像もできなかった。
花凛が軽く腕を回してキャッチャーの投げやすい位置に投球。投げ返すように素早く皇成が放ったボールはツーバウンドして逸れた。
「こ、こんな感じです」
「普段どういうことを気を付けて投げてる?もしくは……コーチ達からなんて言われてる?」
「うーんと、えっと。とにかく捕球してから早く投げろとはずっと言われています」
「なるほど。邪魔してるのはそれだな。捕球してから早くっていうのは早くボールを離すことと同じ意味じゃないんだ…………今俺が皇成くんの真似してみるから見といてくれ」
花凛と未来に合図を送り、ふわっとマウンドから送られてきたボールを先ほど見たものをトレースしながらセカンドへ投げる。恭としては珍しいワンバウンドの送球だ。
「今の見てどう思った?」
「えっと……窮屈そうだなと」
「窮屈だな。何故かっていうと早く投げたいって意識がどんどん前のめりになって最初から最後まで胸がピッチャー側を向いてしまってるから。これじゃ身体の捻りが生まれなくて力が出ない。キャッチボールのスナップスローの練習くらいの出力なんだよね。」
もう一球と花凛にボールを要求して再度実演。胸を最後まで正面に見せない身体の捻りが加わったフォームから放たれたストレートは先ほどとは段違いの伸びで未来のグラブを突き刺す。
「そんじゃやってみて」
「は、はい」
同じことを皇成にやってもらおうとバトンタッチ。だが一度見ただけでは身体の動きは修正しきれない。結局いつも通り胸が前を向いたままだ。
「すいません!」
「気にすることない。じゃ今度は最初っから横向きながらボール捕ってみるか。」
何かを変える時は、まずは大袈裟なくらい大胆に。
フォーム修正とは自分の中の忍耐との戦いに他ならない。違和感、気持ち悪さと向き合ってそれに耐えながらひたすらに反復練習を繰り返すことしか道はない。皇成は言われたことをできず申し訳ないみたいな顔をしているが、恭は最初からできると思っていない。
と、思っていたのだが皇成はもう何球かこなしたらコツを掴んだのか修正ができてきていた。これは思った以上に飲み込みが早そうだ。不器用な恭には羨ましいことこの上ない。
「おにいちゃんすごぉい!だいぶ強いボールくるようになったよ!」
「でも窮屈そうな感じはまだするわねぇ」
それは当然。キャッチャーの送球においてもう一つの重要な要素をまだ彼に伝授する前なのだから。
「君の動きが窮屈で、息苦しい感じがするのはね。ステップがちゃんと踏めてないからだ。野球の基本的な動き、キャッチャーに限らず野手がみんなやる動きが出来てない」
「ステップ……ですか」
「と言ってもキャッチャーは特殊で、他の野手とは動きが違う。なんてったって目の前に金属バット持って振り回してくるやつが居るんだ。他のポジションでそんなことは絶対に起こり得ないから。」
他のポジションのステップは基本的に前ステップ。一塁送球の時に斜めステップを使うくらいか。だがキャッチャーはその特性上、ステップを前にした瞬間頭を金属の棒で思い切り殴られる。これを本能的に避けるためにステップ自体を踏めていない、それが皇成から漂う窮屈感の正体だった。
「で、でもですよ?前にステップしなかったらボール投げられなくないですか?」
「うん。だから、一歩目で距離を取る。考えればこんなシンプルな答えなんだけど、なかなか自分では辿りつかないよな。ちょっと見ててくれ。」
出来るだけわかりやすいように、気持ち身体の使い方をゆっくりに。言葉で伝えながら、映像としても記憶に残るようにしたい。
「まずサイドステップだな。一歩目にバッターから遠ざかるように距離を取る。これは投げる時の距離ロスも少なくていい。見てろよ。」
「はいっ!」
先ほどとは明らかに動きが違う。丁寧にゆっくり動いていても正確に身体を操っているのが側から見ていて皇成にはよく理解できた。たった一歩のステップを踏む位置で、前にこんなにもスペースが生まれるものかと、どこか手品でも見ている気にさせられる。
「じゃあ俺が右打席立ってる想定でやってみよう。一歩目は右に踏み出すこと。捕球の瞬間が右足が地面につく瞬間になるようなリズムがベストかな。」
「あ、頭がこんがらがってきました……」
そんなことを言いながらも、皇成は五回ほどシミュレーションの動きをしながらボックスに入る。混乱しながらも理屈はきちんと理解できているようだ。
一歩目のステップを踏むことで先ほどの課題だった身体の捻りもスムーズに出来るようになっている。ただ肝心の投げたボールはというと……。
「のわぁぁぁ!!!」
「ちょっとぉ?大暴投じゃなぁい。球も行ってないし、やる前より酷くなってるわぁ」
「うーん。やっぱ横に行ってる分身体が流れるんだよな。軸が定まらないというか」
未来の左手についているグローブのさらに上。カバーに来ていた瑠衣が直接キャッチするくらいの大暴投だ。やはりネックになるのは体重移動。こればかりは反復練習でコツを掴む他ない。
「でもなんかさぁ?いつものおにいちゃんのステップとちょっと違くない?なんか違和感あるよ?」
「そうだな。俺はサイドステップは使ってない。教えてないもう一つの方法、バックステップだ」
「バック……ステップ……」
「要領はさっきと同じ。一歩目を後ろに下げるだけ。距離ロスはあるけど真後ろに下げるから軸が左右にブレない。右打者でも左打者でもステップが同じだから混乱しづらいかもな。」
今度こそ今日の日中の練習で目に焼き付けた絢辻恭の正しい二塁送球フォームになった。洗練されたフォームはその動きを極めて簡単に見せる。これならできそうだと鼻息荒くボックスに入った皇成。花凛からボールを貰い、一歩後ろにステップを踏んだ瞬間……その動きが止まる。
「え、えっと……んっと……」
「ちょっとふざけてるのぉ?何やってるのよぉ。もう一回やり直す?」
「そうだな、もう一回投げてくれ」
すぐにやり直させる恭。だが二回目もその一歩目のステップを踏んだ瞬間に身体が硬直して動かなくなった。
「まあ皇成くんはふざけてるわけじゃねえ。そもそもボール取ってから後ろに踏み出す動作が野球にもソフトボールにもこれ以外に存在しないんだよ。だから頭の中でエラー吐いてフリーズしちまう」
「ど、どうしたらいいんでしょうかこれ」
「近道はない。ずっと反復練習で体に叩き込むのみ。絶対にこの練習する時はボールを投げるな。自分の肩も消耗品だってことを理解しておいてくれ。」
恭もこれを習った小学2年生の時に同じように頭がエラーを吐いて止まってしまって滅茶苦茶怒鳴られた記憶がある。事情はよく理解できるつもりだ。
「一応理論としてはこれで全部教えたつもりだけど、まだやる?」
「やります!やらせてください……」
皇成はまだ小学4年生、しかも今日の練習の前半であれだけ走って今は足腰がガクガクして立っているのもやっとなはずだ。
(すげえ根性あるなコイツ。俺はもう早く帰って休みたい)
その後30分ばかり、外が暗くなって大人に止められるまでこの自主練は続いた。結局この日の練習では皇成は一度も教えられたことを完璧に成功させることはできなかった。
完璧には程遠い。それでも、皇成の送球は確かに最初とは別物になっていた。成長とは、こうして少しずつ形になっていくものなのだ。




