第34話 過去との惜別と、誓いの夜
「アドルフ殿下、ご無沙汰いたしております」
「ああ。君は……元気かい?」
「はい、お陰様で。つつがなく暮らしております」
「そうか。……それは良かった」
ほっと息を吐きながらも、どこか切なげに目元を伏せるアドルフ殿下。
その姿に、私は凛とした声で言葉をかけた。
「殿下、公の場でそのように頭を下げるものではありませんわ。どうか、御身のお立場をご自覚くださいませ」
「わかっている。……変わらないな、ロクサーヌ」
「はい。わたくしの大切なものは、昔から何も変わりませんわ」
「ふっ、そうだな。……私が愚かだっただけだな」
自嘲気味に微笑むかつての婚約者に、私は穏やかに、けれど明確な線を引くように告げた。
「アドルフ殿下、過去のことはもうお気になさらないでくださいませ。わたくしも前を向いて生きておりますので」
「ああ、わかった。私も前を向いて、国同士の同盟のために、隣国で果たすべき役目を果たしていくよ。それから……ヨーク子爵令嬢の件は私に任せてくれ。今回のこと、きっちりと責任を取らせてみせるから。いや……あのときに、私はもっとしっかり罰を与えるべきだったのだ。すまない」
そう言った殿下の瞳からは、かつての浅はかさが消えていた。そこに宿っていたのは、一人の王族としての覚悟だった。
(……あの日の、幼かった私たちはもういない。お互い前を向いて生きていくのね)
◇
夜会の熱気と喧騒を後にし、トルドール侯爵邸へと帰宅した。夜空には美しい月が静かに浮かんでいた。
馬車から降りた私を、アレックス様は優しく、けれど力強い手つきでエスコートしてくれる。
先ほどまでの夜会で繰り広げられた低俗な騒ぎ――マーガレットの浅はかな自滅と、アドルフ殿下からの謝罪。かつて私を深く苦しめた過去の出来事も、今夜は胸を痛めることはなかった。
「……ロクサーヌ」
寝室へと続く廊下で、私をエスコートしていたアレックス様が急に立ち止まった。
「アレックス様?」
握られていた手が離されたと思った次の瞬間、彼の腕が私の腰へと回り、抱きすくめられた。
「ロクサーヌ。君が我が侯爵邸に嫁いで、もう半年が過ぎた。……君の気持ちが整うまで待とうと思ったのだが……」
かろうじて絞り出された低い声の奥には、どこか切ない焦燥が滲んでいた。
窓からの月光を浴びた彼の美しい切れ長の琥珀色の瞳が、どこまでも深く、揺らめく熱を帯びて私を見つめる。
腰を抱く腕の力と、首筋へと添えられた熱い指先。その一つひとつの仕草から、私への抑えきれない想いが伝わってくる。
「僕は、君とアドルフ殿下の会話に割って入ることができなかった。彼との過去をきちんと終わらせたいのかと思ったから……。だから、君の気持ちが整うまで待とうと決めたんだ。けれど……」
――そこまで言いかけたところで、アレックス様は耐えかねたように吐息を漏らし、私の両頬を優しく包み込んだ。
熱を帯びた大きな手のひらに包まれ、すっと顔を持ち上げられる。息が触れ合うほどの近さで、彼の切なく揺れる瞳が、私の感情の変化を逃すまいとまっすぐに目を覗き込んでいた。
「君の凛とした強さは誇らしい。だが、かつて君を傷つけた者たちを前にして、本当は……ほんの少しでも辛くはなかったかい?」
その言葉に含まれた深い慈愛に、胸の奥がじんわりと温かさに満たされていく。
私はふっと力を抜き、一人の女性として優しく微笑みを返した。
「いいえ、アレックス様。何も……。あの方たちは私にとって、すでに過ぎ去った『過去の亡霊』でしかありませんでしたわ。今の私の心を満たしているのは……あなたと歩む、これからだけですもの」
「ロクサーヌ……」
アレックス様が息を呑む。
私の頬を包む熱い手。彼は愛おしそうに親指でそっと私の肌を撫でた。その温もりに触発されるように、私の鼓動もにわかに跳ね上がっていた。
私は、今だからこそ確かめておきたいことがあった。
「アレックス様。あなたの『遊び人』という噂……それは、これからもお続けになるのですか?」
その問いに、アレックス様は一瞬、息を詰まらせた。
社交界一の遊び人と呼ばれた男は、今や他の女性には目もくれず、ただ一人の妻を愛し、その生涯を彼女と共に歩むことを望んでいる。
始まりは王命だったとしても、今では誰よりも愛する妻と生涯を共にすることを、心から望んでいた。
――アレックス・トルドールは、もう『社交界一の遊び人』ではない。
彼はただ一人の女性を愛する、一途な夫になろうとしていた。
コレットとの決着もつき、過去の因縁にも自ら区切りをつけた。
これでようやく、アレックス様と二人の未来に目を向けられる気がした。
重厚な扉が開かれ、アレックス様に手を引かれて、夫婦の寝室へと足を踏み入れる。
あらかじめ焚かれていた甘い香と柔らかいキャンドルの光に包み込まれた。
着替えのために訪れた侍女たちを下げ、広い寝室に二人きりになると、静寂が甘やかに肌にまとわりついた。
「約束を……覚えているかい、ロクサーヌ」
アレックス様が私のドレスの背の紐に手をかけ、低い声で囁く。
ひとつ、またひとつと解かれていく感触に、体の芯が熱く痺れていくようだった。
「ええ……。コレット様の問題が解決して、真に心を通わせた時に……と」
「そうだ。もう僕たちを遮るものは何もない。……君を、僕の本当の妻として、全身全霊で愛させてほしい」
ドレスが床へと滑り落ち、露わになったアンダードレス姿の私を、アレックス様は情熱を込めて抱き寄せた。
触れ合う肌の温もり。互いの吐息が混ざり合い、彼の唇が私の唇を、首筋を、熱く優しく辿っていく。
「私を……あなたの本当の妻にしてくださいませ、アレックス様」
甘い痺れに瞳を濡らしながら乞うと、アレックス様は愛おしそうな顔をし、もう一度深く唇を重ねてきた。
天蓋付きのベッドへと横たたえられ、重なる体温と、互いの名を何度も確かめ合う囁き声。
これまで孤独に耐え抜いてきた修道院での年月も、裏切りの痛みも、すべてはこの瞬間の甘美な幸福へと繋がるための試練だったのだと思えるほどに、私は彼の愛に満たされていく。
夜が更けるのも忘れ、二人は解け合うように心も身体も深く結ばれた。
その夜、私たちは初めて、本当の意味で夫婦になったのだった。
◇
――翌朝。
レースのカーテン越しに差し込む柔らかい朝陽に目を覚ますと、すぐ目の前にアレックス様の穏やかな寝顔があった。
私がかすかに動くと、彼はまどろみの中から瞳を開き、愛おしそうに腕の力を強めて私を抱き寄せた。
「おはよう、僕の愛しいロクサーヌ」
「……おはようございます、アレックス様」
重なる視線の中に、もう迷いや偽りは何ひとつ存在しない。
かつて『修道院帰りの令嬢』と呼ばれ、裏切りに泣いた私は、今、夫から深く愛され、誇り高いトルドール侯爵夫人としてここにいる。
「これからの人生、君の笑顔も、時に見せる強さも……そのすべてを僕の隣で輝かせてほしい。近いうちに、盛大な結婚式を挙げよう、ロクサーヌ」
「ええ、喜んで。……末永く、あなたと共に生きて参りますわ」
心からの微笑みを交わし、二人は朝日の中で静かに誓いの口づけを交わした。
夫婦としての幸せへと、二人は歩み出したのだった。
「ところでアレックス様。昨夜、寝室がこんなにも素敵な雰囲気で整えられていたのは、もしかして……初めから?」
私の問いかけに、アレックス様が目に見えて動揺し始めた。
その様子がおかしくて、私は自然と笑ってしまった。
そんな穏やかな、夫婦で迎えた初めての朝だった。
◇
私たちはすでに夫婦として結ばれている。
盛大な結婚式は、修道院帰りの私への世間の目を気遣ったお父様たちの配慮で、当初は執り行わないことになっていた。
しかし、アレックス様と私の希望で、大聖堂での挙式を執り行うことになった。
今日、私たちは多くの招待客の前で、夫婦として改めて祝福を受けたのだ。
盛大な祝福に包まれた結婚式を終え、私は純白のドレスの裾を翻しながら、まっすぐに彼のもとへ駆けていく。
「アレックス様――!」
「ロクサーヌ!」
私が伸ばした手を、アレックス様が力強く受け止める。
そのまま彼の胸に飛び込むと、温かな腕が私をしっかりと抱き締めた。
「もう、離さない」
「ええ。わたくしも、もう離れませんわ」
大勢の祝福と拍手に包まれながら、私たちはいつまでも離れなかった。
ハッピーエンド
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