第6話 冷徹なる覚悟の、最初の一歩
カタン、と静かに馬車が止まった。
辿り着いたのは、社交界で華やかな噂の絶えないアレックス・トルドールの住まう、トルドール侯爵家の広大な邸宅。
実家に捨てられ、修道院からそのままこの地へ送り込まれた私は、お供の侍女すらもおらず、身一つで馬車を降り立った。
誰のことも信じない。これからは、自分の誇りだけを支えに生きていく――。そう心に決め、私は馬車の扉が開くのを待った。
馬車の扉が御者によって静かに開かれると、そこには厳格そうな壮年の家令と、品のある佇まいをした侍女長らしき女性が深く頭を下げていた。
「ようこそおいでくださいました、ロクサーヌ様。トルドール侯爵家家令のクロードでございます」
「侍女長のアメリアにございます。ロクサーヌ様、長旅お疲れ様でございました。お疲れでございましょうが、アレックス様がお待ちでございます。まずは、サロンへご案内いたします」
「お出迎えありがとう、クロード、アメリア。カークランド公爵家が次女、ロクサーヌです。今日からよろしくお願いいたします」
一年半の謹慎生活を経て、私の心は完全に凍りついていた。
けれど、身を粉にして励んだ王子妃教育は、私の身体に深く刻み込まれている。
背筋をすっと伸ばし、一切の無駄がない優美な微笑みを返すと、クロードとアメリアが一瞬、ハッとしたように息を呑むのが分かった。
彼らに案内されるまま、私はアレックスが待つサロンへと足を踏み入れる。
大きな窓から差し込む午前中のまばゆい光が、サロンの床に美しい陰影を作っていた。その光の真ん中へ、私は背筋を伸ばし、ゆっくりと進み出る。
一年半、陽の光から遠ざかるような生活を送っていた私の肌は、陶器のように白く透き通り、金の髪は太陽の光を浴びて神々しいまでに輝いていた。可憐な少女の面影を脱ぎ捨て、圧倒的な気高さと凄みすらまとった私の姿に、サロンに控えていた屋敷の使用人たちが、まるで女神でも目撃したかのように一斉に息を呑んだ。
そのサロンの奥、ソファーに腰掛けていた一人の男が、ゆらりと立ち上がった。
流れるような金髪に、琥珀色の瞳。仕立ての良い衣服を身につけた彼こそが、社交界一の遊び人と名高い、この家の嫡男アレックス・トルドールだった。
立ち上がったアレックスは、幽霊でも見たかのように、その場に釘付けになっていた。
(……何だ、この神々しいほどの美しさは)
アレックスの心に、雷に打たれたような衝撃が走った。――彼は、一目でロクサーヌに惹かれていた。
話に聞いていた『第二王子の元婚約者』は、実家からも王宮からも見放され、一年半も修道院で泣き崩れていた陰気な令嬢のはずだった。どうせプライドだけが高く、中身はボロボロの拗ねた女がやってくるのだろうと、退屈極まりない気持ちで待っていたのだ。
しかし、目の前に現れた女性は違った。
日の光を浴びて立つ彼女は、陰気どころか、誰も寄せ付けないほどに凛としていて、傷ついた過去など微塵も感じさせない圧倒的な高潔さ。アレックスがこれまで散々相手にしてきた、打算と色香で近づいてくる貴族夫人たちとは、何もかもが違って見えた。
アレックスは、生まれて初めて、胸の奥がドクンと跳ね上がるのを感じた。息をすることすら忘れるほどの衝撃だった。
彼は自分の動揺を隠すように、余裕たっぷりの笑みを浮かべ、私に近づいてきた。
「やあ、はじめまして。トルドール侯爵家へようこそ。アレックスだ。ロクサーヌ嬢。噂に違わぬ美しさだね」
お決まりの甘い賛辞。私は冷徹な瞳で彼を見つめ、完璧なカーテシーを返した。
「はじめまして。カークランド公爵家が次女、ロクサーヌでございます。至らぬ点も多いとは思いますが、これからよろしくお願いいたします」
その凛とした鈴の鳴るような声、指先の動き一つに至るまでの洗練された所作に、アレックスはさらに心を深く射抜かれた。彼の瞳に、じわじわと熱い情熱が灯っていく。
「……ああ。君は、声も、所作も美しいね」
「……」
じっと熱を帯びた目で見つめてくる彼に、私は内心で冷ややかに鼻で笑った。
(なに、この人。会って数秒でこれだわ。流石は社交界一の遊び人ね。息をするように甘い言葉が出てくるのね)
そんな私の冷ややかな視線にも気づかず、アレックスはうっとりとしたように言葉を重ねる。
「金の髪に、惹き込まれるような深い青の瞳。透けるような白い肌に、瑞々しい赤い唇か……。想像以上の美しさだな」
「《《夜の社交界で》》有名なアレックス様にお褒めいただけるなぞ、恐れ入ります」
私のどこか事務的でトゲのある返答に、アレックスはふっと不敵に笑った。
「ふっ。僕の《《女遊びの噂》》のことかい? 君は彼女たちとは違う。安心するといい」
(は? 『安心』ですって。上から目線に吐き気がするわね。どうせ私を、実家に捨てられた哀れな女だとでも思っているのでしょう。他の女と同じように、手懐けられると思ったら大間違いよ)
私はすっと目を細め、遠慮なく、ポンポンと言葉を返した。
「未熟な私では、アレックス様のお気に召すとも思えませんわ。どうぞ、これまで通り、ご自由にお過ごしくださいませ。私は、侯爵家の妻として務めを果たして参ります」
愛など求めない。夫としての務めだけ果たしてくれればいい――そんな、はっきりとした線引きだった。
「何を言っているんだい。僕も君に会うまでは、これまで通り気軽に過ごそうと考えていたけれど。ロクサーヌ、君ほどの高潔で美しい女性を妻に迎えるんだ。もう、火遊びの必要はないだろう」
真剣な光を帯びていく彼の瞳に、私はさらに心を固く閉ざす。遊び人の言う『もう火遊びはしない』など、誰が信じるものか。
「いいえ。私には、どうかお気遣いなく。社交界のご婦人方から恨まれてしまいますわ」
「ははは。そんなことは気にする必要はないよ。これからは、《《僕は君だけのもの》》だ」
(だから、こっちが願い下げだって言ってるのよ! なんてしつこく、口の巧い男なのかしら!)
一切怯まず、むしろ冷ややかに言い返す私と、それに完全に翻弄されながらも目を輝かせているアレックス。二人の間の、噛み合わない奇妙な熱を孕んだ空気を察したのか、家令のクロードが静かに声をかけた。
「アレックス様。ロクサーヌ様は、ご到着間もなく、長旅でお疲れかと思います。お部屋にご案内して、少しお休みいただくべきかと」
「ん? ああ。そうだな。すまない、君があまりに魅力的だから、つい引き止めてしまった。ロクサーヌ、クロードから屋敷を案内してもらったら、午後はゆっくり休むといい。僕は君を迎えたらすぐ王宮へ向かう予定なんだ。晩餐は一緒にしよう」
アレックスは名残惜しそうに、けれど私を気遣う優しい目でそう言った。
「はい。行ってらっしゃいませ、アレックス様」
私が頭を下げると、アレックスは満足そうに頷いてから、サロンを後にした。
馬車へと向かう彼の胸の奥では、生まれて初めて経験する、狂おしいほどの感情が暴れ回っていた。
(ロクサーヌ……。あんな目をする令嬢を、俺は知らない。周囲を冷めた目で見る、あの頑なで孤独な瞳……。一体、彼女に何があったんだ?)
アドルフに裏切られ、世界に見捨てられた彼女の、冷たく閉ざされた瞳。その奥にある孤独に、アレックスは強く惹きつけられた。
(あの冷たい瞳を、俺の手で溶かしたい。彼女をあんな目に遭わせた連中から、俺が守ってやる。――彼女を、絶対に他の男に渡したくない。俺だけのものにしてみせる)
社交界の華、アレックス・トルドールの『押し付けられたはずの婚姻』は、この日、一瞬にして消し飛んだ。
彼はこの瞬間、一人の女に心を奪われた、恋する男になった。
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