第31話 黒髪の赤子と真の責任
コレットの出産予定日まで、残すところあと一ヶ月。
トルドール侯爵邸の私室で、アレックス様は私を見つめ、どこか緊張した面持ちで言葉を紡いだ。
「ロクサーヌ……。どうだろうか、僕たちもそろそろ……寝室を一緒にしないかい?」
その言葉に込められた真意と切実な焦りは、十分に伝わっていた。
私は優しく微笑みを返しながらも、静かに首を振った。
「わたくしも、アレックス様と真の夫婦として歩んでいきたいと願っております。ですが……コレット様の処遇がはっきりするまで、あとわずかですわ。すべての結末を見届けてからにいたしませんか?」
「しかし! それでは……もしもの時は……」
もし赤子がアレックス様の色を受け継いでいたら――その不安を口にしかけたアレックス様に、私は真っ直ぐな眼差しを向けた。
「その時には、きちんと二人で責任を取る道を考えましょう」
『二人で』、それは自然とこぼれ出た言葉だった。
そして、アレックス様もまた、どこか安心したような表情で大きく頷かれた。
◇
それから一月ほどして、邸内に緊張が走った。
コレットが産気づいたのだ。
――オギャーッ!
初産の長い陣痛の末、夜明け前、ようやく産声が上がった。
生まれたのは、コレットによく似た愛らしい黒髪の女の子だった。だが、その開かれた小さな瞳の色は――淡いヘーゼル。
(アレックス様の色は……受け継いでいない。けれど……瞳の色だけで托卵かどうかは判断できないわ)
私は自然と、長年この邸に仕える侍女長アメリアへと視線を送った。
アメリアもまた、私と同じことを感じ取ったのだろう。彼女は小さく頷き返した。その小さな頷きが、私の直感をそっと後押ししてくれた。
(この子は……おそらく、アレックス様のお子だわ)
アレックス様固有の色彩こそ現れていないものの、あの赤子を見た瞬間、どこかアレックス様の面影を感じていた。『女の勘』と言ってしまえばそれまでだが、私の勘が『この子はアレックス様の子だ』と告げていた。
部屋の空気が、まるで氷を張り詰めたかのように静まり返る。
主治医の許可のもと、入室したアレックス様は一度だけ遠目に赤子を一瞥したものの、抱き上げることもコレットに声をかけることもなく、険しい顔で寝室を後にした。
◇
重厚な革張りのソファに腰掛けるお義父様と、窓辺で腕を組み、険しい表情で外を見つめるアレックス様。その二人の間に漂う空気は、息が詰まるほど張り詰めていた。
やがて、手を診察用の布で拭いながら主治医が入室し、頭を下げた。
「……マリク先生。先生の見解を聞かせてもらおうか」
お義父様が、低く厳かな声で切り出す。主治医は一度言葉を詰まらせ、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「は……。生まれたお子様は、母体であるコレット様の特徴を強く受け継いでおられます。黒髪に、淡いヘーゼルの瞳。……したがいまして、私から申し上げられるのは、赤子の容姿だけをもって父親を特定することはできない、ということでございます。アレックス様のお子である可能性も、そうでない可能性も、医学的には否定できません」
「だが」
アレックス様が静かに振り返った。その瞳には、氷のような冷徹さが宿っている。
「つまり、私の子であるとも、そうでないとも、医学的には断定できない。そういうことだな?」
「……左様でございますな」
主治医の言葉に、アレックス様はふっと短く息を吐いた。
「ならば、トルドール侯爵家の直系として、この子を私の子だと認めるだけの証拠はない」
お義父様が、マリク先生に労いの声をかける。
「十分だ。ご苦労だった。退がっていい」
医師が深々と礼をして辞去すると、室内には再び張りつめた静寂が戻った。
私は静かに紅茶を一口含み、二人に向かって視線を向ける。
(……医学的には『分からない』。けれど、あの赤子の面影を見れば、おそらく血がつながっている可能性は高い。……アレックス様も、それを感覚的には理解しておいでではないかしら)
だが、ここは情や勘が優先される世界ではない。貴族社会における『血統』とは、客観的な証拠と政治的な正当性そのものなのだ。
「アレックス」
お義父様が、静かに息子を呼んだ。
「お前の考えは決まっているな?」
「はい、父上。あの女は元より、姉の名を騙って私を惑わせ、不実に及んだ者。最初から嘘と打算で始まった関係です。その結果生まれた子に我が家の象徴が現れていない以上、これを『トルドール侯爵家の血』として公に認めるわけにはまいりません」
アレックス様の声に迷いはなかった。
一度過ちを犯したからこそ、二度と騙されまいという思いが感じられる。
「認めてしまえば、トルドール侯爵家の血統の価値そのものが揺らぎます。それに……何より、真の妻であるロクサーヌへの不誠実となります」
私へ向けられたアレックス様の瞳には、深い悔恨と強い決意が宿っていた。
「うむ」
お義父様は深く頷き、力強くソファの肘掛けを叩いた。
「よし。出産まで邸内で庇護しただけでも、我が家としては破格の慈悲だ。明日、ドレーク男爵を呼び出し、正式にこの話を終わらせよう。正式に書類を交わし、トルドール侯爵家の将来に影を残さぬようにしよう。情けをかける必要はない」
そこで、一つ息を吐いた。
「ただ、赤子の行く末を放っておくわけにもいかん。コレットには、我が家が紹介する相手と縁づいてもらおう。この先も我が家の目の届くところに置けるし、妙なことを企まれても困るからな」
「かしこまりました」
二人の判断は、名門貴族の当主・跡取りとしてあまりにも正当で、そして冷徹だった。
(これで……いい。アレックス様がご自分の意思で線を引かれたのなら、わたくしはその決断を支持するまで)
私は胸の中でそっと呟きながら、静かに微笑みを浮かべて二人に向かって深く頷いたのだった。
◇
翌日、トルドール侯爵邸の応接間には、重苦しい緊張感が満ちていた。
急ぎ呼び出されたドレーク男爵を前に、アレックス様が冷たく切り出す。
「男爵。生まれた赤子に我が侯爵家の特徴は見られない。『あの一夜の子だ』と言われても、認めるわけにはいかない」
「そんな……! コレットは嘘をつくような娘ではございません!」
「そうかな。彼女は姉の名を騙って私を惑わせ、関係を持ったのだよ。最初から嘘で塗り固められた問題を、どうして信用できようか」
「それは……! ですが、コレットは貴方様と!」
「男爵。そもそも、彼女を即座に叩き出すこともできたところを、出産まで邸で世話をした上で結論を出したのだ。これ以上の譲歩など存在しない。――父上も、よろしいですね?」
アレックス様が、お義父様へ視線を向ける。
「うむ。そもそも侯爵子息を騙して不実の過ちを犯させたのだ。これ以上理不尽な要求を重ねるというなら、然るべき手段を取るまでだ。娘の不始末が世間に知れ渡り、ドレーク男爵家としても決定的な痛手を負うことになろうがな」
「そんな……! それはあまりに横暴です!」
「……ほう。男爵家が、我がトルドール侯爵家の対応を『横暴』と宣うか。……聞き捨てならないな」
お義父様の佇まいが一変した。
名門トルドール侯爵家を束ねる当主としての威厳と、射抜くような冷徹な眼光。
その、あまりの威圧に、ドレーク男爵の顔から一瞬にして血の気が引いていく。引き際を完全に誤った瞬間だった。
「ドレーク男爵家には、我が家への名誉毀損として正式に賠償を請求する。虚偽を語り当家を混乱させた娘コレットにも、責任を取ってもらおう。今後一切、我がトルドール侯爵家への訪問ならびに連絡を禁じる。破られた場合はさらなる賠償を請求するから、そのつもりでいるように。以上だ。お引き取り願おう」
完全に絶望へと突き落とされた男爵は、口を半開きのままカタカタと震えていた。
そこへ、私は静かに紅茶のカップを置き、お義父様に向かって声をかけた。
「差し出がましいようですが、お義父様。男爵も、ようやくご自身の置かれたお立場を正しく理解されたご様子。ここは穏便にお収めいただいてはいかがでしょうか? ……ねえ、ドレーク男爵?」
私からの予期せぬ助け舟に、男爵は額に大量の汗を浮かべ、声も出せないまま何度も必死に頷いた。
「コレット様には、どこか良い嫁ぎ先を見つけて差し上げましょう。修道院へお送りすることだけが解決ではございませんでしょう。生まれた赤子に何の罪もございませんもの……母子ともに穏やかに暮らせる嫁ぎ先を探してみましょう」
もちろん、これはあらかじめ決められていた結論へ、男爵を誘導するための言葉だった。私の思いがけない提案に、男爵が目を見張り、驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
その後、男爵は私に何度も深く頭を下げ、コレットと生まれたばかりの孫娘に面会を果たしたのち、ほうほうの体で帰宅していった。
「ロクサーヌ、今回の騒動は本当にすまなかった」
静けさを取り戻した執務室で、アレックス様が謝罪を口にした。
私は静かに首を横に振る。
「アレックス様。あなた様がコレットと過ちを犯し、子を生すきっかけを作られたのは動かせない事実なのです。……ですから、あなた様にも果たすべき責任がおありでしょう。女性だけに責任を負わせるのは、違いますもの」
「……ああ。すまない」
「まずは、あの方たちが真に幸せに暮らせるような嫁ぎ先を探しましょう。それが、あなた様の責任ですわ」
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