第4話 ◇ 社交界の華、アレックス・トルドールの「境界線」
夜の社交界。きらびやかな夜会の中心で、男たちの嫉妬と女たちの熱い吐息を一身に浴びている男がいた。
トルドール侯爵家嫡男、アレックス・トルドール。
艶やかな金髪に、すべてを見透かすような琥珀色の瞳。仕立ての良い夜会服を完璧に着こなす彼は、『社交界の華』と称される極上の貴公子であり、同時に『社交界一の遊び人』としてその名を轟かせていた。
「アレックス様、今宵もお美しいですわ。……明日の夜、我が邸の薔薇園にいらしてくださらない?」
「誘ってくれて嬉しいよ、愛しの伯爵夫人。だが、君のように美しい大輪の薔薇は、夜の闇ではなく、旦那様の愛という光の中でこそ輝くべきだ」
アレックスはふっと艶やかな微笑みを浮かべ、誘ってきた夫人の手の甲に軽く唇を落とした。拒絶しているはずなのに、言われた夫人はうっとりと頬を染めて身悶えしている。
これこそがアレックスの真骨頂だった。彼は決して泥沼の不倫はしない。彼の遊びには、絶対的な『境界線』が存在した。
アレックス・トルドールが相手にするのは、未亡人か、あるいはすでに夫との間に跡継ぎの嫡男を産み終え、貴族としての義務を果たした夫人だけ。
まだ嫡男を産んでいない夫人や、未婚の純潔な貴族令嬢には、どれほど言い寄られても決して手を出さなかった。
(……純潔の令嬢なんて、特に面倒極まりないからな)
お決まりの口づけを終え、グラスを傾けながら、アレックスの瞳の奥からふっと温度が消えた。
世間は彼を『女たらし』と呼ぶが、その実態は世間が思うほど単純ではない。
彼は、貴族社会のドロドロした政略結婚や、純潔を盾に『未来の侯爵夫人』の座を狙う令嬢たちの、底知れない執着と打算に心の底から辟易しているだけだった。
未婚の令嬢に一度でも手を出せば、家だの責任だの婚約だのと、利権に飢えたハイエナのような親たちが群がってくる。一方で、人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の夫人たちであれば、互いに『割り切った火遊び』として、後腐れなく気楽な時間を愉しむことができる。
彼にとって『遊び人』という評判は、厄介な婚姻から身を守るための、最も都合の良い防壁だった。
「相変わらずお盛んだな、アレックス」
背後からかけられた低く威厳のある声に、アレックスは即座に遊び人の笑みを消し、美しい礼をとった。
現れたのは、現国王の第一子であり、この国の次期最高権力者――王太子エドワードだった。
「これはエドワード殿下。お戯れを。何しろ私は、退屈な夜会に花を添えるだけの『遊び人』らしいですからね」
「ふん。その割には、我が財務部が頭を抱えていた隣国との関税交渉の書類、完璧に修正されて私の机に戻っていたが?」
「おや、何のことでしょう。私は夜会と女のことしか頭にない放蕩者ですよ」
アレックスはいたずらっぽく笑ったが、その瞳は鋭く澄んでいた。
そうなのだ。アレックス・トルドールは、ただの遊び人ではない。若くして王太子の側近を務め、その卓越した頭脳と政治手腕で、王太子から絶大な信頼を寄せられている『有望株』でもあった。
昼は冷徹な仕事人として国政を動かし、夜は社交界一の遊び人として女たちとの火遊びを楽しむ。だが、その華やかな夜の裏で、彼は人々の口から自然に情報を引き出していた。それがアレックスという男だった。
「お前に、王命に等しい縁談がある」
「……勘弁してください、殿下。私がまだ結婚を考えていないことはご存知でしょう。それに、俺にそんな縁談を押し付けようとしているのは、どこの大貴族です?」
アレックスはうんざりしたように肩をすくめた。どうせどこかの大貴族が、ねじ込んできた縁談だろう。
だが、エドワードの口から出た名前は、アレックスの予想を遥かに超えるものだった。
「カークランド公爵家の次女、ロクサーヌだ」
「……ロクサーヌ? あの、第二王子殿下の元婚約者の?」
アレックスの脳裏に、記憶の断片が浮かび上がる。
一年半前、学園のサロンで『嫉妬に狂って下級貴族の令嬢の頬を打った』という、あの曰く付きの令嬢だ。確か、第二王子殿下との婚約を解消され、王妃殿下からも見放されたまま、この一年半ずっと修道院で謹慎していると聞いている。
「驚いたな。あのアドルフ殿下が子爵令嬢に現を抜かしたせいで、婚約を解消された悲劇の……いや、『王子の元婚約者』ですか」
「そうだ。カークランド公爵としても、これ以上不祥事を起こした娘を修道院に置いておきたくないらしい。親心だろうよ。学園の卒業を機に、体よく他家に押し付けたいのだろう。そこで、社交界でも名の知れた『遊び人』であるお前に白羽の矢が立った」
エドワードの言葉に、アレックスは冷たい笑みを漏らした。
「なるほど。実家からも王宮からも見捨てられた、かつては優秀だったという、婚約を解消された令嬢ですか。それをこの私に押し付けて、大人しく家庭に縛り付けろと? 嫌がらせにしては手が込んでいますね」
「お前なら、どれほど拗れた女であっても上手くあしらえるだろうという、カークランド公爵の判断だ。婚姻届はすでに用意されている。断る権利はない」
「それは『縁談』ではなく、命令では?」
「まあな。……ロクサーヌを、よろしく頼むよ」
エドワードはそう言うと、アレックスの肩をポンと叩いて去っていった。
残されたアレックスは、手の中のグラスを見つめながら、深くため息をついた。
一年半も修道院で謹慎を命じられ、実の親からも見捨てられ、泣き崩れているであろう女。プライドだけは一丁前に高くて、中身はボロボロの陰気な令嬢。そんな面倒な女の扱いを、よりによって自分に任せるとは。さすがの彼も想定外だった。
(まあ、いいさ。形だけの妻として、邸の奥にでも押し込めておけばいい。これまで通り、俺は俺のルールで遊ばせてもらうだけだ)
アレックスはグラスを飲み干すと、苦笑を浮かべた。
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