第二十七話 背水のラストイニング
「監督さんこの回、最終回です。」
主審の宣告に、帽子を取って受け応える丹内監督。わかっていたことだが、本当にあと三つのアウトで金川の秋の戦いは終わる。
次の攻撃が最後になる――その事実が、言葉として確定した瞬間、胸の奥に重く落ちてきた。
グラウンドのざわめき。応援席のざわつき。
そのすべてが、急に遠く聞こえる。
ここで全ての夢が潰えるかもしれない。そんな現実が、静かに、しかし確実に迫っていた。
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最終回の先頭バッター。自分が出塁できなければ高確率で、負ける。優勝候補筆頭と目されたチームが、こんな一番最初の石ころに躓いて終わってしまう。それも相手チームに叩きのめされたわけではなく、自滅で。そんな屈辱がいよいよ現実味を帯びてきてしまうのだ。
審判に一礼、捕手に一礼、投手に一礼。恭は新しいルーティーンを終えて、ふっと息を入れる。集中力を極限まで上げて投手に相対した。
呼吸がゆっくりになる。
心臓の鼓動だけが、はっきりと聞こえる。
焦りも、不安も、もう邪魔にはならない。
すべてが研ぎ澄まされ、ただ目の前の一球へと収束していく。
その様子を、ネクストバッターズサークルにいる梅津は直視することができない。ここまでの打席ははっきり言って惨憺たるもの。さらに守備では失点に直接繋がるタイムリーエラー。キャプテンとしてチームを引っ張らなければならない自分が、今日は明らかに足を引っ張っている。
(なんで……今日なんだ。よりにもよって本番で。悪い夢じゃないのか?)
顔を上げるのが怖かった。
仲間の視線。観客の視線。
そして、自分自身の情けない姿を直視することが。
ーーーキャプテンなのに。
ーーーみんなを引っ張らなければならないのに。
こんなところで折れかけている。拳を握る手が、わずかに震えていた。
「顔あげなよ、一心」
後ろから、声が聞こえた。どんな時でも自信満々そうな顔をして、楽しそうに笑う。絢辻未来が真剣な顔でこちらに声をかけていた。
「まだ終わってない。おにいちゃんなら絶対なんとかする。キャプテンがそんな顔してちゃ、ほんとに負けちゃう。」
「…………すまん。」
「さ、見よう。肩の力抜いてさ。」
このとてつもなく球の遅いピッチャー。見た目よりベース上でさらに遅く、さらに適度な荒れ球でコースが絞りづらい。この投手に対する回答を、実は既に恭は導き出していた。
皆に伝えなかったのは単純に時間がなかったのと、口だけで伝えて、自分のバッティングを崩されても困ると思ったからだ。
(こういうタイプの投手と対戦する時大事なのは詰まるのを恐れないこと。キャッチャーフライを打つくらいの感覚でちょうど良い。)
速い球には速い球の難しさがある。
だが遅い球には、別の罠がある。
待ちすぎる。崩される。泳がされる。タイミングを外された打者は、自分のスイングを見失う。
だから――しっかりと引きつけながら自分から崩れない形を作る。
「おにいちゃんが……バットを指三本分短く持った……?」
単純なことで、その分短く持てばシャープに操作も簡単にスイングできる。遠心力は減るから打球は飛ばないだろうが、今は塁に出ることが優先。長く持って本当にキャッチャーフライなんて打ってしまったら目も当てられない。
一球目は高めに外れてボール。二球目はバットの芯を食った打球がファースト側ファールゾーンに切れていく。
(よし………これで良い。この感触であとはフェアゾーンに入れる)
大きく頷いた絢辻恭。もはや監督のサインを見る余裕もないほどに、集中の極致にいる。自由な裁量権を渡しているため問題ないが、ダミーサインすらいらないとばかりのまさかのガン無視に丹内は苦笑いを浮かべる。そして何か大きく頷いて、ジャグからスポーツドリンクを注いで飲んでいた志姫を呼んだ。
「…………は、はい。何か私に御用でしょうか。」
「志姫。裏まで行ったらいくぞ。三橋さん呼ばって準備しとけ」
「ふぇ?うええええ!!??」
そんなベンチの衝撃的な会話など一ミリも聞こえていないバッターの恭。ツーストライクと追い込まれたため怪しいところはカットして、ただ打てる球を待つ。球種が一球種しかないおかげで慣れてくればそう難しい作業でもない。
ーーーそしてついに。
(インコースよりのど真ん中っ……腰の高さっ!来た!)
キィィィィンっ!!!!
狙っていたコースをインサイドアウトのスイング軌道で思いっきり振り抜く。芯を食った軽い手の感覚に快感を覚えながら、恭は打球が左中間の真ん中に落ちたのを確認し、ファーストベースを蹴る。そしてそのままスライディング無しの悠々スタンドアップダブルだ。
ベンチが一瞬静まり、次の瞬間、爆発した。停滞していた空気が、一気に動き出す。まだ一点も入っていない。
だがーーー試合の流れが、確かに揺らいだ。
恭は二塁ベース上でベンチに人差し指を向けながらクールな表情。だが内心飛び上がって喜びたいほどアガっていた。
だがまだ塁に出ただけ。得点ボードは未だ0を刻んだままである。ここから二塁ランナーの自分が死ねば一気にゲームセットに近づく。
「頼むぞ……キャプテン。さっきのエラー帳消しになるくらい挽回してくれ。」
2点差のノーアウトランナー二塁でやれることも少ない。梅津からフリーのサインが出て、それをヘルメットの耳当てに触って了解する。とにかく出塁が求められる場面、恭がやったのと同じように指三本分短く持ってキャプテン梅津一心は右打席へと立つ。
初球は大きく外れるボール球。だがセカンドリードを大きくとる恭に対してキャッチャーがすぐさま牽制球を送ってくる。
「セーフ!!!」
(この場面で躊躇なく投げてくるか。意外とやる。)
セカンドランナーの恭の動きが気になる様子のバッテリー。チラチラとこちらを見ながらのサイン交換。二球目は少し外に外れたボール球だったが………梅津は強引に打ちに行く。
打った瞬間、手応えはあった。
「抜けろ――」
その願いは、無情にも空中で止まった。
打球は強くミートこそできたものの不運にもノーバウンドでピッチャーのグラブに吸い込まれる。
「やっべっ…………」
「セーフ!セーフ!」
ピッチャーが二塁に切り返す動作を見て慌てて二塁に頭から手から滑り戻る。ギリギリのタイミングで、一度ピッチャーが握り直す動作を挟まなかったら二塁転送で即アウトだった。
ワンアウト二塁、ランナーが動けずにただただアウトカウントを一つ重ねてしまう結果だ。こちらに傾きかけた流れが押し戻っていくのを感じる。
(なんとかしろ………未来……)
打順は四番の絢辻未来。一発出れば同点の場面で出てきた稀代のホームランバッターに、バッテリーがゴクリと息を呑む音が聞こえてくるようだ。
だが今日に限って言えば未来は完全にブレーキ。二打数のノーヒットで、しかもどちらも初級ポップフライ。内容も良いとは言い難い。未来自身も、このピッチャーとの対戦は分が悪いと感じているようだった。
(私が一発打っても同点止まり。決勝までは延長戦じゃなくてくじ引きで決まっちゃうんだっけ。うーん、なんかこのピッチャー全然合わないんだよなぁ。)
ネクストには井桁遼太郎。彼にはこの二打席で2本のヒットが出ている。
ならばと短く持ちかけたバットを未来は長めに持ち直す。いかにもホームランを打ちそうな威圧感が、二塁ベース上の恭まで伝わってくる。
「ボール!」
初球は意図的に外に大きく外した一球。未来は大きく踏み込むもスイングをかけない。次のボールはコントロールミスでワンバウンド。三球目は内角の際どいコースになったが……。
「ボール!ボールスリー!」
フリースインガーの未来はほとんど四球を取らない、三振かホームランという概念の権化である。だがこの打席は自分が決めるというよりは絶対にアウトカウントは増やさずに後ろに繋ぐという意識が芽生えていた。
「ボールフォア!」
「うしっ……!」
ボールスリーになった時点でバッテリーは勝負を諦めたようであからさまに外してきた。ワンアウトランナー一二塁。ランナーが詰まって野手はフォースプレーで守りやすい形になったが、同点のランナーまで塁に出たのは攻撃側のこちらとしてもかなり大きい。
「遼太郎、頼むね。」
「まっかせろっての!」
未来の外したアームガードを受け取りながら一言ずつ交わすクリーンナップの2人。ふぅっと一息入れてから井桁遼太郎は監督のサインを見る。こくりと一つ頷くとヒッティングの構えからセーフティバントの構えだ。
初球はストライク。バントを引いて様子を見る。
先ほどの裏の回と全く同じシチュエーション。バントの可能性が高いと踏んで、ファーストサードがもう一歩前に来る。
(監督は続けてバントのサイン、だけど……)
恭は井桁と目が合う。そのアイコンタクトそれだけで彼が何をしたいか、何を企んでいるかがよくわかった。
(俺達だって…………瑠衣やら恭やらが頭使って揺さぶりながらやってる攻撃を………ただ指咥えて見てるだけっじゃねえんだよ!)
インコースやや甘めの球だ。バントの構えからヒッティングに切り替えた井桁は思い切り引っ張ってファースト方向を強襲する。
(守備位置が前に来たってことはヒットゾーンがそこだけ広がってるってことっだろうが!基本だ基本!)
ファーストは逆シングルで飛びつくも明らかに反応が遅い。結果として一二塁間を抜けていくヒットになる。打球速度が速いためライトが捕球態勢に入った段階では本塁はかなり微妙なタイミングだった。止まってもワンアウト満塁、憤死すれば一点も入らずツーアウトと追い詰められるこの場面。
「ゴー!ゴー!!!ゴーーーーー!!!!」
打順の巡りの関係で三塁コーチャーに入っていた二階堂瑠衣が、思いっきり腕を回す。恭はそれを見て、何を疑うこともなくホームへ突入していく。
「行った!!!」
「刺せる!バックホーム!」
第一シード金川に生じた焦りと致命的な隙。少なくとも飯坂南のナイン達やベンチはそう見えたはず。だがこの判断が、結果的にはこの試合の行方を左右する大きなプレーになる。
「あっ………」
捕球態勢で一瞬三塁ランナーの恭の動きが見えたライトが、ボールを後ろに逸らしてしまったのだ。ボールは転々とフェンスまで転がっていき、カバーに向かうセンターはまだまだ遠い。
「帰ってこい!未来!!!」
既にホームインした恭が、三塁を回ってきた未来に対してもちろんゴーの指示。そして井桁は既にセカンドを回っている。ここでようやくセンターが追いつき中継にボールが返される。もちろんこの千載一遇の好機、バッターランナーの井桁もホームに帰すに決まっている。
「滑れ!!!井桁ぁぁぁぁ!!!!!」
良いボールで中継を繋げればギリギリのクロスプレーになるかと思われたが………セカンドが中継した時点でボールはグラブからこぼれていた。ホームにボールが返ってくることはなかった。
「だっっっしゃらぁぁぁぁぁ!!!!!」
ホームインした瞬間、井桁遼太郎が腹の底から雄叫びをあげる。3点……3点だ。先ほどまでの重苦しい雰囲気、負けの足音がすぐそこまできていた状況から、このワンプレーで完全に逆転した。
ほんの数分前まで、敗色は濃厚だった。
空気は重く、誰もが言葉を失っていた。それが今、歓喜に変わっている。この競技が持つ一球の重み。残酷さと奇跡が、同時にそこにあった。
「ナイス井桁!!!ナイスバッティング!!!」
「おうよ!任せろって言ってんだろうがぁぁぁ!!おめえもよく走った!」
ともに興奮状態の恭と遼太郎。お互いに、一瞬表情が歪むくらいの強さでハイタッチを交わし称えあう。
「未来も………よく繋いでくれた。」
「ふへへっ。おにいちゃん、私かっこいい?」
「カッコいい!未来大好きっ!天才っ!」
いつものシスコン発動にご満悦の未来。そのまま恭のキャッチャー防具の装備を手伝ってくれるようだ。
「後は裏を守るだけだね。」
「正直言って一点じゃ足りねえ。これを機にガンガン点取って欲しいところだが。」
次の六番大友はショートにゴロを引っ掛けた。余裕のアウトを宣告されるのを見て、兄妹2人で目を合わせて苦笑いだ。
「そうなんでも上手くいくわけじゃないらしいね」
「ああ。まあ、後は彩音に踏ん張ってもらうしか……」
「残念やけど、最終回はウチは行かんよ。」
横から、聞き慣れた関西弁が会話に割って入った。美しい銀髪を背中まで垂らしてド派手に目立つ我らがエース。ただその声色も、今は少しばかりおとなしい。
「…………まさか」
「正直、監督の考えてることはようわからんのやけど」
ーーー目を、疑った。このままいけば一点差。裏の攻撃は2点取られればその時点でサヨナラで敗退が決まる重要なイニング。
逆転の歓声が響く中で、恭が見たその光景だけが異質だった。
エースはベンチで肩を冷やしている。ブルペンで投げているのは、たった一人。
五十嵐志姫。
つい二週間前まで、二軍戦で試合を壊していた少女。胸の奥に、説明のつかないざらつきが広がる。
(な、何考えてんだ………このオッサンは?)
逆転した。流れも掴んだ。
それでも――
試合は、まだ終わっていない。
激動と混迷の初戦。この試合最大の山場は、最後の最後にまで取ってあったのだ。




