第8話 歪な食卓と、不実の系譜
侍女長アメリアがリリアナを紹介した際の、あの冷ややかな声音。そして、現侯爵夫人ダニエラという後見。
私は、メリッサたちに下がって良いと告げると、一人になった部屋でソファーに深く腰掛けた。そして、父から届けられた『報告書』の内容を頭の中で反芻していた。
トルドール侯爵家――この輝かしい大貴族の内部には、父の言葉を借りれば『貴族家にありがちな歪み』があった。
現当主、ノーマン・トルドール侯爵。
アレックスが十歳の頃、前侯爵夫人であるアレックスの実母を病で亡くしている。大貴族の正妻の死。それだけでも社交界にとっては大きな話題だったが、真の話題はそのわずか半年後に起きた。ノーマン侯爵が後妻として迎えたのは、名門の令嬢ではなく、弱小貴族であるルース男爵家の年増の娘、ダニエラだったのだ。
妻の死後、わずか半年での再婚。しかも相手は遥か格下の男爵家の行き遅れた娘。
本来なら醜聞以外の何物でもないその婚姻が強行された理由は、あまりに不愉快な真実だった。
ノーマンとダニエラは、学園時代からの恋人同士だったのだ。しかし身分違いゆえに結ばれず、ノーマンは婚約者であったアレックスの母と政略結婚に踏み切った。要するにアレックスの母は、夫の心が別の女にあると知りながら妻の座に据えられ、子を産まされ、生涯愛を知らぬまま早世したのだ。
アレックスが父親と現夫人を激しく嫌悪している理由は、ここにある。
さらに、報告書に並ぶ事実は私の背筋を冷たくした。
ダニエラは輿入れの時点で、すでに三歳の男児を連れていたのだ。つまり、その子が生まれたのは、前侯爵夫人がまだ存命だった頃になる。
その出生時期を調べれば、前侯爵夫人が病床で苦しんでいた時期とも重なっていた。侯爵閣下は、その最中に愛人に子をなさせていたのだ。その男児は、おそらくノーマンの実子であろうと報告書には記されていた。
ルース男爵家は、ダニエラがノーマン侯爵の愛人として囲われるようになった頃から、長きにわたってトルドール侯爵家から多額の経済的援助を受け、今やその寄生によってのうのうと暮らしているという。
(……こういう裏事情を調べる能力は、さすがはお父様ね。本当に油断がないわ)
結婚の通達とともに、父が私にこの報告書を届けさせたのは、『この歪な泥沼に巻き込まれず、ただの政略の妻として息を潜めていろ』という警告だったのだろう。
私はゆっくりと立ち上がり、鏡に映る自分の顔を見つめた。
感情を表に出さない、冷たい表情。……これでいい。
愛など最初から信じていない。だからこそ、この家の歪んだ愛憎に巻き込まれることなく、自分を守っていけるはずだ。
やがて夜になり、私は晩餐の席へと案内された。
豪奢な食堂の、重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、四人。
現当主ノーマン侯爵、ダニエラ夫人、次期侯爵で私の夫となるアレックス、そして私だ。
だが、十三歳になるダニエラの連れ子、シモンの姿はどこにも見当たらなかった。
給仕たちが手際よく運んでくる極上の料理を前に、当たり障りのない世間話が交わされる。私は王家の教育係直伝の、淑女の手本のような所作でナイフとフォークを動かしながら、正面に座る侯爵夫妻を観察していた。
現当主ノーマンは、アレックスをさらに逞しく、年配にしたような壮年の男盛りだった。確かな威厳があり、いかにもやり手の高位貴族という印象を受ける。
一方で、その隣に座るダニエラ夫人は――一言で言えば、あまりにも『足りていない』女性だった。
儚げで、男の庇護欲をそそる容姿をしてはいるが、侯爵夫人としての気品や覇気が全くない。給仕への視線の配り方、会話の受け答え、スープを口に運ぶ作法。そのすべてにおいて、大貴族の夜会を仕切る高位貴族家の夫人としての洗練さが欠けていた。
おそらく、学園時代に施されるはずの高等教育も、すべて『男爵令嬢』のレベルで止まっているのだろう。
そんな歪な空気の中、ノーマン侯爵がワイングラスを置き、私に向かって重々しく口を開いた。
「ロクサーヌ。ようこそ、トルドール侯爵家へ。君の謹慎が明けたばかりということもあり、結婚式は行わないことにした。これは両家で決めたことだ。アレックスも、これでようやく落ち着いてくれるだろう。社交界一の遊び人などと騒がれて、親としても頭を痛めていたのだ。これからは夫婦二人、仲良くやっておくれ。よろしく頼むよ。アレックスも、わかっているね」
いかにも『良き父親』といった風な、穏やかで包容力のある声音。
私は、彼の隣でただお人形のように、薄く微笑むことしかできないダニエラ夫人を見つめ、それから、隣に座るアレックスへと静かに視線を巡らせた。
アレックスは、父親が口を開いた瞬間から、完璧な仮面の笑みを浮かべていた。だが、その琥珀色の瞳の奥には、刺すような軽蔑と憎悪が渦巻いていた。
「はい、父上」
アレックスは「父上」と呼んだ。だが、その声には実の父親への情など、微塵もなかった。
「ロクサーヌという、これ以上ないほどに高潔で美しい妻を得たのです。これからは、僕のすべてを彼女に捧げるつもりですよ。……どこかの誰かさんのように、不実に生きるつもりはありませんから」
ピキリ、と食卓の空気が凍りつく。
アレックスの痛烈な皮肉。ノーマン侯爵の眉が微かにピクリと跳ね、ダニエラ夫人は怯えたように小さく肩を震わせた。
誰も信じない、愛など求めない、そう決めてこの家にやってきた私。
けれど、どうやら私が放り込まれたのは、実家以上に深い、過去の愛憎が渦巻く場所だったらしい。
私は凍りついた食卓で、静かに微笑んでいた。そこに『新婚の花嫁』としての感情はなかった。
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