第79章 血の契約
コンテナヤードの闇は、港のライトすら届かないほど深かった。
潮の匂いと、どこか甘ったるい油煙が漂っている。
女は車のドアを開け、ゆっくりと外に出た。
その背中を、竜司たちは警戒心を隠さず目で追った。
「……話す前に、あんたの名前くらい教えてくれないか」
氷室の声は低く、銃を手にしたまま揺らがない。
女は少しだけ口元を歪めた。
「名前はエリカ。姓は忘れたわけじゃないが、必要ない」
海風が彼女の髪を持ち上げ、赤い瞳が一瞬だけ月明かりを反射した。
天城が煙草を取り出しかけ、すぐにやめる。
「で、その“データ”ってのは何なんだ?」
エリカはブーツの踵で砂利を踏みしめ、コンテナの影へ歩いていった。
そこには古びた鉄の机が置かれ、その上には一台の小型ノートPCがあった。
「これに直接入力して。原本は破棄してもらう」
竜司は眉をひそめる。
「破棄……? その情報は命と引き換えで手に入れたもんだ」
エリカは肩をすくめる。
「わかってる。でも、それがある限り、あなたたちは死ぬまで追われる。消すしかない」
氷室は腕を組み、竜司の横に立つ。
「俺たちが信じられる保証は?」
エリカは静かに指を鳴らした。
その合図と同時に、背後のコンテナの隙間から二人の男が現れた。
全身黒の装備、だが武器は構えていない。
「彼らは私の部下。あなたたちの追跡情報は、すでに中央サーバーから消去済み」
天城が低く笑う。
「つまり、お前は“上”の端末にアクセスできる立場ってわけだ」
「ええ。だからこそ、私が消せば二度と追跡は来ない」
竜司はポケットから小さく折り畳んだ紙片を取り出した。
そこには例の座標と暗号コードが記されている。
この情報は、すべての発端であり、すべての鍵でもあった。
だが、渡す瞬間、胸の奥に刺さるような直感があった。
──この女は、ただの第三勢力じゃない。
その目の奥には、氷室や天城でも持ち得ない“国家を越える冷徹さ”があった。
「……一つ条件がある」
竜司は紙片を握りしめたまま言った。
「沙希の安全を、俺たちじゃなく、お前が保証しろ」
エリカは少しだけ目を細め、沙希を見た。
「彼女は特別ね。何者?」
氷室が間に入るように答える。
「答える必要はねぇ。保証できるかどうかだけだ」
短い沈黙の後、エリカはゆっくり頷いた。
「保証する。彼女の名前も記録から消す」
竜司はようやく紙片を机の上に置いた。
エリカはそれを無造作に掴み、PCに入力し始める。
指先が打ち込む度、暗号化されたコードが画面に走り、やがて一つのファイルへと変換された。
それをUSBへ移し、ポケットにしまう。
「これで契約成立」
彼女は短くそう告げ、紙片をライターで燃やした。
炎は夜風に煽られ、小さな灰になって消える。
だがその瞬間、氷室の耳に微かな電子音が届いた。
──ピッ……ピッ……。
視線を横に走らせると、コンテナの影に小型の発信機が設置されていた。
「伏せろ!」
氷室が叫んだと同時に、耳をつんざく爆発音が夜を裂いた。
破片が雨のように降り注ぎ、竜司は沙希を抱えて地面に転がる。
コンテナの一部が吹き飛び、炎が周囲を赤く染めた。
煙の中から、複数の足音が近づく。
黒い迷彩服の部隊──倉庫で彼らを追った連中だ。
天城が顔をしかめる。
「やっぱりお前、完全には裏切ってねぇな」
エリカは息一つ乱さず、銃を抜いた。
「いいえ、これは予定外。あなたたちを殺すのは“別の手”よ」
竜司は立ち上がり、拳銃を構える。
爆風で舞う灰の中、次の戦いが始まろうとしていた。




