第30話 言葉にされなかった愛の形
メルローズの騒動が社交界の格好の噂話となってから、半年が過ぎようとしていた。
かつて負傷し、傷を癒やしていたダニエラ元侯爵夫人は、ようやく長距離の馬車移動に耐えられるまでに回復した。その後、平民としてトルドール家の領地へ移され、領地代官の管理下で暮らすこととなった。
また、遠方の商家へと引き取られたシモンについても、定期的に届く報告書によれば、商家の子どもたちとも馴染み、なんとか暮らしているという。
邸を揺るがした騒動は去り、トルドール侯爵邸にはようやく静かで穏やかな時間が流れていた。
午後の穏やかな時間。陽光が降り注ぐ邸内の庭園の小道を、私とアレックス様は並んで歩いていた。
風に揺れる花々を眺めながら、ふと視線が重なる。
アレックス様から差し出された手に、私はそっと手を重ねた。指が触れ合うと、アレックス様は私の手を優しく包み込むように、けれど力強く握ってくれた。
「可愛い手だね、ロクサーヌ」
「……アレックス様の手が、大きいだけですわ」
顔を見合わせて、小さく笑い合う。
テラスの陰では、当主ノーマン侯爵をはじめ、使用人一同が「まあ、なんて微笑ましい……!」と温かな眼差しで見守っていた。
——だが、完璧に見えるこの関係にも、ひとつだけ切実な問題があった。
(……このままでは、いつまで経っても寝室を共にする話なんて切り出せないぞ……!)
表面上は理想の夫婦として仲を深め、手をつなぐことすら自然になったというのに、アレックスは最後の一歩を踏み出せずに焦っていたのだ。
気高く美しい妻を尊重するあまり、寝室を共にすることを切り出せず、一人でうだうだ悩んでいるアレックス様の姿を、私はその心情に気づくこともなく、どこか意外に好ましく思いながら静かに見守っていたのだった。
◇
そんな穏やかな日々の中、夫婦で出席したとある夜会でのこと。
かつてアレックス様と浮き名を流していた数人の子爵夫人や伯爵夫人が、私の元へと歩み寄り、嫌味たっぷりに絡んできた。
「あら、トルドール次期侯爵夫人ではございませんの。さすがは王子妃教育をお受けになっただけあって、なんとも高潔なお姿ですこと。あまりにお堅くて、アレックス様もさぞ息が詰まるのではなくて?」
「修道院から戻られたのですものね。おいたわしい……。噂では、夫婦とは名ばかりなのでしょう?」
扇の陰で嘲笑う彼女たちに、私が冷徹な言葉を返そうとした、その時だった。
「――当家の愛娘に向かって、随分と不躾な口振りですわね」
会場に、威厳に満ちた声が響き渡った。
振り返ると、そこには母イザベルが颯爽と歩み寄ってくるところだった。
「我がカークランド公爵家が誇るロクサーヌを蔑むとは……覚悟があっての発言でしょうな?」
さらに、次期当主である兄のフレデリックが不敵な笑みを浮かべて横に立ち、ローランド公爵家へと嫁いだ姉のヤスミンまでがドレスの裾を翻して加勢に加わった。
「私の可愛い妹を傷つける者は、ローランド公爵家としても容赦いたしませんわ」
圧倒的な権力と血族の圧に、絡んできた夫人たちは顔を青ざめさせ、クモの子を散らすように、その場から逃げ去っていった。
「な、何よ……実はめちゃくちゃ家族仲がいいじゃない!」
「誰よ! 捨てられた娘だって言ったのは! どう見ても愛されまくっている可愛い末っ子じゃないの……!」
周りの夫人たちが、驚きと戸惑いの混ざったひそひそ話を交わしている。その不躾な視線を背に受けながら、兄と姉は悪戯っぽく私に微笑んでみせた。
私は、何も言えなかった。
ただ呆然と、目の前の家族を見つめることしかできない。
あの日、修道院へと送られたとき。私はてっきり、家族に見捨てられたのだと思い込んでいた。
第二王子との婚約を台無しにし、王家の至宝に傷をつけ、令嬢へ手を上げた問題児。
そんな自分はもう誰からも必要とされていないのだと、家族に何かを期待するのをやめた。哀しいとも悔しいとも思わないよう、感情を押し殺して振る舞い、そうやって必死に自分の心を守ってきたはずだった。
なのに、胸の奥で何かが静かに波立ち始める。
「ロクサーヌ、大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込んでくる母。
「なんとも下品な連中だな。ロクサーヌを傷つけるような口を叩くなんて!」
兄が不快そうに眉をひそめれば、姉も優しく声をかけてくれた。
「女のくだらない噂話なんて、すぐに別の話題に移るわ。気に病むことはないのよ」
家族の温かな声が、耳を通り抜けていく。ちゃんと耳には届いているのに、その言葉がうまく頭に入ってこない。閉ざしていた心が、内側から激しく揺さぶられていた。
そこへ、人混みを分けるようにして、父――カークランド公爵バーナードが歩み寄ってきた。
「大丈夫か? どうだ、ロクサーヌ。トルドール侯爵家には少しは慣れたかい?」
「……お父様」
思わず声が小さくなる。父はそんな私の緊張を解きほぐすように、穏やかに目を細めた。
「アレックス殿は、王太子殿下の懐刀としても有能だと評判だ。お前の伴侶として、何一つ申し分のない男だと思って選んだのだよ」
「……え?」
『選んだ』。その言葉が、私の胸を激しく衝く。
「幸せになりなさい、ロクサーヌ」
かつて第二王子の婚約者だった頃も、修道院へと送られたあの日も、私は父の本心を知らなかった。ただ冷たく突き放されたのだとばかり信じ込んでいた。
けれど、違っていたのだろうか。
「そうよ。貴女を世間の心ない噂から守るためとはいえ、一年半も修道院で過ごさせてしまったわね」
母が静かに言葉を重ねる。
「でもね、結婚相手だけは絶対に妥協したくなかったの。幸せになるのよ、ロクサーヌ」
「世間の好奇の目が貴女を傷つけるのを、お父様はずっと心配しておられたのよ。だからこそ、派手な式は見送る決断をしたの」
姉が私の背中にそっと温かな手を添えてくれた。
「一世一代の花嫁姿ですもの。事態が落ち着いたら、身内だけで小さなお式を挙げましょうね」
「……お姉様」
声が震えて、うまく繋がらない。
「ああ。ロクサーヌとアレックス殿の祝言なら、さぞ美しく映えるだろうからな」
兄も屈託のない笑顔で頷いてみせた。
感情が昂り、視界が急激に滲んでいく。
捨てられたのだと思い込み、何も望まないことで傷つかないように固く閉ざしていた心。その強張りが、家族の言葉によってみるみるうちに解かれていく。
父も、母も、兄も、姉も。ずっと私を案じ、ただ幸せになることだけを願ってくれていた。零れそうになる涙を必死で堪えようとした、まさにその時だった。
「ロクサーヌ」
静かな声とともに、アレックス様が歩み寄ってくると、自然な動作で腰に手を回され、包み込まれるように抱き寄せられた。胸に伝わる確かな温もりと、ふわりと漂う微かなムスクの香り。
その腕の中で、私は何も言えないまま、こみ上げる感情を必死に押し殺していた。けれど、もう自分を偽る必要など、どこにもなかったのだ。
胸の奥にピンと張り詰めていた緊張の糸が、ゆっくりと、優しくほどけていく。
ずっと、見捨てられたのだと思っていた。誰からも愛されず、価値を失ったのだと。
けれど、違った。
私は、最初からちゃんと愛されていたのだ。ただ、自分自身が頑なに目を背け、気づこうとしなかっただけで。あふれ出そうになる涙の温もりを感じながら、私はようやく、自分が愛されていたことを、心の底から実感したのだった。
けれど、それでも妊娠しているコレットのことだけは、頭の片隅に残っていた。
◇
一方、王宮では不穏の芽が摘み取られようとしていた。
王太子エドワード殿下に無事にお子様が誕生した暁には、第二王子アドルフの処遇が執行されることとなった。
同盟の維持を名目として、隣国アディレア王国のカサンドラ女王の元へと『婿入り』することが正式に決定したのだ。
カサンドラ女王はアドルフより十歳年上で、すでに三人の王子をもうけている。昨年、伴侶を病で亡くして以来、現在は女王として一人で国を背負っていた。
つまり、アドルフに求められているのは次代の王を生むための役割ではない。
両国の同盟を維持するため、アディレア王国へ送り込まれる『婿』という名の外交上の人質に近い立場だった。
そして、二度と自国の政権に関わることは許されない。実質的な追放である。
そして、アドルフを甘やかしたウィンザム侯爵もまた、すべての実権を奪われ、中央政界から完全に締め出された閑職へと追いやられていた。
――それでも、ウィンザム侯爵に後悔はなかった。
アドルフ殿下を咎めなかったのは事実だ。
ロクサーヌを取り戻そうとする殿下の執着を、叶えてやりたかったのだ。
彼がアドルフに肩入れした本当の理由は、もっと古く、そして誰にも知られていない。
学園時代から、ウィンザム侯爵はクラスメイトだった《《国王陛下に》》、ひそかに想いを寄せていた。
もちろん、その想いを口にすることは一度もなかった。世間に知られることなど、決して許されない想いだったからだ。
ただ遠くから彼を見つめ、胸の奥に秘めたまま、年月だけが過ぎていった。
そして今――。
自らの実権を失うことになっても、彼の息子であるアドルフを見捨てることだけはできなかったのだ。
◇
国王夫妻は執務室で書簡に目を通していた。
「これで彼も、諦めるかしらね……」
書類から目を離さず、エメラルダ王妃がふっと吐き捨てるように呟いた。
「……何がだ?」
不審そうに首をひねる国王に、王妃は呆れたように肩をすくめる。
「あら? ウィンザム侯爵がアドルフの後見に名乗り出たのは……あなたのせいでしょ」
「だから、どういう意味だ?」
「え? 本当に、気づいてなかったの?」
「……」
「彼、あなたのことが好きだったでしょう」
「は?」
絶句する国王を余所に、王妃はパタパタと扇を仰いだ。
「え? 本当に気づいてなかったの? 気の毒にねぇ」
「な……ッ、奴は学園時代から其方に懸想していたのではないのか!? わしはそう聞いていたぞ!」
「まあ! 女生徒の間では、学園時代から有名な噂だったわよ、彼の視線はいつもあなたを追っていたもの」
「嘘だろう……知らなかったぞ。それで、あ奴は妻帯せずに養子を迎えたというのか……!?」
「そういうことね」
王妃は何でもないことのように扇を仰ぐ。
ようやく事情を理解した国王は、頭を抱えた。
「……つまり、あ奴が諦めきれなかったのは、其方ではなく、わしだったということか……」
「今さら気づいたの?」
王妃は呆れたように肩をすくめた。
王妃への未練から妻帯せず、養子を迎えたのだと社交界で囁かれていた噂の真実を知り、国王は頭を抱えて絶句するのだった。
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