第三十二話 絶体絶命
秋瀬風太郎は、練習が嫌いだ。
というか身体を動かすこと自体嫌いだ。
練習で肺が張り裂けそうになるくらい走ったり、腕や足に乳酸が溜まりに溜まって動けなくなったり。そんなことになる度に、『自分はなんでこんなことしてるんだろ』と、軽く後悔している。みんなが家で家族と楽しくおしゃべりしたり、テレビを見て楽しんでいる中、自分はなんでこんな辛いことをしなくてはいけないのかと。
活躍して目立ちたくない。できれば人間に感知されたくない。そんな風太郎が、なぜここまで厳しい練習に耐えられているのか。それはひとえにーーー彼がその全てを相殺して余りあるほどの負けず嫌いだからだ。
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0-0のイーブンで突入した終盤戦も六回表。金川の攻撃は7番レフト秋瀬風太郎からだ。
彼が打席でマウンドの赤桐英輔と対峙した時、直感で感じたことがある。見てわかるような明らかな疲労感、その見た感じ以上の倦怠感を赤桐は身に纏ってマウンドに立っていた。呼吸は荒く、胸が焼けるように上下している。
(明らかに異常………だけど……)
「ストライクッ!ワンッ!!」
「ぐっ……くそっ」
初球のストレートが外角いっぱいにビシッと決まる。球威を見たらまだまだ健在。一体どこに残した力でそんなボールを放っているのか理解出来ない。だがガス欠寸前は誰の目にも明らかだ。
『絶対初球か二球目、ドロップが浮いてくるはずだから』
(来た!甘いコースのドロップ!)
二球目、アウトコース高めに浮いてきた変化球。胡桃の予言通りに来たボールを風太郎は真後ろに跳ね返してしまう。完全なミスショットに歯噛みしてギリギリと悔しがる。
(本当に来た……甘い、変化球)
一ノ瀬胡桃のその予言が、なんの根拠もない出鱈目じゃないことくらい、付き合いの長い風太郎にはわかる。そして本当にその通り投げてきた以上、風太郎の頭の中にある仮説を、否定できない。
風太郎も投手の端くれ、いや端くれだからこそわかるバッテリーの心理だ。
(この人………俺に早く内野ゴロ打って欲しいんだ。甘くてもドロップなら……絶対引っ掛けると踏んでる)
この下位打線をできるだけ球数を使わないで抑えて、最終回である七回にスタミナを残しておくつもりだ。それが理解できた瞬間、風太郎の脳が一気に沸騰し、抑えきれない怒りが湧き上がる。顔が真っ赤になっていく。
「………すいません、ちょっとタイムお願いします」
一度、審判にタイムを取って時間を止める。足元の土を均し、呼吸を整える。
(舐められてる………舐められてる!!!)
自分が勝負するに値しない雑魚だと面と向かってはっきり言われたようなもの。耐え難い屈辱に歯を食い縛り、バットを握る手が強くなる。胸の奥が……熱く燃える。
タイム明けの三球目、外にボール一つ分外れた球をカット。腕の長い風太郎だからこそ届く距離だ。四球目のワンバウンドのドロップを見極め、もう一度同じようなところに来たドロップをなんとかバットを止めて我慢する。五球目の真ん中のストレートをまたカット。ツーボールツーストライク。平行カウントのまま勝負は六球目。
(コイツ………さっきはあっさり三振してたくせに、この状況で粘る……)
キャッチャーの田嶋も流石にイライラを隠せない。この下位打線を相手にするイニングは十球以内では終わらせたいと思っていたところ、もう既に先頭にだけで半分の5球。ほぼほぼ目標達成は不可能だ。
(とにかく、プランは変わらない。ドロップを打たせて内野ゴロ、これしかない)
ここまでストレートは3球連続ファール。このまま粘られては溜まったものではない。田嶋は風太郎に対してドロップの連投を決断する。
6球目は外側のドロップをなんとかバットに掠らせてファール、そして7球目は高めに浮いてきてボール。なんとフルカウントまで持ってきた。
(来た………ここまで来た!)
2球目の甘いボールをミスショットした風太郎にとって、とにかくこのカウントまで死んでも持ってくることが彼に課せられた使命だった。
赤桐英輔の、というよりは変化量の多い落ちるボールを操るピッチャーの弱点は一つ。
それはカウントが悪くなった時、どうしても甘いコースに投げざるを得ないこと。見送ればボールになる変化球を操る彼らにとって、スリーボールは何としてでも避けたいカウント。この一点を争う状況、その先頭バッターともなれば絶対にフォアボールは出したくないはずだ。
(ストレートはドロップを待っていてもカットできる。絶対……絶対逃さない)
そして運命の8球目。風太郎の腰の高さにほとんど変化しない半速球が来た。しかも2球目よりコースが甘い。思い切って振り抜いたバットの芯を食った打球はそのまま赤桐の足元を抜けてセンター前へ突き抜けた。
完全に風太郎の読み勝ち、粘り勝ちだ。
「先頭バッター出た!」
「遂に動くぞこの試合!」
前の回に引き続きランナーが出たことで金川ベンチと応援席は大変な盛り上がりを見せる。バッターボックスには胡桃、ネクストには彩音。その後ろで、1番の瑠衣と2番の恭はその試合全体を見ながら分析を進めていく。
「………やっぱり球の質が落ちてはいるよね。」
「ああ。序盤なんかはストレートに当てることさえ難しかった。風太郎があれだけ粘れてたのはアイツの頑張りも大きいけど……多分そういうことだ。スピードは落ちてなくてもホップ成分とか回転数とか、そっちだな」
郭内の前の試合、つまり午前中の準決勝の試合のスコアは2-0。早い展開のロースコアゲームで普通に七回まで試合があった。つまり赤桐はこの日13イニング目。ウィンドミルがどれだけピッチャーに負担をかけない投げ方だったとしても、プレーしている彼らはまだ小学五年生、11歳だ。
(この回決め切るか………それともスタミナを削り切るか)
丹内監督が胡桃に送ったサインは……送りバントだ。彩音のバッティングは期待できないが、1番の瑠衣は初回にヒットを打てている。ツーアウト二塁からでも十分に点は取れる。勝負を避けられても恭ならなんとかすると判断してのものだった。
一球目のストレートをバットを引いて見送ってボール。再びバントの構えをした胡桃。その2球目に、予想外の事態が起こった。
「あっ…………」
「危ないっ!!!」
赤桐の放ったボールは指に引っ掛かり、そのまま胡桃の顔面へ一直線。避ける動作を見せる胡桃だったが、間に合わない。
「胡桃ちゃん!」
「胡桃!!!」
恭は顔を真っ青にしてバッターボックスに駆け寄る。ボールを食らった胡桃はボックスにうずくまって動けない。
「大丈夫か!しっかり、しっかり!」
「あうう……い、痛い……痛いですほんとに」
少量ではあるが鼻からの出血も見られる。だが鼻も頬骨もあれだけの衝撃を受けていながら折れている様子はない。硬式出身の恭からしたら考えられない被害の小ささではある。
「キミ、大丈夫か?臨時代走を出せるが」
「構いません。ちゃんと走れますので。あと……誰かティッシュを。鼻血止めるのに詰め物をしますので」
「ボクが持ってきてるよ」
準備の良い瑠衣が鼻血が出ているのを見た瞬間に探しに行ってくれていたようだ。応援席の方まで行っていたのか若干息が切れている。
「ほ、本当に大丈夫か?頭クラクラしないか?」
「恭さん、ご心配なく。確かに痛かったですが……ある意味もっと痛いのはあちらの方ですから」
胡桃の言う通り、このデッドボールで状況はノーアウト一塁二塁。間違いなくこの回に上位に回ってくることがほぼ確定してしまった。それだけではなく………これまで顔色を変えなかった赤桐に明らかな動揺が見られる。それを消しに行こうとキャッチャーの田嶋がすぐさまマウンドに行く。
先ほどの先頭バッターに粘られた辺りからどこか気持ちが入っていない。目が虚で、信条の一球入魂には程遠い顔つきに見えた。
「英輔大丈夫か、ちょっと深呼吸して……」
「…………悪い。しくじった。まさかあんな手元が狂うとは」
表向きは平静を装えている。だがさっきから赤桐英輔の手足にはもう感覚がない。脚が地についていないような感覚で先ほどから投げている。恥ずかしながら体力はとっくの昔にカラ。気力とかいう、非科学的なものに縋ってなんとかしている状態だ。
(正直もう降りたい………けど、こんなところで後続に託すわけにいくかよ)
優勝がかかったこの試合。こんな大ピンチを放り出して降りるなど彼のエースとしてのプライドが許さない。それにプライドだけの問題じゃない。ここまで築き上げたエースとしての信頼も信用も全て崩れ去ってしまう。
「………大丈夫なんだな?」
「ああ、オールオッケー。問題ないね」
どうやら監督も交代のタイミングを伺っていたようだ。田嶋が監督に向かって大きく頷いたことで、続投が決定した。どこまでもエースとしての自分を尊重してくれる監督に、深々とお辞儀をして敬意を表する。
田嶋の言う通り、一度深く深呼吸をして全身に酸素を入れる。肺が破けるくらい痛くて、涙が出そうだ。
(三橋………彩音)
次のバッターは9番、相手エース三橋彩音だ。最初から送りバントの構え。ここを送られたら絶望的な状況で強力な上位打線を迎えることになってしまう。
郭内ベンチから送られてきた守備シフトのサインは………完全なバントシフト。バスターは度外視でファーストが思い切り突っ込んでくる。
「ストライクッ!」
「…………コイツ」
最初はバットを引いてきた。サードは万が一の三盗に備えてベース付近にいなければならないので、サード方向はピッチャーの守備範囲。当然この体力でダッシュも欠かさず行わなければならない。ワンストライク目と引き換えになけなしの余力を削りに来たのだ。
(ランナーは………絶対進ませねえ)
フィールディングには絶対の自信がある英輔。サード方向に強いバントを打たせれば確実に三塁封殺できる自信がある。
そして2球目、意図せず左バッターのインハイに行ったストレート。それをバントした彩音はややサード寄りのピッチャー前に強めのバントを転がしてしまう。
「バックサード!」
「「「サード!!!!」」」
郭内ベンチが一斉に盛り上がり、金川ベンチは頭を抱えた。だが次の瞬間、状況は一変する。
「………………あっ」
赤桐は三塁線に背を向け半身になりながら、くるっとターンして三塁に送球しようとした。だがその激しい脚の運びに、もう耐えられる疲労の状況ではなかった。そのまま脚がもつれ、なんとかボールを送球するもワンバウンドで逸れる。フォースプレーだがベースを踏むどころか三塁手が後ろに逸らさないように止めるだけで精一杯だった。結果オールセーフ。つまり……。
ノーアウト、満塁。
最悪の形だった。そして……
「英輔!」
「英輔くん!!!!」
赤桐英輔が、手に膝を付いた。先ほどから気力だけで保たせていたものが、完全に切れたのだ。
「はぁはぁはぁ………はぁはぁ……」
元々乱れていた呼吸が、過呼吸寸前まで荒くなっていく。誰がどう見ても限界。戦える状況ではない。
(ふざけんなっ!こんな自分でピンチ作っておいて……くそっ、動け!動いてくれよっ!)
もう地面についている感覚もない動かなくなった脚をバンバンと叩く。もうカケラも力が残っていない。身体を動かそうにも、完全に燃料切れだ。
郭内の老将、阿部宏昌が最早これまでと席を立ち、審判の元へ向かう。交代を悟った観客と、郭内応援席、そして金川ベンチからも惜しみない拍手が送られる。
(何勝手に決めつけて………俺はまだ投げられるのに!まだ……戦えるのにっ、どうして身体が動かない!)
ーーーその時、音が聞こえた。
(!?)
まるで清らかな小鳥のさえずりのような、澄んだ音色。赤桐英輔は背中に感じる温もりと共に、その音色を確かに聴いた。
だが当然、周りを見渡してもそれらしき人物はいない。周りもこの異常事態に気がついている人間はいない。どうやら聴こえているのは自分だけだと、それに気づくのにそれほど時間は掛からなかった。
(お前なんだな……沙月……)
疲れ切った心を癒す優しい音色と共に、赤桐英輔の物語はーーーある冬の日へと巻き戻った。




