第25話 新婚夫婦の溝と歪み
私がコレットを残して応接間を出ると、廊下の先にはそわそわした様子のアレックス様が待ち構えていた。
「ロクサーヌ。少し話がしたいんだが、いいかい?」
「はい。わたくしもアレックス様にお聞きしたいことがございましたので。では、中庭の四阿でお茶でもいかがですか?」
「いいね。では、少し庭を歩かないか? 亡くなった母上が好きだった白薔薇が美しい時期だ」
「……はい。喜んで」
私はアレックス様のエスコートを受け、差し出された腕に手を添えて中庭の四阿へと向かった。
女官長のアメリアが速やかに侍女たちへ指示を出し、私たちが白薔薇を眺めている間にティータイムの支度が整えられていた。
席に着くと、侍女たちは会話の聞こえない十分な距離へと下がり、静かに待機した。
「お仕事、お疲れ様でした。無事に交渉が整ったのですね」
「ああ。詳しい内容は話せないが、我が国にとっての最善の結果が出せたと思っているよ」
「それはようございました。王太子殿下もさぞや安心なされたことでしょうね」
「ああ……」
障りのない世間話のような会話を交わし、互いに温かな紅茶を一口啜る。
木漏れ日が差し込む四阿には小鳥のさえずりが心地よく響き、のどかな空気が満ちている。そんな中で、アレックス様は深く息を吐き、申し訳なさそうに口を開いた。
「……すまなかったね。僕の過去の行いで、君に嫌な思いをさせてしまった」
「……」
「王命で君との婚姻が決まる前のこととはいえ、脇が甘かったと思っているよ」
「……」
「今後は、君にこのような思いをさせることがないように――」
「アレックス様」
私は優雅に、だがはっきりとアレックス様の言葉を遮った。
「わたくしたちは王命で結ばれた、政略結婚ですわ。家の恥になるような行いさえ謹んでいただければ、あとはこれまで通りご自由にお過ごしくださって構いませんわ」
アレックス様が驚きに大きく目を見開いた。
「それは……どういうことだい?」
「わたくしは侯爵家のため、侯爵夫人としての務めを果たすだけですので」
けれど、そんな私の動じない態度が、アレックス様にどのような感情を抱かせているのか――その時の私は、知る由もなかった。
だが、その動じない態度こそが、アレックス様の心になんとも言えない腹立たしさと焦燥を生み出していた。
「君は、僕と夫婦になる気はないのか? 僕たちは子を儲けてともに侯爵家を盛り立てていくのだろう」
「……アレックス様。わたくしは社交界のことには疎い身ではございますが、それでも、アレックス様についてはいろいろと噂されていることくらい、耳に入ってまいりますわ。これまでにも、アレックス様と関係を持ったご婦人は、いらっしゃったのでございましょう? そのすべての方が、コレット様のようにわざわざ名乗り出てくるわけではないのではなくて?」
「……」
「だって、そうでございましょう。どこかであなたのお子が誕生しているかもしれないではないですか。心からあなたを慕い、あなたに知らせることもなく、お子を育てているご婦人だっているかもしれませんわ。ねえ? その可能性を否定できまして?」
「……それはつまり、君は僕と子をなす気はない。僕の子なら、どこかですでに生まれているかもしれないから、それで十分だと……そう言っているのかな?」
「まあ、そうですわね。でも……違いまして?」
「違うよ。僕は……確かに、軽い付き合いをしてきたかも知れない。だが、すべてが遊びの……。いや、いい」
そこまで言って、アレックス様は私を真っ直ぐに見つめた。その目には動揺や苛立ちは感じられなかった。
「僕なりに割り切った関係だったが、実際、コレットのこともある。言い訳はしない。だが、君とは夫婦として誠実に向き合いたいと願っている。この気持ちまで否定しないでほしい」
私は、その言葉に素直に頷くことができなかった。
(信じてはダメよ。どうせ、また裏切られるだけだもの……。自分さえ強くあれば、誰も私を傷つけることはできないのだから)
私たちの会話は平行線のまま、互いの思いを語って終わった。
夕食の席では、何事もなかったかのように、私とアレックス様、そしてお義父様の三人で食卓を囲んだ。
お義父様が最近の領地の様子を話されれば、私は相槌を打ちながら、時折質問を返す。
「まあ、それでは肥料の効果が出て今年の葡萄の出来は、昨年より期待できそうなのですね」
「ああ。ロクサーヌが新しい肥料を提案してくれたと知って、領民たちも喜んでいるそうだ」
そんな何気ない会話に、私は自然と笑みをこぼしていた。
◇
料理を運んできた侍女に、ロクサーヌが笑顔で礼を言う。給仕の者が緊張してワインを注げば、「そんなに緊張しなくても大丈夫ですわ」と微笑む。そして、父上と話すときには、さらに表情が柔らかくなる。
――こんなふうに笑う女性だったのか。
アレックスは、知らなかった。
修道院で一年半にも及ぶ謹慎を強いられた公爵令嬢。さぞかし傷つき、心を閉ざしているのだろうと思っていた。
けれど、目の前の彼女はよく笑う。しかも、その笑顔を誰かに見せようとしているわけではない。ただ、そこにいる者たちと自然に言葉を交わし、自然に笑っている。
それが、なぜかアレックスの心に残った。
◇
(コレットは毎日一人で食事をしているのかしら。まるで、修道院での私のように……)
夕食後、私はふと思い立ち、コレットが滞在している客間へと足を進めた。
部屋の前まで行くと、ちょうど夕食の膳を片付ける侍女たちとすれ違う。彼女たちの表情にはどこか気まずい色が浮かんでいた。嫌な予感がして、私はそっとコレットの部屋のドアをノックし、中に入った。
テーブルの上には、下げられる途中の食事が残されていた。
あからさまな嫌がらせがあるわけではないようだ。
ただ、スープが冷めていたのか薄い膜が張り、残った肉料理は焼きすぎているように見える。……使用人たちが、女主人の私に忖度して行っている小さな冷遇の痕跡のようだった。
私はすぐに侍女長を呼びつけた。
慌ててやって来た侍女長と、給仕を担当した侍女たちに対し、私は優しく、だが静かに苦言を呈した。
「おそらく……わたくしのことを思ってのことでしょうけれど、その気持ちは間違っているわ。コレット様のお腹には、侯爵家の血を引くお子が宿っている可能性もあるのよ。食事は大切なのだから、つまらないことはしないように。わかったわね」
怯える侍女たちから、私は侍女長へと冷ややかな視線を向け、一段と厳しい声を出した。
「これは、部下を監督する侍女長としての責任です。アメリア、処分は後ほど申し渡します」
その一言で、侍女たちは一気に顔を青ざめさせた。
ロクサーヌがどれほど厳格で、同時に使用人たちを大切に思い、公平に評価しているかを理解しているからこそ、その言葉の重みが骨身に染みたのだ。
「はい。誠に申し訳ございませんでした。コレット様、ご不便をおかけしたことお詫び申し上げます。今後は、何かございましたらおっしゃってください」
侍女長は深く頭を下げ、コレットに向かって誠心誠意の謝罪を口にした。
その厳粛な様子を見て、慌てて他の侍女たちも涙を浮かべながら頭を下げた。
「コレット様。我が家の使用人たちは皆、本来は心根の優しい者たちなのですわ。今回は、女主人であるわたくしを思って行きすぎた行動をとってしまったのだと思います。お体に変わりはないかしら?」
コレットは、歓迎されないはずの自分のために私が毅然と対応する姿に、大きな驚きを隠せないようだった。
おそらく彼女は、どんな冷遇を受けても自業自得だと諦め、そのまま受け入れるつもりだったのだろう。
私はそんなコレットの姿に、かつて修道院での謹慎を命じられ、ただじっと孤独に耐えていた自分を重ねてしまうことが増えた。
どれほど惨めでも、誰かに訴えることすらできず、世間から取り残されたような寂しさ。その記憶が胸を締めつけ、彼女をただの敵として切り捨てることを躊躇わせるのだった。
「コレット様。ここでは遠慮をする必要はありませんわ。お腹のお子のためにも、何か不便があれば遠慮なく侍女長に仰ってくださいね」
私が優しく語りかけると、コレットは堰を切ったように大きな涙をボロボロと溢ぼし、ぽつりと呟いた。
「……どうして、そんなに……優しくしてくださるのですか。私のような……ロクサーヌ様にご迷惑ばかりおかけしている身持ちの悪い人間に……」
「優しさなどではありませんわ。私はただ、このトルドール侯爵邸の女主人として、当たり前の家政をしているだけです。それに……理由はどうあれ、冷遇にじっと耐える痛みを、私も知っておりますから」
私の言葉に、コレットは消え入りそうな声で「申し訳ございません……」と繰り返し、ボロボロと涙を溢しながら、何度も小さく頭を下げ続けるのだった。
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