決定的な錯誤
ファニア王国が戦時体制に移行した日から一週間が経過した。
聖ランツ教国軍とディバド教会の勢力は意思決定能力を失ったまま、ファニア王国軍によって各地で撃破されつつある。大きく勢力を落とした教国側勢力は残存兵力が散り散りに本国へと帰還するべく元トラーゴ辺境伯領へと向かっている。
トラーゴ辺境伯領は先の侵略戦争で教国側に寝返っていたが、続々と流れてくる敗残兵の受け入れにより統治機能が麻痺。敗残兵の一部が野盗化したこともあって大幅に治安が悪化した。
これにより教国が再度の侵攻をかけようとしても、まずトラーゴ辺境伯領を平定する必要があるため前回のような奇襲作戦は不可能となっている。現在国境線では長期戦を見据えた睨み合いが始まっていた。
一方で王都では早期に教会勢力の首脳部が壊滅しており、ジュスト=パスキエを始めとした神官教師や、ディバド教の布教に従事していた神官のほとんどは情勢の変化を知る前に王国軍に拘束された。
その後教国軍及び派遣団の行いに対して責任者不在のまま簡易的な裁判が行われ、捕らわれた神官の中で比較的高位だったジュストが全ての責を負わされて処刑されることにとなる。本人は必死に助命を嘆願したが、先日の神前決闘で一方的な裁定を下したことに対する王国首脳部の心証が悪すぎた。結果として彼は自身が行った以上の理不尽によって命を落とすこととなったのだ。
ファニア王国ではサカリアス=デ=レアル男爵令息が黒魔法使いとして覚醒したと正式に認められたが、サカリアスはバレンティン=デ=ファニア第二王子との確執を理由に臣従を拒否。あくまでも協力関係ということで決着した。
またサカリアスは今後ディバド教会との対立を懸念して姿を隠すこととなる。交渉においてはサルバドル=デ=ファニアが改めて交渉役として指名され、信頼の証としてロベルタ=デ=シスネロス子爵令嬢が返還された。
マルコス=デ=シスネロス子爵はロベルタの返還を喜んだものの、ディバド教会と手を結んだバレンティンと彼を擁護するフロレンシア=デ=ファニア王妃を抗議の意味を込めて告発する。罪状はサルバドルへの暗殺依頼とライムンド=デ=ファニア第一王子への暗殺謀議。王妃と協力関係にあったシスネロス子爵は確かな証拠となる手紙を保管しており、王妃の有罪は確定的と見られている。
この告発によって王妃が罪を得た場合シスネロス子爵もまた罪に問われることになるのだが、シスネロス子爵はそれに先立ってパトリシオ=デ=ファニア国王に自らの罪を告白。己の一命をもって一族の助命を嘆願し、今は国王の裁定を待っている。
またサカリアスとの交渉において功績のあったサルバドルよりロベルタとの婚約が打診され、国王とシスネロス子爵の名において承認された。これに伴いロベルタの本当の生家とその境遇が明らかにされる。報告を受けた国王はコンラド=デ=レアル男爵及びパロマ=デ=レアル男爵夫人を密命の不履行の咎で叱責するも、黒魔法使いの育成に成功した功と相殺してそれ以上の罰は下さずに終わった。本来ならば褒章があってしかるべきところであるが、サカリアスが臣従を拒否した原因の一つとして教育不足があったことと、今後のサルバドルとの関係を考慮してこの裁定に落ち着いたのだ。
そして一連の騒動の中心にいたバレンティンは幽閉が正式に決定し、現在は城にある幽閉専用の塔にいた。この塔は魔術妨害の術式が施されており、脱獄は事実上不可能である。
身分を考えれば処刑される可能性は低いが、あくまでも今のところという注釈がつく。今後の情勢次第ではどうなるのか知れたものではない。また本人もそれがわかっているのか、日々精神状態が悪化しているという報告が国王に届いていた。
結果としてサルバドルはバレンティンを退け、ある程度の立場を確立した。またロベルタもその婚約者として、また黒魔法使いの妹として周囲に認知された。
ファニア王国と聖ランツ教国の緊張状態は高まっているが、すぐに開戦できる余力は双方にない。しばらくは何事も起こらないだろうと多くの者が考えていた。それはロベルタとサルバドルも例外ではない。
一国を呑み込んだ宗教組織に仇敵として認識されるということの意味を、二人は正確に把握できていなかったのだ。
貴族院は神官教師たちが投獄されたことで教師の数が半減し、一時的に休校となっている。再開の目途はなんとか立ったものの全ての授業を滞りなく行える状態とも言い難く、苦肉の策として成績優秀な生徒を早期に進級、卒業させることで生徒数を削減するという方策を取った。
その結果一年次の首席と次席である二人は休校の間に次々と試験を受けることになり、最終的に三年次として扱われることで落ち着いた。ロベルタは女性の下位貴族ということもあり本気を出せば卒業も可能ではあったが、そもそも貴族院に通う理由がサルバドルの近くにいるためなのでサルバドルの成績に合わせたのだ。
一方サルバドルはいかに優秀と言えど王族であり今後の功績によっては公爵家を興す可能性もあるということで、かなり厳しい基準で試験が行われた。第一王子であるライムンドが一つ上の四年次に上がったことに比較すると快挙ではあるものの、ロベルタと比較するとどうしても地味に思えてしまう。そこがサルバドルにとってはやや不満であった。
「全力を尽くしたのだがなぁ」
「十分ご立派な成績だと思いますが」
サルバドルの愚痴にロベルタが相槌を打つ。最後になっていた魔術制御の試験が終わり、教師達も引き上げた昼下がりの魔術練習場には人の気配がない。がらんとした空間に二人の声だけが響いていた。その、はずだった。
「そうは言うがな」
「失礼いたします。そこにいらっしゃるのはロベルタ=デ=シスネロス様ですか?」
まだ続きかけたぼやきを遮って背後から聞こえた声は、聞き覚えのない女性のものだ。おそらくまだ若い。張りがあり、同時に凛とした芯が感じられる。
だがそれは重要ではない。この場所には今二人しかいなかったはずだ。いったい背後の女性はいつ現れたのか。ロベルタにせよサルバドルにせよ、他者の気配には敏感なほうだ。なのになぜ全く気付かなかったのか。いや、今だって誰の気配も感じられない。
その事実に途轍もない戦慄を感じた二人は即座に振り向いた。およそ五歩の距離には想像どおりに若い女性の姿。だが違う。何かがおかしい。服装はディバド教会における最精鋭である聖騎士団のものに酷似しているが、彼らは教会総本山を守護しておりファニア王国には派遣されていなかったはずだ。だがそれもどうでもいい。髪の色も目の色もありふれた茶色。顔立ちにも特徴らしい特徴はない。しかし決定的におかしいのはその眼だ。彼女の視線はどうしてロベルタの左眼から離れないのか。一体、何を、見て、いるのか。
女はたった一歩でロベルタの前に立つと、大きく身を乗り出して片眼鏡を覗き込む。そして決定的な一言を発した。
「ああ、やはり貴女のほうでしたか」
その言葉が終わるかどうかという瞬間に、ロベルタとサルバドルは跳び退った。間違いない。この女は気付いている。サカリアスではなくロベルタが黒魔法使いだと見抜いている。そして、黒魔法使いを殺すためにここにいる。それは直感というにはあまりにも絶対の確信だった。
おそらくはディバド教会からの刺客。だが、全く想定していなかった存在。なにしろ、ロベルタは先日の派遣団本部の襲撃で教会最高幹部を数名殺害しているのだ。その死霊から得た情報にも存在しない刺客など、想定するほうがどうかしている。
「長かった」
その一言を呟く間だけで、女は一挙動で剣を抜きざまにロベルタへ切りかかった。ロベルタもサルバドルも王国最強の剣士の技を再現した傀儡と訓練を重ねてきている。にもかかわらず女の挙動を何とか目で追うのが精いっぱいで、碌な対応ができない。自身の影を通して深淵から一体の傀儡を呼び出し、かろうじて割り込ませただけだった。
「長い間、ただ魔女の殺し方を考え抜いた」
割り込んだ傀儡を一刀両断にした女はさらに間合いを詰める。ロベルタはなりふり構わず次々と傀儡を呼び出すが、進路を妨害できるのは一体につき一瞬というありさまだ。
「ただ魔女を殺せるよう鍛え抜いた」
女は歓喜に震える声で呟き続けながら、それぞれが達人級の腕前を発揮できる傀儡共を蹂躙していく。そう、呟きながらだ。女は先ほどから呪文を一度も唱えていない。魔術を使わずにこの出鱈目な強さを発揮しているのだ。
「貴女だけは、絶対に殺す」
炯々と光る目がひたすらにロベルタを追う。視線はロベルタから離れないのに、背後から襲い掛かった傀儡を見もせずに切り捨てる。既に十体を超す傀儡を切っているが、疲れは微塵も見えない。周囲に転がる傀儡などよりずっと命の気配を感じさせない怪物だ。
「大地を揺るがす神グラビクトに乞う。その腕をこれより伸ばせ」
サルバドルが銀魔術『斥力偏向』で重力の方向を変えた。周囲に転がる傀儡を女に向けて落下させようと試みる。女めがけて落下した傀儡にはまだ魔力が残っており、ロベルタの支配下から外れていない。下肢を切断されたなどで動けないだけだ。ならばその傀儡の動く部位でまだ妨害が可能なはずだった。
「慈悲深き女神ルズレグラに乞う。穢れを祓い滅さんことを」
女が白魔術『破邪』で傀儡の支配を断ち切り、浄化された傀儡が塵となって舞う。破邪で傀儡を浄化する場合、傀儡に込められた魔力を上回らなければならない。だが傀儡に込められていた魔力の総量は膨大だ。それだけの魔力を持つ者など魔法使いでもなければそうはいない。いないはず、だった。
「逃がすものか」
女はやや疲れた様子を見せているものの、纏わりついた傀儡の全てを塵にしてなおロベルタに迫る。もう一度同じことをさせれば魔力切れで昏倒する可能性はあるが、その隙を作れるかどうか。
「流れ来る神ダクアに乞う。時刻む針を躍らせよ」
ロベルタはサルバドルが無理矢理作りだした時間で可能な限りの傀儡を呼び、さらにそのうちの一体を青魔術『加速』で時間を加速させて女へと連携攻撃をかける。一国に冠絶する武技の持ち主が三人掛かりで連携し、そこに加速で援護を受けた一体を加えているのだ。常人に反応できる攻撃ではない。
「この程度では」
女が初めて傀儡の攻撃に対して受けに回る。しかしその防御を抜ける気配はない。それどころかこの状態でも女のほうが優勢を維持している。
「退くぞロベルタ!」
サルバドルは身体強化をかけた身体でロベルタの手を引き、廊下を駆け抜けた。このまま逃げられるとは思えないが、このまま押し切れるとはもっと思えない。今はただ態勢を立て直す時間が欲しい。
「させるか」
女が叫ぶころには、傀儡は二体しか残っていなかった。しかも剣を持つ手とは逆の手に、傀儡のものだった短槍が握られている。
「殿下! 避けて!」
手を引かれたロベルタが叫ぶ。だがその警告も虚しく、女の投じた槍によってサルバドルの右腿が貫かれた。
「ぐあっ!」
槍に貫かれたサルバドルの右腿からは多量の血が流出し始める。太い血管を傷つけたらしい。槍を抜いて白魔術で治療すれば死ぬことはないだろうが、今すぐ行わなければ間に合わないだろう。
「これで逃げられませんね」
だがその時間を女が与えてくれるはずもない。迎撃のために傀儡を呼び出してはいるが、援護の魔術を詠唱する時間を作れるかどうか。今でも呼び出した端から傀儡を潰されているのだ。
「くっ」
ロベルタの心臓を怒りが焦がす。なんというザマか。このままでは主を守ることもできずに殺される。先ほどまでなら自分が死ねばサルバドルは生き残れただろう。この女は終始ロベルタしか見ていない。だが今の状況では自分が死ねばサルバドルも手当てが間に合わず死ぬ。よりによって自分を助けようとしたせいで主が死ぬのだ。そんなことのためにあの夜の誓いがあったというのか。
「覚悟しなさい」
まるで無人の野を歩むが如く女が近づいてくる。もはやロベルタには打てる手が残されていなかった。
「流れ来る神ダクアに乞う。時刻む針を躍らせよ」
その、サルバドルの呪文がなければ。




