第二十二話 ほっぺのキスはノーカウント
胡桃の言う通りにお互いに一旦家に戻ってシャワーを浴びて着替えてからまた集合し、最後の目的地である胡桃の家に向かった。そう、胡桃の家に向かった筈なのだが。
「…………家っていうか、店?」
「そうですが、店の裏に私の家があるので嘘は言ってません。一ノ瀬精肉店、私お肉屋さんの一人娘です」
そこまで大きい店舗ではない。個人経営の小さな町のお肉屋さん。だがお夕飯時なだけあって随分と主婦のお客さんが多い。
「ただいまお母さん。昨日言ってた人、連れてきた」
「お、お邪魔します」
「おかえり。あらまぁ………貴方が恭さん?聞いてたよりずっと男前じゃないの。胡桃もどんどん大人になっちゃうのねぇ」
「………あの、昨日も言ったけど彼氏じゃないからね。お世話になってる先輩だから」
「あらあら、そうね。そうだ、お腹減ったでしょう?ウチの揚げたてコロッケ食べていきなさい。」
胡桃の母は忙しい時間帯にも関わらず、たった今フライヤーから揚がったばかりのコロッケが半分入るくらいの小さな紙袋に一つずつ詰めてくれた。恭に手渡された瞬間、紙袋の上からでも熱くて火傷しそうなくらい出来立てホヤホヤである。
「タダで……いいんですか?めちゃくちゃ美味しそうだけど……お金払います」
「いいのよ。この子仏頂面で生意気だから友達なんてあんまり連れてきたことないのよ。ましてや男の子なんてねぇ。お世話になってる感謝の気持ちよ。」
「恭さん。一ノ瀬精肉店の牛肉コロッケはテレビで紹介されたことあるくらい絶品なんです。世界一美味しいんです。食べてみてください。」
今まで見たことない胡桃の押しの強さ。ふーふーっと適度に冷ましながらザクっと中心の方まで一口でかぶりつく。
「う、うんまぁ!!!これほんとにコロッケ!?マジで世界一美味えっ!」
今まで恭がイメージしていたコロッケは、美味しいが芋のもっさり感が拭えない揚げ物だったはずだ。だが今恭が口にしているコロッケはジューシーで食べた瞬間に脳内いっぱいに牛肉とじゃがいもの旨みが広がった。食べた瞬間のザクザク感も素晴らしいものがある。
「どうです?最高でしょ。ウチのお父さんのコロッケは世界一なんです」
「このハードルの上がり方から本当に世界一なことあるんだ………マジで美味いっす。感動した。」
「おーいお父ちゃん!恭さんすごい美味しいって!感動してるよぉ!」
「おう坊主!もう一個食うか?」
ハフハフとアツアツのコロッケを美味しそうに頬張る恭。嬉しくなって二個目を準備する胡桃の両親。それを微笑ましく見ていた街の主婦たち。その最高のデモンストレーションによる宣伝で一ノ瀬精肉店のコロッケの売り上げがちょっぴり上がったのは致し方ないことだろう。恭は夢中で気づいていなかったが、抜け目がない。この子にしてこの親ありというところである。
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ーーー正直なところ、胡桃は絢辻恭が人付き合いが得意なタイプにはどうしても見えなかった。
実際恭は人間関係で難のあったタイプだ。感情のコントロールが苦手で口に出してはいけない言葉を抑えられない。それではいけないと自覚してこちらに来てからは常に気を張って人間と喋るようにしている恭である。
胡桃がこの家に彼を呼ぶにあたって何も懸念がないというわけではなかったが、彼が家にいた時の様子を見ればそれが杞憂だったと確信できた。
というか初対面のはずの自分の親と一緒になって楽しそうにババ抜きをしていた彼を見たら、誰が人付き合いが苦手なタイプに見えるだろうか。
「いやぁなんかさ?昔から大人にはあんまり嫌われないっつうか、なんとなくいい感じに喋れるんだよな。素直になれるっていうか」
彼が言うにはどうしても同年代と話す時は肩に力が入ってしまうらしい。胡桃としてはわからない話でもない。自分もまさにそうだったから、少しでも柔らかい印象にするために常に敬語で喋っているのだから。そのせいで余計に慇懃無礼なイメージが先行している部分が無いではないが。
機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら夜道を歩く。その彼の一歩後を着いて行く胡桃。いつも大人っぽくクレバーにチームを引っ張る恭と、今の年相応に元気いっぱいな恭。そのどちらも愛おしくて、胡桃は胸が裂けそうなほど苦しくなる。
「ていうか………悪いな。こんな夜まで居座って、送りまでさせて。迷惑かけっぱなしだ。」
「大丈夫ですよ。お客人をお一人で帰らせて迷子にでもなられたら大変です。恭さん土地勘がない上にポンコツですから。正直言って可能性大です。」
「うう。否定はできないけど。でも俺このままだと夜道を女の子1人で帰らせるクソ野郎にならない?」
「なりますね。でも迷惑だなんて思ってませんよ。私がしてあげたいから、恭さんの隣を歩きたいから、こうしているだけです」
相変わらず丁寧口調でサラッと毒を吐いてくる胡桃。だがその口調はいつもの感じより少しだけ柔らかくて優しい感じがした。
「今日はすごく楽しかったです。友達と放課後遊ぶこと自体久しぶりでしたし。ましてや家に招くなんて。ふふっ、普通は誘った側が家に招くものですよ?」
「そーだよなぁ。なんでこうなったのか俺にはわからん」
「それは私が猛プッシュでお誘いしたからですね。恭さんの家には必然的に未来さんも居ますから。こうやって2人きりで遊ぶのは不可能でしょう?」
「…………別に未来居てもよくない?」
「ダメです。恭さんと私がイチャイチャしてたら絶対ヤキモチ焼いて邪魔してきます。私の方が未来さんとの付き合いは長いんですから、そのくらい分かりますよ」
「イチャイチャって………」
デートとは銘打ちながらも、恭はただ胡桃と仲良くなるために放課後一緒に遊んだ、ただそれだけの認識であったが。胡桃の方の認識はどうやら違ったらしい。
「私は、割と恭さんに対して壁を感じていました。一目置かれていると言えば聞こえはいいですが、どうしても疎外感が拭えなかった」
「……………」
「私にも別に彩音さんに言うみたいに言って良いんですよ?『てめぇ、ピッチャー前のゴロくらい処理しろボケェ。その右手についてるグローブは飾りか?』みたいな。」
「それは……あの………直そうとしてるところだから。あんまり掘り返さないでくれる?」
胡桃渾身のモノマネ。その対象が自分でなかったら思いっきり吹き出して笑いたいところだがこうして自分のとんでもない暴言を客観的に見ると本当に酷い。言ったら言ったで、本当に壁を作られてしまいそうである。
「そりゃまあ、学年も違うから練習以外じゃ交流もそんなに無かったしな。だからこそ今回仲良くなりたいなって思ったわけで」
「………仲良くなれました?」
「おう、なれたね。ババ抜きやってる時の胡桃ちゃん、今まで見たことないくらい笑ってた。砂のお城作ってる時の胡桃ちゃんはいつになく素がでてた。少しでも心を許してもらったんじゃねえかなって思ってる」
「多分それは私だけじゃないですね。ウチの父なんて昨日仲良い男の子連れてくるって言ったら割とカリカリしてたのに。あんなに機嫌のいい父は結構久しぶりに見ましたよ。父の心を掴んだのではないですか」
「胃袋ガッツリ掴まれたのは俺の方なんだけどね」
頬をカリカリと恥ずかしそうに掻きながら、減速して胡桃の隣を並ぶように歩く。恋人のような距離感に胡桃も少し面食らってドキドキしてしまった。
「………俺はさ。恥ずかしい話なんだけど、自分より上手いキャッチャーなんてこの世に存在しないと思ってたんだよね。本気で、それもつい最近まで。」
「同世代の中だったらそれも間違い無いのでは?」
「いいや。そうじゃねえってわからされたのは、胡桃ちゃんを知ってからだ。リード、キャッチング、ストッピング。ピッチャーとのコミュニケーション。胡桃ちゃんのプレーを見ていると、自分の足りないところが良くわかった。自分がどれだけ傲慢で、元のチームメイトに迷惑かけてたのかもな。」
恭の表情が曇る。恭は極端に引越し前のチームのことを話したがらない。あの全国大会決勝の日、あの舞台で、あんなに苦しそうにしていた恭の姿と無関係で無いことくらい、賢い胡桃には察することができた。
「だから………胡桃ちゃんが言うように一目置いてるってのもまあ一理あるよな。俺は胡桃ちゃんを尊敬してて、敬意を持って接してるつもりだ。」
「…………照れちゃいますね。面と向かって言われると。」
「だけどな。それは胡桃ちゃんだけ仲間外れってわけじゃ無い。俺は未来も、彩音も、瑠衣も、みんな尊敬してる。こう言ったら絶対怒られるけど……同世代の女の子達が遊んでいる中であそこまで自分を追い込んで血まみれになるまで鍛錬を積めるって、すげえことだと思う。それは男の何倍もすげえことなんだって、直に接してみてよくわかった。」
あの日、未来にも伝えた心の内。その感情は、月日と共に彼女達と接して、理解して、さらに増すばかりだ。どうしたって男女で身体能力差が出てしまうスポーツで、小学生段階とはいえ対等に渡り合う難しさ。それに真剣に向き合う彼女達の姿勢に驚嘆を禁じ得ない。
その言葉を最後まで、口を挟まずに聞いていた胡桃。誠実で、お世辞では無い本音を話しているのがすごく良くわかる。ウソはつけない、馬鹿正直な人だから。胡桃にとってこのスポーツを始めるきっかけ、その張本人が、世界で一番尊敬してやまない男の子が、自分達をちゃんと理解して尊敬してくれるのが………何よりも嬉しい。
「恭さんは私達の頑張りを、まるですごく苦しいことみたいにおっしゃいますけど。」
「実際、苦しいだろ。あんな過酷な練習メニュー、女の子にやらせるなんて俺なら気が引ける」
「……………別に苦しく無いんですよ。私たちはみんなソフトボールが大好きでやってるんですから。少しでも上手くなりたくて、憧れる人に追いつくために妥協したくなくて。納得して練習に参加していますよ。楽しいです。」
「………楽しい、か」
野球が、ソフトボールが、スポーツが、楽しい。その単語と楽しいという言葉が恭の頭の中でどうしても結びつかない。理解が、できない。
「俺は………野球もソフトも多分得意だけど、好きだって思ったことは一度もない。勝っても勝っても、楽しくはない。」
「………へ?」
「彩音に初めて会った時、言われたんだ。勝ったり負けたりすんのが楽しいんやろって。でもその時、全国大会の決勝で、俺は負けた。その何十倍も勝った。でも………楽しいって未だに思えてない。俺は勝ち負けに、本当は興味がないのか?おかしいじゃんか。」
「……………。」
「挙げ句の果てにイライラしてお世話になった先輩達に当たり散らして。結局気まずくて引っ越しの時もお別れの一つも言えなかった。ーーーわっかんねえ。よく考えてもわっかんねぇままなんだ。胡桃ちゃん、なんだと思う。俺と、君たちの差は。君たちにあって、俺にないものって。」
胡桃ちゃんとの楽しい雰囲気を台無しにしてまで聞くことではない。わかっている、わかっているが………どうしても恭は答えが欲しかった。縋り付くように、懇願するように胡桃の方に顔を向ける。その反応は、本当に意外なものだった。
「……恭さん。怒っていた、というより……」
胡桃は少しだけ視線を伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「がっかりしている顔に見えました。」
「…………は?」
「全国大会の決勝で、ですよ。優勝を逃して悔しいというより……何か、期待していたものがそこになかった、という顔。」
恭の呼吸が、わずかに止まる。
「違う……そんな……」
「本当に、違いますか?」
優しく問いかける声だった。責める響きはない。ただ事実を確かめるような、静かな声。
「恭さんは、こう思ってしまったんじゃないですか。
――日本一のチームなのに、俺と並ぶ奴すらいないじゃないか。
って。」
その瞬間、世界の足場が崩れた。胸の奥が、ずるりと沈み込む。否定しようと口を開く。
ーーーけれど言葉が出ない。
「……そんな……こと……」
違う、と言い切れない。思っていない、と断言できない。心の奥底の、見ないようにしてきた感情が、ゆっくりと輪郭を持ち始める。
自分の中に、確かにあった違和感。
試合に勝っても満たされない感覚。
勝利の後に訪れる、奇妙な虚しさ。
それらが一本の線で繋がっていく。
脚が震える。
動悸が激しくなる。
呼吸が浅くなる。
「……違う……違う……!」
否定したい。だが、理屈がそれを許さない。
もしそれを認めてしまえば。自分はどれほど傲慢で、救いようのない人間だったのか――理解してしまう。
「恭さん。」
胡桃の声は、静かだった。
「あなたは、怒っていたんじゃない。悔しかったんじゃない。――失望したんです。」
胸の奥が、音もなく崩れていく。自分が自分でなくなるような感覚。世界の色が薄れていく。このまま、どこかへ落ちていきそうな――
「……恭さん?」
視界の端で、胡桃の顔が揺れる。何か言わなければ。何か掴まなければ。けれど言葉が見つからない。
自分を支えていた何かが、音を立てて崩れていく。
このままでは、本当に壊れてしまう。胡桃は、ほんの一瞬だけ躊躇った。
——触れていいのか、一瞬だけ迷う。
こんな方法しか思いつかない自分を、ほんの少しだけ恨んだ。
それでも。この人を引き戻さなければならない。
「……………ちゅっ」
「は………えっ…………」
頬に一つ、温かくて柔らかな感触。それが接吻だとわかったのはコトが起こってから5秒も後のことだった。
「くる、みちゃん?俺、もしかしてキスされた?」
「あのっ……女の子的にはほっぺのちゅーはノーカンです。だからその………あの………か、勘違いしないでください!そのショックで朦朧としている人を起こすにはもっと強いショックを与えなければいけなくて………医療行為!そう、これは医療行為ですから!」
恥ずかしそうに腕を掴んで多分身長差的に無理して背伸びでチューしてきたのだとわかる体勢だ。自分でも考えなしにえらいことをやってしまったと誤魔化す姿がなんとも可愛らしい。
「落ち着き………ました?」
「ーーーわかんねえ。混乱して気持ちの整理がつかない。本当に……俺はそこまでのクソ野郎だったのか。でも……納得できちまう。ちょっと……自分への失望が大きすぎる」
「別に………そんなに落ち込む必要ありませんよ。ずっとスタンドから見ていただけの私だって似たようなことは思いましたし。わからない感覚なりに、理屈の理解はできます。」
秋の夜の気持ちいい風が、頬を撫でる。先ほど熱いものを当てられたところが、少しだけこそばゆい。やたらと涼しく感じられるのは多分自分の顔が熱くなっているせいだろうか。
「恭さんは、勝つことが楽しい人じゃないんです。」
胡桃はまっすぐに恭を見る。
「強くなれることが楽しい人なんです。」
「……強く、なること」
「はい。だからこそ、並び立つ相手がいないと満たされない。限界まで競い合える相手が必要なんです。」
恭の胸の奥に絡みついていた何かが、ほどけていく。
「……君たちと俺の差は何かって、さっき聞いたよな。」
「ええ。」
「君たちにあって、俺にないもの。」
「簡単です。ライバルです。」
月明かりが、彼女の輪郭を淡く照らす。
「バチバチに競い合って、高め合う存在。勝つ喜び、負ける悔しさ、その全部を共有できる相手、恭さんには、それがいなかっただけです。」
恭は思い出す。岩代戦。四葉花凛のボール。かすりもせず三振した瞬間。胸の奥に湧き上がった、あの高揚感。
「……俺、あの時」
「目を輝かせて帰ってきてましたよ。悔しさと……嬉しさが混ざった顔でした。」
恭は目を閉じる。
そして、歯切れ悪く、
小さく笑った。
「……俺、もう答え知ってたんだな。」
「ええ。気づいていなかっただけです。」
胡桃は一歩前に出て秋の月を背にして、まっすぐ恭を見上げる。
「これからは私がその役を担います。」
その声は、もう揺らがない。
「あなたの全てを吸収して、最強になる女です。一ノ瀬胡桃は、必ずあなたを超えます。」
秋の満月が、彼女の背後に浮かぶ。気高く、美しく、まっすぐな宣言だった。
「だからもう、退屈だなんて言わせません。」
「……ありがとう。」
その一言には、言葉にできない感情が詰まっていた。
ずっと心に突き刺さって取れなかった棘が、綺麗に取れた感じだ。ずっと目を背けてきた自分の傲慢さは受け入れ難いものがある。だがそれはあくまで過去の話。これからどう自分が生きるか、他人からどう見られるかはこれからの自分次第。失敗を悔やんで、次の成功の糧にするのを許されるのが、子供というものだ。
「連絡先の交換もしましたしね。この先、恭さんにはたっくさん色んなことを教えてもらいますからね。いっぱいお話ししましょう。気軽に電話かけてきてください。」
「ほんとか!?お、俺も胡桃ちゃんにストッピングのこととか、リードのこととか色んなこと聞きたかったんだ!」
「もちろん教えてもらう以上はこちらも情報を出さねばいけませんし。いいですよ。あと………」
「………ん?」
「遊びに誘う時は、教室に来ないでください。恭さん目立ちますので。今回は瑠衣さんの悪ふざけなので大目に見ますが、私の平穏な学校生活を『極力』お守りくださいませ。では、さようなら。」
ーーー今日一番ドスの効いた声で、別れる間際に念を押された恭であった。




