第18章 闇の声
ロッカールームの空気は、湿ったタオルの匂いと汗の熱気で重く淀んでいた。
監督は受話器を握ったまま固まっている。竜司が近づくと、監督は小さく首を振り、電話を差し出した。
「……お前にだ。山岸孝三だ」
竜司は深く息を吸い、受話器を取った。
「……竜司だ」
受話器の向こうから、低く湿った声が響く。
「面白い試合を見せてもらった。だが、お前は一線を越えた」
背筋に冷たいものが走る。
山岸の声は、穏やかさと殺意を同時に孕んでいた。
「鬼塚を潰しただけで満足か? 本当の地獄は、これからだ」
竜司は黙って耳を傾ける。
「お前の家族、源、恭平……全員が“事故”で消えるかもしれん」
竜司は咄嗟に言い返した。
「脅しか? 証拠はもう押さえてある」
山岸は短く笑った。
「証拠? 紙や映像なんて、燃やせば灰になる。問題は、人間だ」
その言葉を最後に、電話は切れた。
竜司は受話器を置き、源と恭平を見た。
「……奴はこっちの動きを掴んでる。次は俺たちの命を狙ってくる」
恭平は眉をひそめ、タブレットを胸に抱えた。
「じゃあ早くマスコミに流そう」
源が首を振る。
「早い。山岸の背後には政治家と警察がついてる。下手に動けば、逆に俺たちが“偽造犯”にされる」
重い沈黙が落ちた。
その夜、竜司は源のアパートに身を寄せた。
テレビでは試合のダイジェストが流れ、竜司の同点打が繰り返し映されている。だが画面の端に、三塁側で腕を振る鬼塚の姿が一瞬だけ映り込んでいた。
「……これだけでも、少しは戦えるかもしれんな」源が呟く。
だが次の瞬間、外でブレーキ音が響いた。
窓から覗くと、黒塗りのセダンが二台、路肩に停まっている。
恭平が窓際に駆け寄り、小声で言った。
「……山岸の連中だ」
アパートの階段を、重い靴音が上ってくる。
源が素早く照明を消し、三人は暗闇の中で息を潜めた。
ドアノブが、ゆっくりと回る。
――鍵はかかっている。だが、時間の問題だ。
竜司は懐から、小さなUSBメモリを取り出した。
「これを守れ。映像のバックアップだ」
恭平が受け取ろうとした瞬間、竜司は首を振った。
「いや、お前じゃない。源、頼む」
源は頷き、ポケットに押し込んだ。
次の瞬間、ドアが蹴破られ、黒服の男たちが雪崩れ込んできた。
竜司は椅子を掴んで一人を殴り倒し、恭平は背後から別の男に飛びかかった。だが数が多すぎる。
「走れ!」竜司が叫んだ。
源はUSBを握りしめ、窓から飛び降りた。二階の高さから転げ落ち、足を引きずりながら路地裏へ消える。
室内では、竜司と恭平が必死に抵抗していた。
黒服の一人が懐から何かを取り出す――細い注射器だった。
竜司は咄嗟に手を払ったが、恭平の腕に針が突き刺さる。
「っ……!」
恭平が崩れ落ち、瞳が虚ろになる。
男たちは無言で恭平を担ぎ上げ、そのまま外へ連れ去った。
竜司は床に押さえつけられながら、ドアの向こうで鳴り響くエンジン音を聞いた。
――恭平が、攫われた。
残った一人が竜司の耳元で囁く。
「山岸が言ってた。証拠を返せば、友達は生きて帰るってよ」
竜司は答えなかった。代わりに、黒服の眼を真っ直ぐに睨み返した。
その視線に、男はわずかに怯み、舌打ちして出て行った。
静まり返った部屋に、竜司の荒い息だけが残った。
そして、その息の奥で、確かな決意が芽生えていた。
――奪い返す。必ず。




