第29話 歪んだ救済と、愚者の正義
王宮の奥、静まり返った第二王子の執務室で、アドルフは窓辺に立ち、苦い顔で外を見つめていた。
ロクサーヌを追放して以降、アドルフの周りからは急速に人が離れ、社交界での評価は地に落ちていた。
かつては『お優しいアドルフ殿下を支える賢い令嬢』として誰もが称賛したロクサーヌ。彼女の助言や、常に完璧に立ち回る姿がどれほど自分の価値を高めてくれていたか、失って初めて思い知らされたのだ。
周囲の貴族たちの冷ややかな目、そして失望の色を隠さない視線が、痛いほど肌に突き刺さる。
(あのとき、なぜあんな女の言葉を信じてしまったのか……!)
ロクサーヌと別れる原因となった子爵令嬢マーガレットは、日を追うごとに化けの皮が剥がれ、本性を露わにしていった。
彼女は上昇志向ばかりが強く、他人の功績を自分のもののように語り、平気で嘘をつく。
その結果、アドルフの社交界での評判は地に落ち、マーガレットはアドルフの顔に泥を塗り続けた。耐えかねて縁を切ったものの、一度失った信頼は戻らない。
実の兄である王太子エドワードからも、冷ややかな声でこう言い捨てられた。
「お前、何年ロクサーヌと付き合ってきた? 幼馴染だろう。彼女が浅慮なことをする愚か者だと本当に信じたのか? もし、そうだとしたら、お前こそが愚か者だな」
返す言葉もなかった。だからこそ、アドルフの胸にあるのは強烈な後悔と、歪んだ執着だった。
「ロクサーヌを取り戻さなければならない。彼女だけが、僕の隣にふさわしい……」
両陛下にも直談判した。だが、『一度壊した婚約を再び結ぶわけにはいかない』と冷たく突っぱねられ、それでも諦めきれるはずがなかった。
◇
――その日の午後。
アドルフは王宮を出ると、ウィンザム侯爵邸を訪れた。
通された応接室で、アドルフはソファに腰を下ろし、向かいに座るウィンザム侯爵を見つめていた。
「ロクサーヌを取り戻さなければならない。彼女だけが、僕の隣にふさわしい……」
アドルフの言葉を聞いた侯爵は、穏やかな笑みを浮かべた。
「……殿下は、今でもロクサーヌ様を深く想っていらっしゃるのですね」
「ああ。僕は、彼女をあんな場所に置いておくことなどできない。なんとしてでも、僕のもとへ取り戻したい」
アドルフがそう言うと、侯爵はゆっくりと立ち上がった。そしてアドルフのもとへ歩み寄り、その隣に腰掛けると、肩に親しげに手を置いた。そのまま手を背中へと滑らせ、包み込むように優しく撫でた。
幼少期から可愛がられてきたアドルフに、侯爵の距離の近さを警戒する様子はない。
むしろ、すがりつくように侯爵を見つめ返した。
「引き受けてくれるか、ウィンザム……!」
「ええ、もちろんでございますとも。愛しいアドルフ殿下……」
侯爵の指先が、アドルフの顎のラインにそっと触れ、愛おしむように滑る。
その目はアドルフの顔立ち――その奥にある『面影』を見つめていた。
侯爵は冷徹な判断のもと、すぐさま動き始めた。
ほどなくして、ウィンザム侯爵からアドルフの元に、トルドール侯爵邸の隠密調査の報告がもたらされた。
「――調べてみたところ、興味深い事実が判明いたしました」
「なんだ? ロクサーヌの様子はどうなんだ?」
報告書を開いたアドルフは、そこに記された文字に目を疑った。
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『政略による婚姻のため、トルドール侯爵令息アレックスとロクサーヌの間に夫婦関係は結ばれていない模様。さらに、アレックスと過去に関係があったと主張する女が、身重のまま邸に同居を始めている』
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「なんだと……!」
アドルフの血が一気に逆流した。
あんなにも気高く、誇り高いロクサーヌが、愛のない政略結婚の道具にされ、あげく夫には別の女まで囲われているというのか。夫婦関係すら結ばれていないなど、彼女がどれほどの屈辱と孤独を耐え忍んでいることか。
「なんてことだ……! それではロクサーヌがあまりにも気の毒ではないか!」
アドルフの中で、歪んだ正義感と救済欲が沸騰した。
彼女は自分を謀った子爵令嬢の頬を打ち、王家の至宝まで傷つけた罪によって修道院へ送られた。マーガレットのような愚かな女に追い詰められ、手を上げざるを得なかった彼女を救えなかった後悔。そして今度は望まぬ男の妻として虐げられている現実。
彼女を救い出せるのは、かつて彼女と婚約していた幼馴染の自分――第二王子である自分しかいない。
「僕が……僕が彼女をあの地獄から救い出し、今度こそ幸せにしてやらねばならない!」
興奮に瞳をぎらつかせるアドルフに、ウィンザム侯爵は静かに、しかしどこか含みのある笑みをたたえて告げた。
「おやおや、それは素晴らしいお考えですな。ですが、力ずくではトルドール侯爵家も、背後の派閥も動きません。……幸い、アレックス殿の元婚約者であるメルローズ嬢は、今も未練を残してアレックス殿を狙っているとか」
「……ほう?」
「ええ。彼女をうまく利用すればいい。アレックス殿とメルローズの密会を演出し、周囲に公表するのです。そうすれば、トルドール侯爵家との婚姻関係がいかに形骸化しており、王命で嫁いだとはいえ、すでに夫婦仲が破綻していることが公になる。ロクサーヌにはもはやあの家にとどまる理由などなくなり、婚姻の解消と、殿下の元へ戻る道が開けるというわけです」
ウィンザム侯爵の冷徹な策に、アドルフは深く頷いた。
すべてはロクサーヌを取り戻すため。彼の身勝手な救済劇の幕が、静かに上がろうとしていた。
――だが。
ウィンザム侯爵の暗躍のもとで仕組まれた『アレックスとメルローズの密会演出』の計画は、実行の段階であっけなく崩れ去ることになる。
すべての原因は、仕掛け人であるアドルフに利用されていたはずのメルローズ自身の浅はかさと、制御しきれない傲慢さだった。
あらかじめ指示されていた『人目を避けた密会の演出』などという回りくどい指示に満足できず、メルローズは『これで自分がアレックス様に縋りつき、あわよくば正妻の座を勝ち取るのだ』という妄執を現実のものにしようと暴走したのだ。
彼女は指示を無視して直接トルドール侯爵邸へと乗り込み、あろうことかエントランスで大声をあげて大騒ぎを起こした。
本来の計画である『夫婦の破綻を公にして離婚へ誘導すること』を完全に無視したメルローズの醜態。しかも、対応に出たロクサーヌによって過去の自らの醜聞を暴かれ、一言も言い返せずに逃げ帰るという大失態を演じたのである。
本来ならば一過性の押し掛けで済んだかもしれないものを、あろうことかメルローズ自身が自爆させた。返り討ちに遭った悔しさから、同情を買おうと『トルドール侯爵夫人に凄絶な侮辱を受けた』と社交界のお茶会で吹聴して回ったのだ。
だが、それが仇となった。あまりに支離滅裂な主張に不審を抱いた貴族たちが真相を調べた結果、『自分から何の先触れもなく乗り込んで過去の醜聞を暴かれ、逃げ帰った』という惨めな真実があっという間に露呈。格好の噂話として社交界中に知れ渡ることとなった。
そのあまりの愚行に、計画は一瞬にして『ただの元婚約者の逆恨みによる愚行』として終わってしまった。
その後、シャルボワ侯爵家はメルローズを修道院へと入れ、事態の収拾を図った。
表向き、この茶番の背後に第二王子アドルフの影があることは隠蔽された。
ウィンザム侯爵の根回しもあって、世間の噂は『シャルボワ侯爵家の落ちぶれた娘が引き起こした見苦しい騒動』として処理された。
だが、社交界は欺けても、王家の目を欺くことはできなかった。
情報網を張り巡らせていた両陛下のもとには、この騒動の全貌と、その背後でアドルフが動いていた事実が、とうに報告されていた。
――王宮の一室。
「……愚か者めが」
報告書に目を通した国王は、低い声で吐き捨てると、冷ややかな怒りを込めて机にそれを叩きつけた。
ロクサーヌとの婚約を自ら壊し、その後も懲りずに他人の家庭を引っ掻き回そうと陰謀を巡らせていた第二王子・アドルフの浅ましさ。王太子であるエドワードが苦言を呈しても、身勝手な妄想から抜け出せないアドルフを前に、父として息子を庇おうとする情さえ失われ、ただ失望だけが残っていた。
王妃もまた、静かに目を閉じて息をつく。
「ロクサーヌがトルドール侯爵家で平穏に暮らし始めたというのに……どこまであの子は、周囲の迷惑を省みず、自らの首を絞め続けるつもりなのでしょう」
世間には知られない。しかし、両陛下の知るところとなった以上、アドルフに対する両陛下の信頼は、完全に失われたのだった。
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