第33話 悪あがきの終焉と、元婚約者の謝罪
コレットと赤子が侯爵邸を去ってから、数日が過ぎた頃のこと。
トルドール侯爵家側からドレーク男爵家へ、彼女と赤子の正式な嫁ぎ先を差配した旨の報せを送り届けることとなった。
侯爵家が取り決めた行き先は、同じく男爵位を冠する家門であった。
相手は、昨年の流行病で妻を亡くした三十代半ばの男爵で、十五歳になる嫡男を筆頭に、五人の子供がいるという。
コレットは後妻として、そして子供たちの継母として、赤子と共にその家へ迎えられることになったのだ。かつてアレックス様との未来を夢見ていた彼女に与えられたのは、あまりに現実的で、逃げ場のない生活だった。
こうしてコレットの件もようやく片付き、トルドール侯爵邸に穏やかな日常が戻ってから数日後のこと――。
私はアレックス様にエスコートされ、久方ぶりに夜会へと出席していた。
今夜、華やかな夜会が催されているのは、エメラルダ王妃様のご生家たるリッチモンド公爵邸であった。
洗練された社交界の熱気の中、アレックス様が挨拶のために少し席を外した、ほんのわずかな隙のことだった。
「ロクサーヌ様。あら、トルドール次期侯爵夫人とお呼びするべきかしら? ご機嫌よう。……あの日以来でございますわね。あなたが修道院へと追いやられるきっかけとなった――私の頬を打った、あの日以来」
耳障りな甲高い声とともに歩み寄ってきたのは、肌を大きく露出させた派手な真紅のドレスを纏う女だった。
厚塗りの化粧で飾られた美しい顔。……あの日、アドルフ第二王子殿下の隣で勝ち誇ったように私を見下していた、ヨーク子爵令嬢マーガレット。
私は、淑女の微笑みで正面から彼女を見据えていた。
挑発的な挨拶をしたにもかかわらず、あの日と違ってまるで揺らがない私の反応に、マーガレットは明らかに焦りを覗かせた。
「修道院での惨めな暮らしはいかがでしたか? 名門公爵家の令嬢でいらっしゃるあなたが、修道院送りになるなんて――、さぞかしお辛かったことでしょうねぇ?」
憐れむようなふりをしながら、その口元には醜悪な愉悦の笑みが浮かんでいた。
私はただ、仮面のように完璧な淑女の笑みを貼り付けたまま、静かにマーガレットを見つめ返した。
(……ああ。この女は、これほどまでに浅はかで、どうしようもない相手だったのね。それなのに……あの日の私には、どうして彼女が特別な脅威に思えたのかしら)
過去の傷を痛ぶろうとする悪意が、今の私にはあまりに滑稽で、哀れにすら思えた。
自分の執拗な挑発に欠片も動じない私に痺れを切らしたマーガレットは、ついに自ら仕掛けてきた。
「キャーッ!? な、何をなさいますの……っ!」
――ガシャンと、グラスの割れる甲高い音が響き渡る。
マーガレットは、自ら手にしていた赤ワインのグラスを大きく傾けた。
真紅の液体が彼女自身のドレスへと降り注ぎ、床へと飛び散る。
「あの日のことを恨んでいらっしゃったのですね! ひどい……ひどいですわ、ロクサーヌ様!」
さも私に突き飛ばされたかのように、マーガレットはその場へ倒れ込んだ。
その一部始終を、すぐそばにいた給仕が呆然と見つめている。
「……い、今のは……」
しかし、その小さな声は、マーガレットの友人たちが一斉に上げた悲鳴にかき消された。
「まあ! ロクサーヌ様と……マーガレット様ですわ!」
「確か、学園時代に――」
(……なるほど。そういうこと)
私は彼女たちを冷ややかに見つめた。
その時だった。
「――静かにしてもらおうか」
夜会の喧騒を一瞬で制する、低い男性の声が響き渡った。
その声の主に、周囲の貴族たちが一斉に息を呑んだ後、首を垂れた。
人垣を割り、静かに歩み出てきたのは――かつて私の婚約者であり、私を修道院へ追いやった第二王子アドルフ殿下だった。
洗練された王族の華やかさに、どこかやつれた影を帯びた彼の姿に、マーガレットは救いを見出したかのようにぱっと顔を輝かせた。
「ア、アドルフ殿下……っ! お助けくださいまし! この女、私の頬を打ち据えた過去の恨みを忘れず、またしても私にこのような暴挙を――」
「黙れ、ヨーク子爵令嬢!」
すがるように手を伸ばしたマーガレットを、アドルフ殿下は氷のように冷ややかな眼差しで一蹴した。その低く重い一言に、マーガレットだけでなく、騒ぎ立てていた友人たちも凍りついたように言葉を失う。
アドルフ殿下は私に向かって一歩踏み出すと、衆目の中で頭を下げた。
「ロクサーヌ……次期侯爵夫人。すまなかった。かつての私はあまりに愚かで、真実を見抜く目を持たず、嫉妬と悪意に満ちた者たちの言葉を鵜呑みにして……君というかけがえのない存在を深く傷つけてしまった。どれほど悔いても、過去の過ちを取り戻すことはできないが……心から詫びさせてほしい」
王族であるアドルフ殿下の謝罪に、会場全体が息を呑む。
マーガレットは信じられないものを見る目で唇を固く引き結んで固まっていた。
「あ、アドルフ殿下!? なぜこのような女に頭をお下げに……っ! 今日だって、この女が私にワインを――」
「そこな給仕!」
アドルフはマーガレットの叫びを完全に無視し、近くでトレイを持ったまま怯えていた給仕を呼び寄せた。
「先ほどの騒動を見ていたか?」
「は、はいっ! ……そちらの赤いドレスのご令嬢が、ご自分でグラスを傾けられ、倒れ込まれたのをはっきりと目にいたしました!」
給仕のはっきりとした証言が響き渡った瞬間、遠巻きにしていた貴婦人たちから一斉に「まあ……!」「自作自演ですの!?」「なんて浅ましい……」という蔑みの声が漏れ出した。
顔を蒼白にし、震えるマーガレットに向かって、アドルフ殿下は冷たく宣告した。
「かつて君の言葉を信じてロクサーヌ次期侯爵夫人を貶めたことが、私の人生最大の恥辱であり、愚行だ。二度と私の前に、そしてロクサーヌ次期侯爵夫人の前に不快な顔を晒すな。……警備兵、この女と、騒ぎを助長した者たちを即刻退場させろ」
「そんな……! いやっ、離して! アドルフ殿下! ドルフぅっ!」
醜く叫び散らすマーガレットとその友人たちは、警備兵によって引きずられるように会場の外へと連れ去られていった。
後に残されたのは、静まり返る会場と、今なお私を見つめるアドルフ殿下の姿だけだった。
(……ふっ。あの日、私の世界を壊したはずの男が、今やこんなにも小さく見えてしまうなんてね)
私は一切の揺らぎもない淑女の微笑みを浮かべ、静かに扇を開いたのだった。
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