第5話 「誰も信じない」氷の令嬢の誕生
トルドール侯爵家への輿入れを明日に控えた夜。
一年半もの間、謹慎生活を送っていたトラファルガー修道院。その狭い自室で、私は窓辺に立っていた。
窓ガラスに映っていたのは、かつての私であって、私ではない『誰か』だった。
「……これが、私」
一年半に及ぶ、薄暗い部屋での謹慎生活。
日も当たらない粗末な中庭でのわずかな散歩の時間以外、外の光をほとんど浴びず、誰とも会話を交わさなかった時間は、私の姿を変えていた。
肌は陽の光を知らぬ陶器のように白く透き通り、豊かだった金髪はどこか冷たい月光を宿したかのように冷ややかに輝いている。ふっくらとしていた頬のラインは削げ、代わりに鋭いほどの気品が宿っていた。
何より変わったのは、その瞳だ。
かつてアドルフ殿下に愛されるために作っていた、従順で可憐な輝きは、もう消え失せている。代わりにそこにあったのは、すべてを拒絶するような、深く、凍てついた紺碧。
間も無く十八歳になる私の美貌には、少女の可憐さなど微塵もなく、見る者を圧倒するような冷徹な凄みが増していた。
父から告げられた、婚姻の命令。
相手は、私でさえも耳にしたことのある、社交界一の遊び人と名高い、トルドール侯爵家の嫡男、アレックス・トルドール。
数々の貴族夫人や未亡人との浮き名で社交界を賑わせ、夜の社交界を我が物顔で遊び歩く男。実家にとって、私はもう、カークランド家にとって世間から隠してしまいたい『傷物』なのだ。だからこそ、そんな放蕩者の元へ婚約期間もなく放り出すのだ。
窓に映る自分を見つめながら、私の唇が、静かに、冷たく歪んだ。
「そこまで私を邪魔者扱いするのなら……私はもう、誰も信じない。一人で生きていくわ」
涙は、一年半前にすべて流し尽くした。
私を『退屈な女』とあざ笑った子爵令嬢も、彼女の涙に騙されて私を罵倒したアドルフも、私の長年の努力を切り捨てた両陛下も、そして実の娘を厄介払いする両親も。
誰も、私の心など求めていなかった。
なら、私も二度と、誰かに心を差し出すような真似はしない。これから嫁ぐ相手がどんなに不実な男であろうとも。
彼が毎夜、他の女のベッドを渡り歩こうが、私を無視しようが、そんなことはどうでもいい。トルドール侯爵夫人の『家名』さえあれば、私は誰にも邪魔されずに生きていける。
遊び人の妻になろうとも、私の誇りまで奪わせるつもりはない。絶対に、私の尊厳だけは、誰であっても《《二度と》》踏みにじらせない。
私は静かに息を吐き、窓に向かって、完璧な、そして一切の感情が通っていない『氷の微笑』を浮かべてみせた。
それは、世界を拒絶するための、ロクサーヌの鎧だった。
翌朝。侯爵家へと向かうため、私は一年半ぶりに修道院の門を潜った。
見送りに立ったのは、数人の修道女のみだった。
冷たい風が頬を打つ。
重い足取りで馬車のステップに足をかけようとした、その時だった。
「……ロクサーヌ」
後ろからかけられた低い声に、私は足を止めた。
傍へと視線を向けると、そこに立っていたのは、カークランド公爵家の嫡男である兄フレデリックと、すでに他家に嫁いでいたはずの姉ヤスミンの姿だった。
私の謹慎中、兄や姉との交流は一切禁止されていた。彼らはカークランド家の次期当主であり、他家の夫人だ。スキャンダルを起こした私と関わらせるわけにはいかないという、両親の徹底した措置だった。
だから、彼らも私を見捨てたのだと、ずっとそう思っていた。
「お兄様、ヤスミンお姉様……。どうしてこちらに? 遠路わざわざ、このような辺境まで……」
私が静かに声を向けると、兄のフレデリックは、ひどく痛ましいものを見るような目で私を見つめた。その拳は、きつく握りしめられている。
「……すまない、ロクサーヌ。お前が苦しんでいる時、何もしてやれなくて」
「フレデリックの言う通りよ。私たちは、ずっとあなたのことを……」
姉のヤスミンが、今にも泣き出しそうな顔で一歩踏み出そうとする。
けれど、私はそれを目線だけで制した。
「お気になさらないでください。私はカークランド家の《《汚点》》ですから。こうして、トルドール侯爵家へ片付けられるのは、当然の報いですわ」
「ロクサーヌ、それは違う! 父上はお前を――」
兄が何かを言いかけたが、私はそれを聞く前に、冷ややかに頭を下げた。
「それでは、行ってまいります。お二方とも、どうぞお健やかに」
これ以上、身内の甘い言葉に惑わされるわけにはいかない。どうせ、彼らも私を救えなかったのだ。期待すれば、また裏切られた時に心が死ぬ。私は誰の言葉も信じないと、昨夜決めたのだから。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
窓の外では、兄と姉が、去り行く馬車をいつまでも、いつまでも、祈るような、切ない目で見送っていた。
両親が私の謹慎を少しでも早く解いてもらえるよう王家に働きかけていたことや、兄姉たちも私のためにより良い嫁ぎ先を探してくれていたことなど、今の私には知る由もなかった。
かつての可憐な私は、もういないのだ。
カタコトと、馬車が走り出す。
誰も信じない。ただ自分の誇りだけを胸に秘めたロクサーヌを乗せて、馬車はトルドール侯爵家を目指して走り始めた。
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