第三十四話 最期の手紙
互いのプライドを賭けた一戦は、遂にこの日1番のクライマックスを迎えた。
無死満塁。しかもここから相手からすれば悪夢のような金川の上位打線という流れ。金川のエース三橋彩音の今日の凄まじい出来を考えれば間違いなく次の一点が勝負を分ける場面だ。
(もう見るからに握力も脚の力も残ってないだろ。チェックメイトさ。)
リードオフマン、二階堂瑠衣が左バッターボックスに入る。シフトを見れば内野はかなり前進、外野もタッチアップに備えてだいぶ前だ。これではスラップヒットをしてもホームで風太郎がフォースプレーで刺されてアウトカウントが増えるだけ。
(とにかく強いスイングを出来るところに張ろう。最初の球で、決める。楽にしてあげるから。)
ーーー確かに追い詰めたが、まだ追い詰めただけだ。
決定的なスコアは入っていない。しかもノーアウト満塁は全ての塁でフォースプレー。故に変にスクイズなどを意識せずバッテリーがバッター勝負で向かってくる。点を取るにはいちばん最初のバッターが大事。これがセオリーだ。
その、運命の一球目だった。
ガキィンッッッ!!!!!
「ファール!ファール!」
「……………は?」
確かに捉えた。強くスイングできる高めを狙って、そしてドンピシャにそこに来た。だがバットはボールに完全に弾かれた。
(い、今のボール……ストレート?嘘………なんで………)
「ストライクッ!ツー!」
(………球威が、戻ってるの?)
いや、戻っているどころではない。初回にヒットを打ったストレートは、これほどのスピードと高回転のスピンはかかっていなかったはず。こんなの、まるで弾丸だ。
「ふーーーっ!ふーーーっ!!!!」
「…………嘘でしょ。」
もう脚は重く棒のようになっていて、腕も上げるのもやっとなくらい疲労しているはずだ。そんな状態で、こんなボールを投げられるはずがない。物理的に無理だ。
(身体のリミッターが、外れてるんだ!もう、赤桐は怪我を前提に身体が動いてる。なんてやつ……)
そして、追い込まれた三球目。
「っっしゃぁぁぁぁぁ!!!!!」
遊び球無し。瑠衣のインコースギリギリを抉るストレートは、ミットをほとんど動かさずに突き刺さった。喉から手が出るほど欲しかった見逃し三振に、冷静だった赤桐が感情剥き出しで吠える。
身体は完全に暴走状態。だがそれでも、身体を犠牲にしてでも掴みたいものがある。守りたいプライドがある。与えたいものがある。
それはエースの矜持の体現だった。
「ドンマイ瑠衣。ヒーロー取り損ねたな」
「…………戻ってる」
「え?」
「完全に………球威が戻ってる。なんでかわからないんだけど………試合始まった時よりボールが強くなってる。」
一言だけ声を掛けて、瑠衣はベンチに下がっていく。彼女はヘルメットを外し、手袋を外したその時。自分の体や手が震えていることに気がついた。
「このボクが………ビビった……?そんな……」
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ーーーまるで、深い深い海底に寝そべっているような感じがした。
なぜ呼吸できるのかわからない。なぜ水圧に押しつぶされていないのかわからない。なぜ………あのマウンドから自分がいなくなってここにいるのかわからない。だがこの空間の全てが心地良い。まるでこの世に自分しかいないみたいな、寂しくも確かな解放感。
やがて真っ暗な深海に一筋の光が差し込む。その光に、手を伸ばして垂らされた糸を掴むように手をかざした。
「や、久しぶり。病気、本当に治ったのね……よかった」
「………沙月。お前、生きて……」
生きてなどいるはずがない。火葬場で焼かれ、骨だけになった彼女の姿をこの目ではっきりと見た。だがそれでもこの耳に聞こえてくる声は確かに彼女のものだ。
「辛い?苦しい?逃げ出したい?」
「…………そうだな。俺はもう身体が動かせる気がしない。今何で動いてるのかもわからないくらい疲れた。」
目が虚になって、弱々しい声を聞かせて、それでも沙月はあの太陽みたいな笑顔で笑っている。ーーー刹那、再び音色が聞こえた。
沙月がよく弾いていた、英輔が大好きだった曲。ショパンの『ノクターン』。切なくも優しいフルートの音色は聴くものの心を混沌へと導き、そしてふんわりと包み込む。
「お前吹いてないのに……なんで?」
「バカね。私が一生懸命吹いてたら英輔とお話できないでしょ?でも……ちゃんと覚えてくれてるんだ。ちゃんと音色が、脳に、心に残ってる。」
「そういう……もんか」
「そういうものよ」
今ひとつ理解は出来なかったが、もう一度見たかった沙月の元気な姿と顔が見れた。それだけで頭も心も満たれていく。
「思い出して。私の書いた、最期の手紙。」
「手紙……か」
「私はずっと……側で見守ってるからね」
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『赤桐英輔君へ。』
赤桐英輔はマウンドで深い深呼吸をする。気がつけばアウトカウントが一つ灯っていた。先ほどまで自分は海底で沙月とおしゃべりしていたはず。自分ではない誰かが身体を操っていたような感覚がしてゾッとする。
思考がクリアになる。余計な情報が全てシャットアウトされて、バッターと、そしてキャッチャーの姿しか頭に入らない。ただ単純に、指にかかった良いボールをベースの上に投げ込むだけ。投手がやるべきこととは、これほど簡単なことだっただろうか。
(絢辻、要注意の絢辻だ。)
余計な力を込めず、リリースに全てを集中する。一球目の判定がボールなのかストライクなのか、それさえ今はわからない。ただ、キャッチャーの田嶋が構えたところドンピシャにボールは吸い込まれていった。
『最近、体の調子がまた悪くなりました。もうすぐ私は死ぬと思う。だから私がどうにかなってしまったら、何とかして君に渡して貰うよう、お父さんとお母さんに頼みました。だから、あなたがこの手紙を読んでいる時、私は天国に旅立っていることと思います』
二球目、ストレートが低めに外れる。だがアウトコースのストライクゾーンギリギリの良いボールだ。
『私は一度だけ貴方の前で弱音を吐いた、あの時のこと、覚えているでしょうか。あの時の私は、すごくみっともなくて。幻滅されなかったかと、今も不安でいっぱいです。』
三球目、インコース高めにストレートが決まる。絢辻も空振りした後に目を見開いて信じられないものを見たかのようにこちらに視線を送ってきた。
『でもああいう風に思っていたのは、実はあの時だけじゃなかったんです。貴方と初めて会った時から。いや、もっとずっと前から、私はそれを悩んで抱えて誰にも言えずに生きてきました。夜1人になると、泣きながら死ぬ恐怖に怯える毎日。だけどあの日の貴方の言葉が、私を絶望の淵から救い出してくれたのです』
四球目、原田は立ち上がって釣り球を要求。これに完璧に答えるストレートを投げるものの、絢辻はギリギリでバットを止める。カウントはツーボールツーストライク。
『貴方は素敵な人だから。この先私よりもずっと良い人と巡り会って、恋に落ちるでしょう。だからこんな、死にゆく人間のわがままを聞く道理はない。だけど……伝えさせてください。』
『辛い時、苦しい時、逃げ出しそうな時。私のことをどうか思い出して。私のくれた音を、音楽を、頭の中で奏でて。私はずっと貴方のそばに居ます。貴方の心の中で、ずっと貴方に寄り添って、苦しみや悲しみを一緒に悩んで、支えて生きていきます。それが私の生きた意味だと、今は胸を張ってそう言えるから』
五球目、渾身の力を振り絞って投げたドロップ。捉えに行った絢辻のバットが、空を切った。
『貴方のことがずっと、初めて見た時からずっと、大好きでした。ーーー緑川沙月より』
「うおらぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
ストライクバッターアウト。英輔は吠え、ランナーを釘付けにしたままツーアウトまで来た。だが、英輔には観客の歓声は聞こえない。誰のためでもない、今はただ1人の愛しい人………緑川沙月のために投げている。だが、なけなしの体力も振り絞った最後のパワーも全てこの一球で使い切った。悔しいが、英輔の体はこれで完全に限界だ。もうガソリンは一滴たりとも残っていない。
(沙月……もう少し……もう少しで良い。俺に力をくれ!)
バッターは3番、梅津一心。その初球のストレートが甘くインコースに入った。思いっきり叩かれ三塁線にミートされる。抜ければ複数失点は確実。決して許してはならない、ハードヒットだった。
「サードッ!!!!!」
そう叫んだ瞬間、英輔は全てをシャットアウトしていた扉の向こうから帰還する。スローモーションのように、世界の全てが速さを失う。ライン上を掠めた打球はサードの横を激しく襲い………それをサードが横っ飛びでグラブに収めた。
「やった…………」
思わず漏れた一声。サードがそのままそのグラブをベースに置き、フォースアウト。スリーアウトが宣告された瞬間、英輔はもう立ち上がれず膝から崩れ落ちた。
「英輔っ!!!」
「英輔くんっ!!!!」
もう自力では一歩も歩けないし、立ち上がれそうにない。肩を貸され、足を引き摺りながら、英輔は目の前に広がる観客席を見た。
パチパチパチパチッッッッッッ!!!!
割れんばかりの惜しみない拍手。観客は皆、英輔に労いの拍手を送っていた。見れば泣いている人もいる。観客席だけではない、郭内の応援席はもちろん、金川の応援席まで皆が彼のくれた感動に対して立ち上がって拍手を送っている。
(そっか………これが、沙月の見た景色なんだ)
当然、外国の権威あるコンクールとこんな田舎の小学生の大会は違う。だが彼女が目を輝かせて語ってくれた情景は、確かにここにあった。沙月のくれた感動は今、形を変えて多くの人間に伝播した。
まだまだ規模が小さい。これからもっとたくさん、もっと大きな舞台でこれをしたい。英輔はベンチに担がれて下がるまで、目一杯この光景を堪能する。
「英輔……よく、投げてくれた」
「すいません、監督。次の回まで投げるスタミナ、残しておきたかったんですけど。もうこの通りで。あとはリリーフに託します。」
復帰して、体力が戻ってからテコでも譲る気のなかったマウンドを自ら譲った。それが彼にとってどれだけ重いことか、そしてどれだけの限界をこの少年は突破してここに至るのか。その熱い思いを郭内ベンチは皆理解し、だからこそ二の句が継げない。
監督の阿部は彼の頭に手を乗せ、そして一言だけ彼に言葉をかけた。
「お前は、ワシらの誇りじゃ。よく耐えた。よく踏ん張った。ありがとう。」
その言葉を貰った英輔は一瞬目頭を熱くしながらも、晴れやかな表情でベンチに座った。無念の一つもない、まるで5月の快晴のようなどこまでも澄んだ笑顔だった。




