第32話 氷の微笑と、審判の時
出産から一週間後。コレットと赤子の体調の回復を待ち、応接間で今後の処遇についての話し合いが行われた。
上座には当主であるお義父様。その横のソファには、アレックス様と私が並んで腰掛けている。
そしてテーブルを挟んだ対面のソファには、小さく肩を縮こまらせたドレーク男爵と、産後間もないコレットが座っていた。
お義父様から、コレットの新たな嫁ぎ先が整ったことが淡々と告げられた、その直後のことだった。
「え……!? 嫌です! あの子はアレックス様のお子です! 私は……私は侯爵邸の片隅でも構いません! あの子と二人、時折でもアレックス様にお会いできれば、それだけで十分なのです! どうか……どうか娘と二人、こちらに置いてくださいませ!」
コレットは感極まったように叫び、目の前のテーブルに身を乗り出してアレックス様に縋りつこうとした。
あまりの無礼さに、隣のドレーク男爵が青ざめて慌てて彼女の肩を掴み、引き戻す。
「こら、コレット! なんという失礼な真似を! 侯爵家のご厚意で、こうして産後の体調が落ち着くまで待ってくださったのだぞ! 感謝こそすれ、我が儘を言うんじゃない!」
「お、お父様!? どうされたのですか!? 私と孫娘が追い出されそうになっているのですよ!? あの子が父親と引き裂かれようとしているのですよ!? お父様からもお願いしてくださいませ!」
「コレット! お前のした不実がそもそもの原因なんだぞ! これ以上、トルドール侯爵家に迷惑をかけるわけにはいかん。いい加減にしなさい!」
「そんな……! お父様まで! あんまりにも酷いではありませんか……っ!」
父親に向かってなりふり構わず大声を上げ、涙を撒き散らすコレット。
私たち三人は、ただ冷ややかな眼差しで、一連の醜態を見つめていた。
「……親子喧嘩なら、男爵家に帰ってからにしてくれ」
お義父様が冷たく言葉を遮る。
「では、ドレーク男爵。こちらの書類にサインをしてもらおうか」
そう言ってテーブルに提示されたのは、すでに王家の承認を得た極めて厳格な正式書面であった。
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一、トルドール侯爵家とドレーク男爵家は、今後いかなる交流も持たないこと。
一、ドレーク男爵令嬢コレットは、今後一切、トルドール侯爵家嫡男アレックスに関わらないこと。
一、ドレーク男爵令嬢コレットの生んだ子について、トルドール侯爵家およびアレックスが父親としての権利・義務を一切負わないこと。
一、本協定が破られた場合、ドレーク男爵家が一切の責任を負うこと。不履行時の賠償額は以下の通りとする。
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そこに記されたあまりに莫大な賠償額を目にし、ドレーク男爵は、厳しい表情で書面を読み終えると、震える手で羊皮紙に署名した。
ペンを置くと、男爵は立ち上がり、そのまま深く頭を下げた。
「この度は、愚娘コレットが多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、心より深くお詫び申し上げます。また、無事に出産を迎えるまで手厚くお世話をいただき、誠にありがとうございました。その上、娘と孫の嫁ぎ先までご手配いただき……感謝の言葉もございません」
頭を下げ続ける父親の姿に、コレットは信じられないものを見る目で絶句していた。
「え……? どういうことですの、お父様……っ!? それに、嫁ぎ先だなんて!? 私はアレックス様のお子を産んだのですよ! 他所に嫁ぐなんてあり得ませんわ……!」
変わらず大声を張り上げ、涙を流し続けるコレット。
アレックス様は心底うんざりしたような冷めた視線を向けるだけで、もはや一言も声をかけるつもりはないようだった。
私は静かに紅茶のカップをソーサーに置くと、コレットに向かって静かに言葉をかけた。
「……婚約者に裏切られ、大変ご苦労されましたわね、コレット様。出産を終えてまだ一週間ですもの、気が昂るのも無理はございませんわ。次々と殿方に振り回されて、お辛い思いをされているのですものね」
労うような言葉に、コレットが一瞬「分かってくれたのか」と期待の目を向けかけた――その瞬間。
私の唇に浮かんだ笑みが、消えた。
「――ですが、コレット様。貴女はご自身のされていることに、お気づきになっていらっしゃらないの?」
静かに紡がれた私の声に、応接間の空気が一瞬で凍りつく。
「貴女のなさっていることはね、すべて……わたくしに対する凄惨な嫌がらせでしかありませんのよ?」
「え……?」
「新妻に対して、嫁ぐ前の浅はかな関係をチラつかせて邸内に乗り込む図々しさ。……それだけに留まらず、夫を騙して関係を持ったくせに、あろうことかこの邸内で、妻であるわたくしよりも先に子を産むだなんて」
私は優雅に首を傾げ、心底あきれ果てたように息をついてみせた。
「挙句の果てに、図々しくもこの邸に留まろうとするだなんて……。まあ、あまりの恐ろしさに、わたくし、ショックで食事も喉を通りませんわ」
言葉とは裏腹に、私から放たれる圧倒的な威圧感と眼光。コレットの顔から一瞬で血の気が引いていく。
「わたくしはね、王命で名門カークランド公爵家からトルドール侯爵家に嫁いだ身ですの。……あまりに無礼が過ぎますと、男爵令嬢の貴女など、社交界からも……この世からも簡単に消し去ってしまえそうですわね?」
「ひっ……!?」
恐怖に顔を歪ませて固まるコレットに、私はふっと華やかに目を細めて微笑んでみせた。
「ふふふ、冗談ですわよ。冗談。……生まれたお子様と貴女のために、わたくしが用意して差し上げた嫁ぎ先ですもの。どうぞ、新しい旦那様のもとで、末永くお幸せにお暮らしあそばせ」
完璧な淑女の笑みの奥に、冷たい光が宿っていた。
自分がどれほど恐ろしい相手に身の程知らずな挑発を重ねていたのかをようやく理解したコレットは、もはや涙を流すことすら忘れ、ただがたがたと全身を震わせるしかないのであった。
◇
翌日、約束の刻限通りにドレーク男爵家からの迎えの馬車が邸の車寄せに到着した。
昨日の応接間での出来事が嘘のように、エントランスには静けさが満ちている。
まとめた荷物を手に、しっかりと抱かれた赤子とともに現れたコレットは、すっかり威勢を失い、青ざめた顔で小さく俯いていた。
私とお義父様、そして侍女長のアメリアが静かに見守る中、彼女は消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「皆様……お世話になりました。出産まで、多大なご迷惑をおかけいたしました……。それでは、失礼いたします」
ゆっくりと頭を上げたコレットの視線は、最後までここに姿を現さなかったアレックス様を探すように、すがるような想いで宙を彷徨った。
だが、アレックス様が自分に会うつもりなど万に一つもないことを悟ると、彼女は絶望に肩を落とし、諦めたように背を向けて馬車へと足を向けた。
パカパカと乾いた蹄の音を響かせ、ドレーク男爵家の紋章が入った馬車が屋敷の敷地を出て去っていく。
遠ざかる車輪の音を聞きながら、私は小さく息を吐き出した。
(これで……また一つ、厄介ごとが終わったのね)
胸の奥につかえていた重荷が一つ消えたような、静かな安堵が私の心を満たしていった。
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