第62章 東京湾の罠
夜の東京湾は、真夏とは思えない冷たい風が吹き抜けていた。
埠頭にずらりと並んだコンテナが、まるで巨大な墓標のように闇に沈んでいる。
遠くから聞こえる波の音と、金属がきしむ音だけが耳に届いた。
竜司たちは、九条が手配した偽装トラックの荷台に潜み、指定された倉庫の近くまで運ばれた。
荷台の薄暗い空間には、竜司、沙希、美咲、九条――異様な四人が息を潜めている。
エンジン音が止まり、ドライバーが短く合図を送った。
「着いたぞ。後は……知らん」
荷台のシャッターが開くと、潮の匂いと油の匂いが混ざった空気が一気に流れ込んだ。
竜司は先に飛び降り、あたりを素早く確認する。
街灯の光はほとんど届かず、海霧が漂っているせいで視界は悪い。
しかし、その奥――倉庫の扉付近には黒羽会の見張りが三人、無線機を手に立っていた。
「こっちから行くしかない」
九条が低く言い、倉庫脇の影に沿って進む。
その足音は海風にかき消され、見張りには気づかれない。
倉庫の中は、照明が最小限に抑えられ、床に積まれた木箱が幾何学的な迷路を作っていた。
その一角――銀色のドラム缶と、ガラス瓶に入った液体が並べられている。
「カストリ」だ。
鼻を刺すような化学臭が、ここがただの物資置き場ではないことを告げていた。
竜司が視線を巡らせた瞬間、奥のシャッターが開き、数台の黒塗りの高級車が入ってきた。
降りてきたのは、佐久間と数名の幹部、そして――スーツ姿の政治家らしき男たち。
彼らの会話ははっきりとは聞こえないが、断片的な言葉から、取引の規模が国家レベルに及ぶことが分かる。
「証拠を押さえるわよ」
美咲が小型カメラを構える。
九条が竜司の耳元で囁く。
「撮るだけじゃ駄目だ。奴らの持ち出しルートを潰す」
竜司は頷き、倉庫奥の搬出口へと向かう。
そこには大型トレーラーが待機しており、荷台にカストリが積み込まれつつあった。
沙希が工具箱から取り出したのは、小型の時限式発火装置――見た目はただの金属ケースだが、仕込まれた化学薬品が反応すれば数分で炎を生み出す。
「全部燃やすのか?」
「ええ。取引そのものを潰す」
だが、その瞬間――背後から銃口の冷たい感触が竜司の首筋に押し当てられた。
「動くな」
低い声。
振り返ると、そこには黒羽会の用心棒・村上が立っていた。
数日前、港で竜司を追い詰めた男だ。
「やっぱり来やがったな。佐久間さんが言ってた通りだ」
銃声が響く寸前、美咲が横から飛び込み、村上の腕を蹴り上げる。
銃が床を滑り、竜司は即座にその顎を拳で打ち抜いた。
村上は呻き声をあげて倒れ込む。
しかし、その音で佐久間たちが気づいた。
倉庫全体がざわめき、幹部たちが一斉に銃を構える。
「侵入者だ! 殺せ!」
怒号とともに銃撃戦が始まった。
竜司と九条は木箱の陰に身を隠し、応戦する。
美咲は低姿勢で走りながらカメラを回し続け、証拠映像を確保していく。
沙希は搬出口へと駆け、発火装置をカストリの山に仕掛けた。
「あと三分!」
彼女の声が響く。
銃弾が木箱を貫き、薬品瓶が割れて異臭が漂い始める。
火花が一つでも触れれば、一瞬で火の海になる――竜司はそれを理解していた。
「九条! 美咲! 撤収だ!」
全員が搬出口へ向かうが、そこには既に佐久間が立ちはだかっていた。
「逃がすわけねえだろ……竜司」
佐久間の手には短機関銃。
その引き金が引かれた瞬間、轟音が倉庫を揺らした――発火装置が作動したのだ。
炎がカストリの山を包み、爆発的な熱が押し寄せる。
竜司たちは咄嗟に飛び出し、港の岸壁へと転がり落ちた。
背後で倉庫が炎に包まれ、佐久間の怒声が混ざった。
だが、その声は次第に爆音と火災報知器の音にかき消されていった。
海風が熱気を運び、夜の東京湾が赤く染まる。
――しかし竜司は知っていた。
これで終わりではない。
佐久間は必ず生き延び、次こそ牙を剥く。




