第三十三話 ある冬の日
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ーーーとある冬の日。赤桐英輔は寒空の下、病院の外を歩いていた。
手術までは安静にするのが賢明で、あまり褒められた行為ではないのだが。それでも英輔は病室にいたくなかった。
極めて取り出し困難な位置にある、悪性の脳腫瘍。半年後に生きている確率より、死んでいる確率のほうが随分高い。
それでも英輔は、周りに普通にしておいて欲しかった。病気のことなんか忘れて、いつものように家族や友達とバカな話をして笑いたかった。
でも……英輔と周りの人との接し方はもう随分変わってしまった。祖父母、親戚、親、妹。みんな自分と過ごす最後の時を噛み締めるように、神妙な顔で会いにくる。クラスメイトの手紙をたくさん持ってきてくれた先生も、この歳で死ぬ運命を背負った子供への同情と哀れみのこもった視線を送ってきた。
それはまるで……もうみんな自分の居ない未来を受け入れてるみたいで。
ーーーまだ死ぬなんて、決まったわけじゃないだろ。
「わかってるよ。俺だってバカじゃないんだから。俺の体はもう、明日どうなっても不思議じゃない。突然、こうやって歩くのもできなくなるかもしれないんだ。」
そう頭でわかっていても、イライラは募っていった。そして遂に、昨日初めて病室で物にあたった。母の前で、目の前にあった時計を投げつけた。
時計が壊れ、割れる音だけが静かな病室に響き渡る。
自分でもどうして欲しかったのかはわからない。だがあれだけ躾に厳しかった母親が、怒るでもなく涙を浮かべていたことに、どうしようもない虚無感を覚えた。
そして残された短い時間、こんな思い出しか残すことのできない自分に………腹が立った。
東北の寒い真冬の風が、頬を突き刺すように撫でる。
息を吐くたび、白い煙がほどけて消えた。今年は雪が少なくて積もってはいないが、やはり気温の厳しさは相変わらずだ。
「…………帰ろう。これで体調崩してポックリいっちゃったら目も当てられない」
病室に向かって踵を返そうとした。その時だった。
「笛の……音?」
病院の敷地内にある林の奥から、澄んだ笛の音色が聞こえた。無造作に吹かれたものではない。ちゃんと曲として吹かれたまとまった音が、すぐそこの木の群れの中から聞こえる。
「めちゃくちゃ上手いな………誰だ?」
英輔の生まれた地域は特に祭りが盛んな地域だった。女の子は神輿の中で横笛を吹いて祭りを祝う習慣がある。だから笛の演奏の良し悪しくらいはこの歳でも判断できるくらい日常的に聴いてきたものだ。
その音色に釣られるように、英輔は音の発生源へと脚を進めていく。少しばかり歩みを進めた先で、英輔はその少女、たった1人で笛を吹いて佇む少女と出会った。
(悲しい音………だけど、なんだろうな。力強い。まるで冬の木枯らしみたいだ。)
演奏している曲はショパンのノクターン。テレビでもよく流れる有名な曲だったからあまり音楽に詳しくない英輔にもすぐにわかった。
曲が1番盛り上がるところに入る。だが………やはり音色には悲しみの感情が張り付いているように聞こえる。音源でよく聴くノクターンとは全くの別物。それ故に、英輔はその演奏に惹かれていった。もっと聴きたい、もっと彼女がどんなメッセージを音に載せているのか知りたい。そんな好奇心が、彼の脚を彼女の元へ向かわせた。
(すげえ………この楽器フルートだよな。歳もそんなに俺と変わらなそうなのに……圧倒される)
聴くものの心を振るわせ、人生そのものに響く。彼女の演奏はそういう類のものだった。プロの演奏なんて聞いたことないからわからないが、間違いなく今目の前で行われているのは、英輔の人生の中で1番素敵なものだ。
曲が終わる。英輔の手から自然と拍手が漏れ出ていた。目の前の少女に、その見事な演奏への賞賛だ。
「あら、オーディエンスが居たなんて。夢中で気が付かなかった」
「…………あ、その。偶然音色が聞こえて………あんまり素敵で美しかったから。立ち寄っちゃったんだ。」
「私の演奏、褒めてくれるの?嬉しい。」
本当に偶然そこで出会った少女は、彼女のする氷のような演奏とは真逆に。
「音楽はやっぱり誰かに聴いてもらってこそよね。もう少し聴いていってよ」
5月の太陽のような、暖かな笑顔をしていた。
その日、赤桐英輔は
人生で初めて恋に落ちた。
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彼女の名前は緑川沙月。歳が近いと思っていたが、意外にも中学2年生のお姉さんだった。でも歳の差が発覚してからもタメ口で話すのを許してくれた。意外と上下関係は気にしない女の子なのかもしれなかった。
彼女は、白血病と言われる病気だった。
いわゆる血液のガン。治療の難しい難病というのは小学生の英輔でもなんとなく想像がつく。自分と同じ、命の時間が限られた病気だ。
「なはは……実はこの髪の毛もウィッグでさ。抗がん剤で全部抜けちゃったんだよね。どう?案外わからないもんでしょ?」
抗がん剤治療の過酷さは、苛烈を極める。全身の痛みと吐き気。想像を絶する苦痛が彼女の身には起きているというのに、彼女はそれでも笑っていた。笑えていた。
もう一つ。彼女は世界的に有名なフルート吹きだった。世代では並ぶものもおらず、海外にも招待を受けて本場の大観衆の中で吹いたこともあるらしい。
「ーーーーーー♬」
「…………すげえや」
病院の敷地の林で行われる彼女のリサイタル。観客は英輔たった1人の寂しいライブだったが、英輔はそれが心の拠り所になり、いつの間にか日々を生きる活力になっていた。彼女の演奏は決して人々を前向きにさせるものではない、だが深い悲しみと死の絶望に、隣で寄り添ってくれるようなそんな音色だと思った。
「フルートっていうのは、奏者の心を映す鏡なの。昔はこんな音じゃなかったのに………今はこんな感じでしか吹けない。情けないわ。」
自らの理想とのギャップに納得がいかない沙月。だがそんな情けない音色だからこそ、動かせる心もある。
「ちょ、ちょっと!?何泣いてるのよ。わ、私何か酷いこと言っちゃった?」
「ちげぇよ!なんか……その……めちゃくちゃ感動したんだよ!」
音楽とかコンクールとか、そういうのは何もわからない英輔だった。だがこの沙月の演奏の心に沁みてくる感じ、この感覚は嫌いじゃない。
「……………そっか。あなたは私の音で……心を動かしてくれたのね」
いつの間にか、彼女まで涙を流していた。その後に吹いた音色はいつもより少し暖かく変化していた気がした。
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やがて、彼女と2人っきりのリサイタルもある日突然パタっと終了した。彼女の病状が悪化し、より強い治療が必要になった。副作用で沙月は苦しみ、フルートを吹くなんて重労働には耐えられない身体になったのだ。
それが、どれだけフルート吹きの彼女には辛いことだったろう。だが彼女はそれを全く態度に表さず、見せてくれるのはいつも通りの太陽のような笑顔。
笑顔は変わらない。けれど身体だけが弱っていく。
「おじゃましまーーーす!看護婦長に行っていいって言われたから来ちゃった」
「もう、ノックくらいしてよね。お着替えしてる時だったらどうするのよ」
英輔は前と比べて随分と明るくなった。三日に一度沙月と会うのに、その度にやつれていっては心配させてしまう。食事もきちんと摂るようになったし、薬も欠かさず飲んでいる。見た目だけなら、最早死に瀕した病人とは思えない快調ぶりである。
「なぁ、この前のウィーンの話もっと聞かせろよ!あと、ドイツのなんとかってところの話も」
「この前話したばっかりじゃない。よく飽きないわね」
「別の世界の話みたいで面白い!」
英輔は特に沙月のする海外での話が気に入っていた。白人さんがいっぱいのヨーロッパ。聞いたこともない料理に、見たこともない建物や風景。そしてクラシック音楽という、未知の世界。
外国の大きなステージで圧巻の演奏を披露し、終わった後に会場から割れんばかりのスタンディングオベーションを受ける。英輔はその話が大好きで、何度も何度も沙月に話すようにねだった。自分が褒められた訳でもないのに、どうだすごいだろうと誇らしい気分になるのだ。
それと………2人で互いの病気のことについても話した。
抗がん剤の苦しみのこと、徐々に出来たことが出来なくなっていく恐怖感………それに、迫り来る死についても。
最初は目を背けるしか出来なかったことも、だんだんと向き合えるようになっていく。
それは側から見たら、先の短い病人同士の痛々しい傷の舐め合いにしか見えなかったかもしれない。だが、少なくとも英輔はこの三日に一度のお話に心を救われていたのは事実だ。特にこの時には英輔の手術の日程が決まって、動揺で心が不安定になっていたから尚更。
「じゃあ英輔は手術が怖くてビビっちゃってるのね」
「しょ、しょうがないだろ!頭刃物で切られちゃうんだぞ!脳みそばーんって見えちゃうんだぞ!」
「そんなの麻酔してるんだからへーきよ。植村先生は上手な先生だし、ちょっと寝てる間に終わるって」
人生で初めて身体に刃物を入れられる恐怖も、彼女がそういうなら大丈夫な気がした。
ーーー彼女は、日を追うごとに弱っていった。
普通にトイレなどにも歩いて行っていたのが、もう車椅子無しでは何も出来ない。数週間前に元気にフルートを吹いていたのがまるで奇跡みたいに、どんどん身体の機能が低下していく。
「大丈夫……?沙月………」
「ちょっと………大丈夫じゃなさそうかも」
この日、いつもポジティブでずっと英輔に元気を与え続けてくれた沙月が、初めて弱音を吐いた。手が震えて、涙が目元に一筋溢れた。
「私は、たくさんの人の夢を裏切った」
「沙月………」
「両親も、フルートの先生も、目をかけてくれた大人たちも、同年代のライバルのみんなも。私に期待してくれたのは……私がすごいフルート奏者になって、世界中を飛び回って人々を感動させる……そんな夢を見てくれたから。」
徐々に嗚咽が混じり……一筋の涙は号泣へと変わっていく。
「私の体は……もう……終わる。大した音楽家にもなれないまま……死ぬ。与えてくれた経験も、楽しかった思い出も……全部灰になって消える。夢は、こんな道半ばで潰えて何の意味もなくなる。私は……一体何のために生まれて来たの?」
英輔は、言葉を詰まらせた。気の利いた言葉をかけてあげようと思った、だがすぐには出てこなかった。だってその問いは、英輔が何度も自分で自問自答して……そしてその度に絶望して来た問いそのものだったから。
だけど、沙月に会ってから、彼女と話すようになってからそんな問いはもうしなくなっていた。それは何故か、理由は簡単。彼女の演奏が、生き方が、何者でもない彼女自身がその答えをくれていたのだから。
英輔はその恩返しを、今しなくてはならなかった。
「感動は……消えないさ。
消えないんだ。」
「………?」
「沙月がもし、もうすぐ死んじゃうとしても。君のくれた音は……音楽は、あの時のぶわあって心を満たす感動は俺の中にずっと残る。消えない、消えないんだよ。」
彼女のやつれた手を取って自分の胸に当てる。その感動のありかを指し示すように、確かに存在するとわからせるために。
「俺は楽器は弾けない。でも俺の感じた感動を、別の形で他の人に伝えるのはできると思うんだ。そうやって感動はどんどん伝わっていって、沙月は時間さえ超えてずっとずっと人間の心の中に生きる。それってすごい素敵なことだって……俺は思うんだ。」
「そんなの……屁理屈よ。だってあなただって……もうすぐ」
「俺は死なない。絶対に手術を成功させて乗り越えて……リハビリも頑張って……マウンドで投げる。そこで何千人や何万人に、沙月のくれた感動を伝えるんだ。」
英輔の心のどこかには、やはり恐怖があったのだと思う。手術前の今は、1%でも治る見込みがある。だがその1%を拾いきれずに全ての可能性を無くした時、自分がきちんと死を受け入れられるのか。
手術の予定日が恐怖で仕方なくて、カレンダーを見るのも億劫だった。だが、今はその全てが吹っ切れた感じがする。沙月のために命をかけて戦う。5%未満の成功率など知ったことか。もし失敗したらその時考えればいい。
「見ててくれ。俺は起こすよ、奇跡を。」
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二週間後。英輔の手術は……奇跡の大成功を収めた。脳の奥深くに巣くった悪性腫瘍を、医師は何一つリスクを残すことなく取り切った。腫瘍の転移も見当たらない、医師と英輔の完全勝利だった。
親も祖父母も、ついでに担任の先生やチームの監督まで、みんな泣いていた。英輔の労を労い、そして完璧な手術を見せた医師に感謝した。
そして退院の日。その日の沙月は特に顔色が良かった。相変わらず車椅子は必須だったが、体調だけを見れば病院の林でフルートを吹いていた頃と変わらないくらい。
「退院、おめでとう。すごいね、ほんとに治っちゃうなんて。有言実行じゃない。」
「………本当に、沙月のおかげだ。全部全部、君のおかげ。沙月が勇気と、生きる理由をくれたから。俺は生きられたんだと思う。」
「…………照れくさいな。えへへ。」
そう言ってはにかんだ沙月はひょいひょいと自分の方に手招きして………近寄って来た英輔のほっぺに口付けをした。
「な………あっ……へっ!?」
「ふふっ、ドギマギしてる。可愛いんだからもう」
悪戯っ子な表情して、太陽のようなとびきり眩しい笑顔。まるで散り際に咲き誇る花のようなイメージが湧いてきて……その切なさと儚さに英輔は泣きそうになった。
「私ね。もし病気が良くなったら外出届を出して……英輔が投げるとこ見てみたいんだ。先生にも目標を持つことはいいことって言われたし、お母さんもお父さんも泣いて喜んでくれたの。あの……あとは英輔が邪魔じゃなければいいんだけど」
「邪魔なわけあるか!そんなん大歓迎に決まってる!ですよね監督」
「そうじゃな。ワシらはいつまでも待っとるからの」
最後に一度ハグして、沙月とは別れた。最後の名残惜しそうな顔が、まるで今生の別れみたいに思えて。でもそれを口には出さなかった。沙月はきっと治ると信じて、その場を後にした。
その二週間後、沙月は結局英輔の勇姿を見ることなく、天国へ旅立った。享年14歳。若き天才フルート奏者の、早すぎる死だった。
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緑川沙月の葬儀は、盛大に行われた。
テレビで見たことがあるような音楽家や、世界的天才少年バイオリニスト。外国人の参列者も見えた。彼女の存在がいかにクラシック界の中で大きかったか、今更ながらよく思い知った。
英輔は通夜から参列した。火葬前の最後のお別れ。そこで見た棺の中の彼女は、ひどく痩せ細っていた。
この細くて小さな身体で、沙月はどれほどの痛みに耐えていたというのだろう。自分も僅かながら経験した1人だからこそ、胸が掻きむしられるような思いがする。
「なんだよ……俺の試合見に来るって、言ってたのに」
心の真ん中にぽっかりと穴が空いたような、寂しさと虚無感が同居した気分だった。せっかく用意された美味しい食事も、ほとんど喉を通らなかった。
そんな時、後ろから声をかけられた。
声の主は沙月の両親だった。2人揃って目の周りを腫らし、父親に至っては前に会った時より相当痩せてしまっている。そう長い付き合いではないが、彼の見た限りでは2人とも娘を相当溺愛していた。早すぎる愛娘の死に、英輔にはその心痛を察することしかできない。
「沙月は……君のことをずっと心配していたよ。それこそ亡くなる前日まで。君の病気が再発して、戻ってきたらどうしようって。完全に完治していますようにと。ずっと沙月は祈っていたよ。」
「そう………ですか」
「英輔君。沙月から、手紙を預かっているの。あの子が亡くなる三日前に書いたものよ。自分が死んだらなんとかして英輔に渡してって。もらってあげて。」
「て、がみ………?」
渡されたのは一通の便箋。ピンク色の可愛らしいデザインが施されたものだ。
「もしかしたら、その手紙は君のこれからの人生の、枷や呪いになってしまうかもしれない。けど、それは娘のたった一つの願いだった。どうか、読んであげてほしいんだ。」
ーーーその手紙の内容を読んだ瞬間、英輔はこれまで抑え続けてきたものが決壊した。人前にも関わらず、膝から崩れ落ちて、泣きじゃくった。
確かに、その手紙は英輔の人生に大きな爪痕を残した。だが同時に、その呪いと同じだけの祝福を、彼の人生にもたらしたのだ。
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(疲れた………)
赤桐英輔は天を仰いだ。県大会を目前にした、県北地区大会決勝。そのクライマックスの中心に、彼は今いる。
自らのエラーで招いたピンチはノーアウト満塁。だが先ほどからもう身体を支える手足に力が入らない。ボールを握る指の感覚がない。息をする度に疲労で肺が裂けそうだ。
既に監督は動いている。投手の交代を告げに、ベンチを立った。十秒もじっとしていたらこの地獄から解放される。本音を言えば、もう全て投げ出してしまいたい。
(俺がここまで……連れてきたんだ。ここで交代したって誰も文句は言わない)
もう、見るからに体力も気力も限界を迎えている。こんな状態で、強力な金川の打線を抑えられるとは到底思えない。詰み、完全に王手をかけられている。だから降りてもいい、十分に自分はよくやった。
(だけど………それじゃ観客は、感動しないんだよ)
もう足が棒のよう。だが気合いで、意地でもふらつかずに今歩いて来ようとしている監督の元へと向かう。一歩一歩、歩みを進める。
(もう体力も気力もない。だけど……それは諦める理由になんてならない。ここで投げ抜いてこそ、沙月に誇れる俺になれるんじゃないのか)
そして遂に、英輔は審判と監督の間に立ち塞がった。監督の方を真っ直ぐに見て、背筋を伸ばして凛と立つ。
「まだいけます。俺に、背負わせてください」
「…………ダメだ。ここで燃え尽きて何になる。お前にはこれから未来が……」
「お願いします。」
この時の英輔の目が放った力を、歴戦の勇将である阿部は、この先ずっと忘れることができない。
たとえ全てを投げ捨てても、マウンドを守り切るプライド。阿部が目にしたものは、わずか11歳の子供が放ったエースの矜持そのものだ。
老人はじっと目を瞑り、しばらく考え込んだ後、何かを決意し目を開いた。
「一点だ。一点取られた時点でお前さんを替える。ここからのわがままは、ワシには聞けん。」
「…………っ、ありがとうっ……ございますっ」
「アンパイア、続投です。出てきた手前申し訳ないが選手交代無しじゃ」
ブルペンから出てきた投手が止まり、引き返していく。続投を知った観客、金川ベンチは困惑。郭内ベンチのコーチ達からは疑問の視線が阿部監督に向けられている。
エースをここで潰す気か。未来ある子供をなんだと思っているのか。
そんな視線も阿部は承知の上。それを理解した上で、決断した。コーチ達もそれをわかっているからこそ、誰も口には出さないのだが。
「ここで続投の判断など……ワシは勝負師としても教育者としても三流じゃな。」
ベンチに座り、大きく溜息をつく。絶対に間違っている続投という選択。だが裏腹にその目に微塵の後悔も見えない。
「だがな。手塩かけて育てた自慢のエースにあんな顔をされて……それに応えられないような奴は、1人の男として三流よ。ワシはこの賭けに乗る。」
一方、マウンド上の宿敵の変化にいち早く気がついていたのはネクストバッターズサークルに集まった瑠衣と恭の2人だ。フォアボール一つで押し出し、ヒットでほぼ勝負が決まる場面でスタミナ切れのエースが続投。間違いなく王手をかけているのは自分達だ。だがまるで先ほどから別人が乗り移ったかのように表情を変える赤桐英輔に、どこか不気味さを感じるのも確かだ。
「…………この期に及んで続投だってよ。舐められたもんだな。」
「ボクは序盤の赤桐からヒット打ってるんだけど………じゃあ、終わらせてくるから」
タイム明け、リードオフマンの二階堂瑠衣が打席に向かう。六回表、スコアは未だ0-0。
塁は全て埋まっている。
互いのプライドを賭けた決勝戦は、いよいよクライマックスに突入しようとしていた。




