第二十五話 理の外の少女
「ほれ、返すよ」
「ふぇっ……のわあっ!」
「ナイスキャッチ」
女の子座りでうずくまる志姫の胸元に恭はスナップを効かせてぴゅっとボールを返す。上手くグローブに収めたが、捕ったというよりは勝手に入ったという感じだ。
志姫は彼に見覚えが……というか昨日会っている。以前見かけた時は転校してきたばかりで全然馴染めてなかったのに、いつのまにか全体ランニングで先頭の列にいたので印象に残っている。一言だが声もかけられた。
「未来に志姫ちゃんが毎日自主練してるらしいって聞いてここら一帯探し回ってたんだけど。結局一発目にピピっときたところで合ってたわ。良いとこだよな、土もあって壁があって、周りには人の気配すらない。おまけに雨の日も凌いで練習できるときた。理想的だね。」
泣いている女の子を前にして今度は呑気に土をいじって質を確かめ始める恭。何が何だかわからなかったがとりあえずみっともない姿を異性に見られたくない。なけなしのプライドが働いて志姫は涙を拭った。
「私に……会いにきたの?なんで?貴方Aチームの……ウチのキャッチャーの人でしょ?なんで私なんかと会うためにわざわざこんな……」
「もちろん、仲良くなるためだけど。同級生なのに一回も喋る機会なかったし。自分から行かなきゃ君とは永久に喋れなさそうな気がしてな」
「そうかな………そうかも。って、違う!それよりも!」
そんなことよりも志姫には恭の先程の一言に聞き捨てならない箇所があったことを思い出す。
「私の……私のフォームの悪いところが、わかるの?」
「…………まあ、さっきも言った通りこれは野球で言われたことだからソフトにそのまま転用して良いかはわからないけど。理屈的には一緒のはずだ。」
「詳しく………詳しく教えてっ!」
志姫にとってはもう藁にも縋る思いだった。文字通り縋り付いてでもその答えを知りたい。恭にとっては想像していた人物像とだいぶ違うその貪欲さに少しばかり面食らう。
だがその熱意は明らかに本物。再び光が戻り燃え盛る目に恭は是非とも応えたいとそう思った。
「俺が引っ越してくる前のチームにも君みたいなどうしようもないノーコ…………こほん。制球が定まらなくて困ってる人がいてさ。近所の仲良くしてたおっさんに聞いたら、俺なら治せるとか豪語して。そん時に言ってたのがこの体重移動のことだった。」
「それで………その人はコントロールが良くなったの?」
「おう。エースとして全国大会決勝まで行ったからな。今思えばかなり凄い人だった。もうちょい尊敬してやれば良かったな。」
志姫はぱあっと表情を明るくすると、思い出したかのように自分のグローブケースに向かっていってメモ帳とペンを取り出した。
「ごめんなさい。さっきの体重移動の話をもう一度聞かせて欲しいの。」
「…………メモ?」
「私あんまり頭が良くなくて。こうやって逐一メモ取らないと覚えられないから」
(えらいっ……偉すぎるっ!!!)
恭の脳裏には『ウチのスーパーコンピュータ並みの頭脳があればメモなんて取らんでも覚えてられんねん。ガッハッハ』とアホヅラでほざきながら次の日になったらもう既に忘れているアイツの顔がよぎっていた。
せめて志姫の勤勉さの10分の1でも彩音にあったなら……そう上手くはできていないのがこの世の中である。
「守備に意識が行きすぎて体重が右に流れちまうって話だな。そのおっさんが言うには投手の究極形は投げ終わった後もずっと一本脚で立ち続けることなんだそうだ。そうすることでリリースポイントが安定して、体の運動エネルギーがボールに最大までロスなく伝わる。」
「一本脚で………それじゃ守備ができないじゃない。ピッチャーは九人目の野手、なんでしょう?」
「九人目の野手である以前に、たった1人だけ自分で試合を動かせる特別なポジションが投手だ。守備がどうこうは満足に球を放るようになってから。ウチのエースを見てみろ。ほっとんどフィールディングに動かねえだろ。あれぐらい図太くていい。」
どうせ守備でボールに触ったところでお前はエラーするだけだろ、続けてそう言おうとしたがしっかりお口をチャック。余計な一言は言わぬが吉。恭は日々学習しているのである。
「一本脚で立つ………一本脚で……難しそう」
「じゃあ早速やってみっか。いきなり座っても平気か?結構投げてたもんな。」
「え?良いの?わ、私なんかがAチームのキャッチャーに受けてもらって。怒られたりしない?」
「………君も既にAチームのピッチャーだろ。何か問題ある?」
スポーツの世界は小学生であっても結果が全て。何に置いても結果が出ていなかった志姫は相当チームで肩身が狭かったのだろう。今の自分をナチュラルに卑下した一言で大体察しはつく。
恭はしゃがんで、土をなぞって指で雑なホームベースを自分の前に描いた。何度も何度も描いているせいかなかなか形、大きさともに出来がいい。
「思いっきり投げてきな。」
「…………うん」
深く深く沈み込む彩音のウインドミルとは違う、浅めのテイクバックから踏み込む志姫のフォーム。その前よりもより体の軸を意識したその投球は………やはりすっぽ抜けてワンバウンドで恭のミットに収まる。
どうやら投げ終わりも一本脚では立てていない。右に流れたままだ。
「ご、ごめんなさい。どうしても身体が右に行って」
「そんな言って一発目でできるなんて思ってねえよ。焦らずじっくり行こうよ」
恭が笑いながら言うと、安心したような顔で再びボールを受け取る志姫。ワンバウンドを投げたことで怒られるとでも思っていたのだろうか。
次に放った球も上手くいかず。今度は先ほどよりホームベース付近にショートバウンドが跳ねる。それを恭は身体でしっかり止め、大きく跳ねさせずに手前に落とす。
「大丈夫!?い、痛くないの?」
「ん?へーきへーき。俺は引っ越し前はこれ硬球でやってたんだ。ソフトボールなんて当たっても痛かねえよ。課題のストッピングの練習に丁度いいわ。」
「ソフトボールは普通に当たったら痛いと思うけど」
どうやら顔を見るに痩せ我慢で本当に気を遣っているわけでもないらしい。それを感じた志姫はほっと一安心で息を吐いた。
それから数球、志姫と恭はボールを投げて捕り、投げて捕り。ほとんどそれらしいボールを投げることはできなかったが、それでもイライラせずにちゃんとボールを受けてくれる。Bチームのキャッチャーの子とは明らかに違う。それを身をもって感じていた。
(これでちょっとは心開いてくれたかな)
少しずつストライクゾーンに寄ってきたボールを見て恭は少しばかりの手応えを感じていた。
投手と捕手はよく夫婦に例えられる通り、その信頼関係が最も重要だ。恭がわざわざここに来た目的は志姫と仲良くなることそれだけではないが、別に彼は嘘を言ったつもりもなかった。
ちなみにワンバウンドをプロテクター無しで止めるのは普通に痛い。硬球とかソフトボールとか関係なく結構な衝撃がある。虚勢で投手の信頼を勝ち取れるなら安いものだ。
「ここにはどのくらい来てるんだ?」
「毎日よ。放課後遊ぶ友達も居ないから………毎日学校終わったら来てる。雨も雪も関係ないし。ふふっ、良いところでしょ。」
「全国の野球少年少女垂涎モノだな。壁当てなんて騒音やら場所やらの問題でやれるとこ無いし。屋根までついてるとありゃな」
言葉を交わしながらボールを受ける。今度はワンバウンドでこそないが、右バッターインコース高めにふけていく。
(一向に良いボールは来ないけど……でも前も思ったが身体付きは良い。特にお尻が大きくてパワーが出そうだ。体の使い方を見るにそう運動神経も悪くなさそうだな。)
そうなるとますます謎である。なぜ彼女のプレーからこれほどセンスのかけらも感じないのか。センスのない競技を、なぜ彼女は頑なにこだわってプレーし続けるのか。
「あ、あの……その……あ、絢辻くん?で良いのかな。」
「恭で良いぞ。絢辻だと妹と被る。」
「そ、それもそうだね。恭くん………は、思ったより話しやすいね。もっと気難しい人なんだって勝手に思ってた」
「絶賛矯正中なだけだよ。自分でも嫌な奴な自覚はある」
「………変な人」
そう言いながらも先ほどまでの泣きべそをかいて自暴自棄になっていた頃より遥かに穏やかな表情になった。随分と肩の力も抜けてリラックスしながらボールを投げて……。
(アレ?さっきよりボールに勢いが無えな。)
先ほどまでより輪をかけてヒョロヒョロのボールがミットに収まる。いつもは弾丸でも着弾したかのように鳴り響く恭のミットが悲しいくらいおとなしい。
「うーん、なかなか一本脚で立てないなぁ。どうしてもフラフラして流れちゃう」
「こういう時はやりすぎるくらいやってみるのが良い。むしろ身体の左側に倒れ込むくらい重心を寄せてみたらどうだ」
「う、うん。やってみるね。」
恭のアドバイス通り投げた後のフォームは左にくぐっと傾いていて………今度は傾きすぎて本当にバランスを崩し倒れ込んでしまう。当然ボールは明後日の方向に飛んでいき……ギリギリ後ろの壁に当たって戻ってきた。
「ごめんなさいごめんなさいっ!なんでこんなにできないんだろ、や、優しく教えてくれてるのにっ!」
帽子を取って何回も頭を下げる志姫。その姿に……恭の声が低くなる。
「ピッチャーが簡単に謝るな。俺はストッピングの練習だから全然大丈夫だし、教えたことができなくても怒るタイプの人間じゃねえよ。」
「ご、ごめ………あっ、わかりました。」
出てきた言葉とは正反対に女の子を威圧してしまった。これではどれほどの説得力があろうか。恭の反省ポイントがどんどん溜まっていく。だが、恭は口を開かずにいられない。
「……………この際だから聞くけど。君はなんでこのスポーツやってんの。そんな謝りながら、惨めな思いして……君ならなんだって出来るだろ。身長を活かしてバレーとか?その学ぶ姿勢と、努力の継続があれば本当になんだって出来る。なぜソフトボールにこだわる?」
多分言いたくないこと、言いづらいことなのは恭でもわかる。でもこれを聞かなければ多分、上辺だけの付き合いになってしまう。これから何千球もその球を受けて心を通わす女の子だ。そのあたりはきっちりしたかった。
志姫は一瞬動揺した表情を見せながらも、こちらの真剣な表情を見て目を閉じた。少し時間を空けて考えた志姫は目を開けると真っ直ぐな視線で恭の方を見つめる。
「苦手、だからこそだよ。恭くん」
ーーー随分とイメージと違う答えが出てきて、今度は恭が動揺を隠せない。
「わたしは弱い女の子だから。苦手だからって逃げちゃったら、逃げ癖がついちゃう。そんな私はかっこよくない。全然……キラキラじゃない。」
「………キラキラ?」
「わたしはキラキラした人がすき。えっと……アクセサリーとかお洋服がキラキラって意味じゃなくて。生き方がキラキラしてる人。逃げた先でもし活躍できたとしても、多分心の底からキラキラにはなれない。これは直感だけど」
説明はイマイチ要領を得ない。だが不思議と言っていることは理解できる気がした。
「このチームで………このままピッチャーやってたら、そのキラキラになれると?」
なんでもない恭の質問。だが志姫は受け答えに詰まると、大きな目をまんまるくして何かに気づいたような仕草をする。
「………不思議。さっきまでその答えが見つからなくて八方塞がりだったのに。貴方から問いかけられたら、スッと腑に落ちる答えが出てきた……かもしれない」
表情は未だ自信のないそれのまま。だが雰囲気が確かに変わった。
「ーーーできるかできないかじゃなくて……やるかやらないか、なんじゃないかって」
その言葉が落ちた瞬間。空気が変わった。
さっきまで震えていた少女の輪郭が、すっと研ぎ澄まされる。
ーーー音が遠のく。
風の流れさえ止まったような静けさの中で、
志姫の視線だけが、まっすぐこちらを射抜いていた。
ーーー息を呑む。
威圧されたわけではない。怒気もない。
だが――マウンドに立つ者だけが持つ、あの独特の張り詰めた気配。
思わず、恭は半歩だけ後ずさった。
(これか)
今なら監督の判断の全てが腑に落ちる。
彩音が守ってきた「神聖な場所」に立つ資格。
実力はまだ伴っていない。だが、この空気を作り出せる者はーー
投手だ。
「県大会、県大会までだ。」
「………え?」
「今週末の県北大会、俺たちは絶対に勝ち上がる。今は無理でも一月後の県大会ならギリギリ形になって間に合うかもしれない。そこを目処に練習していこう。」
「けん……たいかい……?」
「断言する。君はエースになれる逸材だ。他の誰に言われたわけでもない、俺がそう判断した。俺と一緒に課題を一個一個潰していって、みんなを見返してやろう。」
恭は彼女に強めにボールを返す。志姫はそれをしっかりグローブで受け取ると、恭の真剣な顔を見てゴクリと息を呑んだ。
「貴方が、わたしをキラキラにしてくれるの?」
「全て君次第だ。俺も押し付けはしたくない。」
「…………うん。へたっぴな私だけど、よろしくお願いします。」
ーーー良い笑顔だった。少なくとも泣いている顔よりずっと可愛くて、綺麗で、そしてキラキラしている。
そして彼女の腑に落ちなかった謎についても、恭は心当たりを見つけていた。
「あのさ。志姫はBチームのコーチになんて教えられてた?もしかして………肩の力抜けとか教わってなかった?」
「わかるの?いっつもそればっかり言われてたのよ?でも力抜いてても言われるし、弱く腕振ったら全部ボールがどこかいっちゃうし。もうわからなくなっちゃって。」
「そうだろうな。じゃあ………次は思いっきり力んでみろ。コーチの言うこととか気にせず、自分が一番速い球投げれると思う投げ方で一回投げてみろ。」
「えっ?ほ、本当にどこに行くかわかんないよ?」
「大丈夫。後ろは壁だし。」
困惑しながらも、自ら描いたプレートに足を掛ける。すんなり言ったことをやってくれる程度には信頼関係は築けている。
本来野球でもソフトボールでも、投手は完全に脱力した状態からリリースにインパクトを持ってきてそこだけ力を入れるというのがスタンダードな考え方だ。リリースに全ての力を集約するのは力学的にも理にかなっているし、長いイニングを投げるという点でも体力の消耗が少なくて良い。
(だけどいるんだよな、力投型って。力んでも……いや、力んだからこそ高い出力のボールが投げられる投手が。)
もしかしたら彼女は生まれながらに自分の身体を理想的に動かす天才で、自分がどうしたら良いボールが投げられるのか、本能的に全てわかってしまう。凡人が絶対に手を加えてはいけない人間なのではないか。このまともにボールも投げられない五十嵐志姫という女の子を見て、絢辻恭以外にこんなことを発想する人間は絶対にいないだろう。
さっきまで聞こえていた虫の声が、ふっと遠ざかる。
空気が、止まった。恭は無意識に息を潜める。グラブの奥で、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
志姫の腕が振り下ろされる。その動きは、ひどくゆっくりに見えた。指先を離れたボールが、一直線にこちらへ伸びて……
次の瞬間――
スパァァンッ!!
恭の乾いた捕球音が周りのコンクリートを鳴らす。今日一のストレートが右バッターのアウトローギリギリいっぱいに決まった時、恭はそのとんでもない発想が本物の事実だと確信した。
「驚いた」
「い、いま………私。」
「ああ、ナイスボールだ。」
「そう、じゃなくて………一本脚で立ててる」
本人ですら自分の才能を無自覚に押し込めてしまっていた。彼女の謙虚さと素直さと勤勉さが生んだこれは流石に不幸な事故だと言っていいだろう。
「五十嵐志姫。こちら側へようこそ。」
ーーーその日、確実に1人の女の子の人生が変わった。人の理の通じない、バケモノの目覚め。その眼にはバケモノには似つかわしくない、キラキラの嬉し涙が輝いていたが。




