第83章 地上の闇
冷たい水の流れが竜司と沙希の体を押し流す。
狭い排水トンネルの中、膝までの深さの水が黒く濁り、油と血の匂いが混じっていた。
頭上のパイプから滴る水滴が、規則正しく落ちる音を立てるたび、竜司の胸は締めつけられる。
エリカの叫びが耳に残って離れない。
銃声が途切れたのは、勝ったからではない──負けたからだ。
そう直感した。
「竜司……エリカさん、死んだの?」
沙希の声は、暗闇の中で震えていた。
竜司は即答できず、ただ「走れ」とだけ言った。
やがてトンネルの先に、かすかな月明かりが差し込む出口が見えた。
しかし同時に、外から複数の足音が近づいてくる。
光の輪が揺れ、懐中電灯を構えた影が数人、出口を塞いでいた。
「いたぞ!」
叫びと同時に、ライトの光が竜司の顔を直撃する。
沙希が反射的に目を覆う。
竜司はすぐに状況を判断した。
相手は東条の私兵ではない──服装も装備も異なる。
迷彩柄の防弾ベスト、銃器は米軍規格。
おそらく、東条と取引している外国勢力だ。
「動くな!」
銃口が向けられ、竜司は両手をゆっくり上げる。
沙希を庇うように前に立つが、背後からも水音とともに足音が迫ってきた。
振り返った竜司は息を呑む。
巨体──あの“完成体”がトンネルの奥から再び現れたのだ。
全身は泥と血で汚れていたが、その動きは鈍っていない。
まるで死神が二人を追ってきたかのようだった。
「撃て! 撃ち殺せ!」
外国人傭兵たちが巨体に向けて一斉に発砲する。
だが、銃弾は装甲に弾かれ、火花だけが散る。
次の瞬間、巨体が傭兵の一人を片腕で掴み、壁に叩きつけた。
骨が砕ける音と絶叫が、狭い空間に響く。
混乱に乗じ、竜司は沙希の手を引いて出口へ突進した。
傭兵たちの銃撃が巨体に集中している間に、二人は外の空気を吸い込む。
夜の地上は静かだった──だが、その静けさは異様だった。
工業地帯の外れ、街灯もまばらな空き地。
遠くには製鉄所の煙突が赤く光り、重油の匂いが漂っている。
だが、人の気配は皆無。
竜司は周囲を警戒しながら走る。
しかし、背後から再び地鳴りのような足音が近づいてきた。
あの巨体が、まだ追ってきている。
「沙希、走れ! あのコンテナ群まで行く!」
二人は港に並ぶ無数のコンテナの間に飛び込み、暗闇に身を隠す。
巨体は出口から現れ、月明かりに照らされる。
赤い目が周囲を舐めるように動き、呼吸のような機械音が響いた。
竜司はコンテナの影から、巨体の動きを観察する。
その瞬間、無線から東条の声が漏れ聞こえた。
《……捕獲は不要。二人とも処分しろ》
短い言葉だが、その冷酷さに竜司の背筋は凍った。
巨体が動き出す前に、竜司はコンテナの階段を駆け上がる。
高所から見下ろすと、港の奥に貨物船が停泊していた。
唯一の逃げ道は、あの船だ。
「沙希、あそこまで行くぞ」
「でも……どうやって?」
竜司はコンテナの上から海へ飛び降り、冷たい水の中へ沈んだ。
沙希も必死に後を追う。
水面から顔を出した竜司は、貨物船の梯子を掴み、沙希を引き上げる。
二人が船の甲板に上がった瞬間、港の向こうで爆発が起こった。
炎と黒煙が夜空に舞い上がる。
その爆発音に混じって、巨体の咆哮が響く。
竜司は振り返った。
巨体はまだ生きていた──そして、その背後には、エリカの影が見えた。
彼女は血まみれで片膝をつき、手にはまだ拳銃を握っていた。
だが、その視線は竜司ではなく、巨体の首元に向けられていた。
「竜司──走れ……」
その声が、夜風にかき消される直前、銃声が一発響いた。




