第二十話 一ノ瀬胡桃の平穏崩壊
一ノ瀬胡桃はミステリアスクールガールである。
基本的に誰ともつるまない一匹狼。休み時間は読書に没頭し、友達の話は聞こえてきた流れ弾を聞くのみ。みんなが夢中になっている恋愛漫画はアホらしくて……ちょっとだけ、本当にちょっとだけしか読んでいない。
たまに物好きが勉強を教えてと話しかけてくるときは応対するがそれ以外は孤独を好む。
胡桃はそれが心地よかった。幸運にもクールビューティーな見た目に産んでくれたおかげでクラスに馴染めない陰の者には見られないし、しっかり勉学も運動も励むおかげでなんなら一目置かれている自覚すらある。
(今日もこうやって平穏に一日が過ぎていく)
どこか達観した、小学生らしくない胡桃の考え方。昔から胡桃は脳の発達が同年代の他の子より早い。幼稚園の頃などは周りの女の子や男の子と話が合わないことが多々あり、実際それが今の胡桃の性格を形作った要因でもあるのだが。
ーーー何故か今日は、帰りの会の後の廊下が騒がしい。
胡桃は直感が効く方だが、かなり嫌な予感を感じていた。
「ねぇなんかうちのクラスの前にいるよ?あの人五年生の転校生の人でしょ?名前は確か……」
「絢辻恭くん、だよね!初めて近くで見たけどすっごいイケメン………顔良い……」
胡桃は思わず虚空を見上げた。
(なんであの目立つ人が四年のフロアに……いやいやまだ私に用があると決まったわけじゃない)
上級生である五年六年の教室はもう一つ上の階。わざわざ帰るのにここを通る理由もない。何か理由があるとすれば、唯一の知り合いである自分なのはわかっていたが、胡桃は見ないふりをしたかった。
クラスの女子の反応を見ても分かるが、それはもう目立つ存在が絢辻恭だ。ナイター練習の時にはデビュー失敗がどうたらこうたらと絶望していたが、そんな失敗を差し引いてもお釣りがくる程度にはスペックが高い。
顔が良くて、よく笑って、脚が速ければモテる。小学生女子の異性への憧れなどこんな単純なものだ。彼の持つ都会人的なオーラも相まってそれの大半を満たす転校生は今やこの小さな学校中の注目の的だった。彼はそれに気づいてすらいないが。
(お願いだから………私の平穏を壊さないで……)
「あ、胡桃ちゃん!今帰るところ?待ってたよ。」
そんな一縷の望みを賭けてそっと教室を出た胡桃だったが、もちろん見逃してくれるはずもなく。そして恭の待ち人は当然のように胡桃だった。
恭はすーーっと息を吸い、一気に吐き出す。胡桃の目をまっすぐに見据えると、彼女前に跪いた。片膝をついて、まるでそれは姫に誓いを立てる騎士の如く。
「なっ、な……何やってるんですか!」
「胡桃ちゃん。今日の放課後、俺とデートしないか。キミのことがもっと知りたい」
「うぇっ…………うえええええ!!!!」
恭は胡桃の手をそっと握ると、今度は一点立ち上がり、壁に追いやられ頭の横に手をつかれた。壁ドンでさらに会話を押してくる。
「最近、ずっと胡桃ちゃんのことで頭がいっぱいなんだ。本当に……どうかできるなら俺の願いを聞いてほしい。」
「な、何言ってるの!バカじゃないの!バカ!」
歯の浮くようなセリフを、甘ったるい声で。さらに恭が距離を縮めるとふわっとフローラルな香りが鼻を抜ける。
(柔軟剤の良い香りがする………近くで見ると、こんなに筋肉質なんだ。睫毛が長くて………綺麗な顔立ち。)
もう既に胡桃の脳内は情報過多でパンク寸前だ。先ほどまで教室内にいた女の子たちも今はみんな廊下に出て顔を真っ赤にしている。小学生女子にはあまりにも刺激が強すぎるシチュエーションだ。
(だ、だめ………こんな、キュンキュンしちゃう。大体、こんなキザなセリフ吐いちゃうようなキャラじゃないでしょ!いつもの恭さんだったら………あばばばばってパニックになって……あれ?)
胡桃は気がついた。乙女フィルターを外して見た恭の顔がだんだん青白くなっていることを。発汗して、目があちらこちらに泳いでいる。今にも『あばばばば』しそうだ。
(絶対おかしい………これ絶対おかしい!恭さんはこんな壁ドンなんてする勇気ないヘタレだし!絶対に黒幕がいるこれ!)
自称IQ160の高性能な頭脳がドキドキを抑えてフル回転する。そして周りを見渡して………壁に隠れたつもりの瑠衣がひょっこりこちらを覗いていた。しかもご丁寧にニヤニヤしながらスマホでビデオまで撮っている。
(ぜ、絶対あの人だっ!!!!)
この騒動が誰の差し金か、一発で察したのだった。
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ーーーそれは、三日前のことだった。
「むぅ………うーーん。うーーーーーーん。」
「………なんやうるさいねんけど。おーい、恭くん。何をうんうん一日中唸ってんねん」
「いやぁ………それがさ?」
初めての公式大会を経て、色々と気がついたことがある。良い方でも悪い方でも。
まず打撃は案外なんとかなると自信をつけて帰ってきた。岩代との練習試合に通常練習での紅白戦やフリーバッティング。実践形式ではほとんど前に飛ばず、そのバッティングの鬼のような難易度に愕然としていた恭だが、どうやら対戦していた投手のレベルがおかしかっただけらしい。
一回戦から名門と当たった決勝まで彩音や岩代のエースたる四葉花凛に匹敵する者は誰もいない。大体みんなストレート主体で戦っているし、投げても花凛の魔球とは似ても似つかないチェンジアップという名のスローボールだけだ。あの2人の傑出度がどれだけ高いか身に染みてわかった。
問題は守備。守備には絶対的な自信を持ってプレーしてきた恭だが、その幻想は一日で3つの捕逸によってプライドと共に完全に打ち砕かれた。
(まさかソフトボールのストッピングがこれほどムズイとは。正直……舐めてた。)
投手が手を滑らせると、上から投げる野球は高くふけて行くような軌道を描くのに対して、ウィンドミルのソフトボールは全てワンバウンド。変化球ではなくストレートが、しかも彩音の超高速の直球が恐ろしく手前でバウンドしてくるのである。思えば風太郎のへなちょこストレートで慣らした気分になっていたあの時の自分が情けない。
野球とは根本的にストッピングのアプローチを変えなくてはならない。直感的にそう感じていた。
「ほんで?そのギャップを感じて、どうしようか悩んでいるっちゅうわけやな?」
「いや、多分こういうのは胡桃ちゃんに聞くのが良いって思ってるんだけど」
「うん」
「断られたらどうしよう。そもそもそんな仲良くないし。なんなら若干敵視されてるし。『は?なんで恭さんに私が塩を贈らないといけないんですか。ライバルに泣きつくとか情けないと思わないんですか。大体………』みたいな感じで言われたら俺もう立ち直れない……泣いちゃう」
「………………」
恭は案外、メンタルが弱かった。
「はぁ………男ならクヨクヨせんとズバって聞いたらええやろ。そもそも同じポジションなのにあんま喋らんの?」
「俺の女の子耐性舐めんじゃねえぞ。そんな仲良くない女子に自分から話しかけられる勇気があるわけないだろ!いい加減にしろ!」
「うわぁ」
「おにいちゃんって野球と絡まないとほんとにポンコツなところあるから」
「だんだんボクもキミがわかってきた気がするよ」
引き気味な彩音に苦笑いの未来と瑠衣。だが瑠衣はむぅっと5秒ほど考えるポーズをとると、何か閃いたような仕草をした。
「つまり、仲良くなれればストッピングのことも気軽に聞けるようになるんだよね?」
「お、おう。今こうしてお前らと話せてるわけだし。仲良くなったら俺は大丈夫だ。」
「一対一で話しかけられないなら強制的に話しかけられる状況を作ればいい。デートだ!デートにしよう!」
「お前………俺が女の子をデートになんて誘えると思ってんの?」
「だあいじょうぶだって。ボクの方で段取りは全てしてあげる。キミはその台本をなぞるだけでいいから!」
「ほんとか!?ほんとのほんとに!?」
「嘘なんてつかないってもう。大船に乗ったつもりで、ボクにどーんと頼ってくれていいよ?」
付き合いの長い彩音と未来は勘づいていた。これは瑠衣が悪ふざけを始める時、新しいおもちゃを見つけた時のはしゃぎ方だと。
だが止めなかった。このまま行ったら絶対面白いことになりそうだから。
「それで…………ごにょごにょ………こうして………」
「な、なんかそれなら俺でもいける気がしてきたぞ!」
もちろん恭は知る由もなく、瑠衣の耳打ちした作戦に純粋に目を輝かせていたが。
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最初は瑠衣のいつもの悪ノリから始まったこの計画。想定外だったのは恭の勤勉さと熱心さ。そして………意外にも役者としての才能が彼にあったことだ。
『違う!もっと恥を捨てるの!自分をニュートラルでなんでも吸収するスポンジだと思い込むんだ。絢辻恭じゃなくて今のキミは少女漫画の王子様なんだ!』
『くっ………ストッピングを極めるための第一歩だ。挫けるわけにはいかない……』
絶対に歯を食いしばるところはそこではないのだが、放課後の瑠衣の家でのマンツーマンレッスン、ツッコミ役の彩音はアホらしくて来てもいなかった。
平日三日連続オフは全てこの練習に当てられた。ボーイッシュな見た目に反して少女漫画脳の瑠衣はまさしくスポンジの如く吸収して役を作り上げていく恭に対してさらに凝り性を発動させ、恭も未知の世界の指導を受けて楽しくなっていた。
最終的に元子役で大学時代まで役者をやっていた瑠衣の母親まで介入して指導した結果、こうなった。
「いやこうなった、ちゃうねん。壁ドンとか現実でやったら引くやろ普通に。なんでこんなキュンキュン空間生まれとんねん。」
「良い………良いよ。やっぱりボクの見立て通りだ。恭くんに王子様の才能がある………」
「なはは………」
周りの胡桃の同級生、ついでに未来と彩音はあまりにもやり過ぎた王子様にドン引きと苦笑いだ。だが………。
(はわわ………はわわわわっ!!!)
意外にも、胡桃には刺さっていた。首謀者が判明して、これが悪ノリの産物だということを理解してなお、キュンキュンゾーンは確かに誕生していたのである。胡桃もまた少女漫画脳の乙女だったのだ。
「……………大丈夫?」
「あわっ………あわわっ………あうっ♡」
一方の恭も余裕はなかった。この三日間教えてもらったことの全てをかけて臨んだ大一番だったが、押せども押せども一向に返事がない。あうっとか、はわわっとか唸り声しか返ってきていない。
(おいどうすんだこれ!胡桃ちゃんぶっ壊れちまったぞ!)
(いーからそのまま押して!)
手札切れで救援を求めた恭に、瑠衣は試合さながらのアイコンタクトで意思疎通をする。恭は耳に触れて了解のサイン。再び胡桃に向き直った。
「そろそろ、返事が聞きたい」
「へ、へんじ?」
「俺とデートしてくれるかな。」
「きょ、今日は……ダメ………夜の練習ある……ありますから。明日……」
顔を赤らめ、上目遣いで。両の手の指先を合わせてモジモジする姿はいつものキリッと理知的で冷たい印象のある胡桃とのギャップが凄まじい。恭は結構彼女の仕草にクラクラきていた。
「………別にそんな夜の練習始まるまで付き合わせようとかそんなんじゃないよ?大体俺も練習あるわけだし。」
「わ、私は練習の前にしっかり休みたい人間なんです!別に………一緒に家で夜ご飯食べたいとか、時間気にせず遊びたいとか………全然そんなんじゃないんですからね!勘違いしないでください!」
「う、うん。してないしてない。」
「ちょっとはしてくださいっ!バカっ!」
胡桃のパンチが腹筋にクリティカルヒット。あまりの乙女心の複雑さに頭を抱えるしかない。
「あ、明日………夜まで空けておいて下さい。お母さんとお父さんに頼んで、私の家で夜ご飯ご馳走できるようにします。」
「え、えっと………」
「あと………誘っていただいてありがとうございました。私すごく……嬉しかったです。」
そこまで言って、胡桃は恥ずかしくなって走って逃げた。瑠衣と恭の三日間の努力は身を結んだと言って良いのだろうか。
「ねえいまのって………告白だったのかな?」
「一ノ瀬さんと転校生の人、付き合っちゃうの!?」
一ノ瀬胡桃の平穏な日常は音を立てて崩れ去り、翌日には学校中に噂が広まっていった。




