第20話 あの日の自分と、シモンの向かう先
――同日、午後。トルドール侯爵邸。
ダニエラは騎士団の協力のもと、極秘に侯爵家ゆかりの医院へと運ばれた。
御者は事件の詳細を騎士団に伝えると、シモンを乗せた馬車で侯爵邸へと戻った。
ダニエラの傷の状態と事件のあらましを聞かされたノーマンは、ただ虚ろな目で深いため息をつくばかりだった。
「……愚かな女だ。どこまで私を苦しめれば気が済むのだ……」
十三年間、我が子として育ててきたシモン。
血のつながりがないと知った今でも、情がないはずがない。
ノーマンとアレックス、そしてロクサーヌの三人で、今後の対応について協議した。
「……シモンに罪はありません。ですが、この邸に置いておくわけにもまいりませんわ」
ロクサーヌの冷静な言葉に、ノーマンも頷いた。
シモンはすでに庶子として認知している。だが、ダニエラとの離婚後も、彼女の子であるシモンを侯爵家に置き続けるわけにはいかない。とはいえ、十三年間我が子として育ててきた少年を、路頭に迷わせることもできなかった。
話し合いの結果、シモンはトルドール侯爵家と長年取引のある、遠方の信頼できる裕福な商会に預けられることが決まった。学園に入学するまでの養育費はもちろん、将来、平民が通う学園へ進学するための十分な教育費も用意される。
シモンの今後について方針が決まったところで、ノーマンは深く息を吐いた。
「……これで、あとはダニエラの処分だけだな」
その言葉に、私は少しだけ考えてから口を開いた。
「お義父様。本当に、悪いのはダニエラ様だけだったのでしょうか?」
「……何?」
ノーマンが顔を上げる。
「ダニエラ様は愚かなことをしました。お義父様を裏切り、シモンを他人の子だと知りながら、お義父様に我が子だと信じ込ませた。その罪は、決して軽くありません」
私は一度言葉を切った。
「ですが……何が、彼女をそこまで愚かな人間にしたのでしょう?」
「……」
「もちろん、だからといってダニエラ様の罪が消えるわけではありませんわ。ただ、すべてをダニエラ様一人の責任にしていいのでしょうか」
ノーマンは黙って私の言葉を聞いていた。
「ダニエラ様もまた、誰かに利用され、誰かに縋り、間違った選択を重ねてしまったのかもしれませんね」
私は静かに視線を落とした。
「……そう考えれば、彼女もまた被害者だったのかもしれません」
ノーマンの表情が、わずかに曇る。
おそらく彼も、ダニエラだけを責めて終わらせることのできない何かを、自分の中に抱えているのだろう。
私は、それ以上は追及しなかった。
「ただし、ダニエラ様が市井に住まわせていた男には、しっかりと罪を償ってもらいます」
「あの護衛の男か……」
「ええ。ただ、あの男に余計なことを吹聴されては困りますわね」
私は少し考えた。
「……ですから、彼だけではなく、彼と関係を持っていたダニエラ様の友人だという女についても、こちらで対処しておきましょう。行儀見習いにあがっているリリアナの母親だそうですわ」
「そこまで……必要か?」
「必要ですわ」
私はお義父様をまっすぐ見つめた。
「あの男は、離縁状を渡されたとはいえ貴族であるダニエラ様に刃物を向けたのです。まずは、きちんと罪状を定め、相応の罰を受けてもらう必要があります」
「ああ。そこは当然だ」
「ええ。そして、もう一つ問題があります」
私は静かに続けた。
「あの男は、侯爵家の事情を知りすぎています。罪を償った後に、市井で好き勝手に話されては困りますわ」
「……シモンのことか」
「ええ」
「ダニエラ様の不貞だけなら、まだ侯爵家の内々の問題で済ませられます。ですが、シモン様の出生まで広まれば……アレックス様の立場にも傷がつきます」
ノーマンが苦い顔をした。
「では、どうする?」
「罪状と処罰を正式に決める際に、侯爵家の事情についての守秘も条件に加えましょう。口外した場合には、別途罰を受けることになるように」
「……なるほどな」
「彼と関係を持っていた女についても同じです。ダニエラ様が親友だという女にどこまで事情を話していたのか、まず調べる必要がありますわ」
私は淡々と告げた。
「知っている内容を確認したうえで、二人それぞれに相応の措置を取るべきでしょう」
侯爵夫人であったダニエラに関しては、トルドール侯爵家の悪評とならぬよう、『重篤な病気』ということにして、極秘裏に医院で療養させることになった。傷が癒えた後は、いずれ領地へ移し、そこで療養を続けているという名目のもと、外部との接触を断つこととした。
ルース男爵家への処分は、ダニエラの処分が済んでからとする。あくまでも、『トルドール侯爵家との縁が切れたことによる没落』という形をとるためだ。
何より優先すべきは、トルドール侯爵家の評判に傷をつけないことだった。
◇
そして――シモンを送り出す日が来た。
馬車に乗る前、シモンとお義父様、そして私は、最後の別れを前に向かい合って座っていた。十三歳の少年に、これから待っている厳しい現実を伝えなければならない。
私はシモンの顔をじっと見つめた。
「シモン。あなたは、自分の立場をどこまで理解していますか?」
「……僕は。先日、母上が事件を起こしたことと……あの男が僕の本当の父親だったから。父上とは血が繋がっていないから……侯爵家を追い出されるのですね」
そう言うと、シモンは泣くのを堪えるように唇を噛んだ。両手を腿の上で強く握りしめ、俯きそうになる顔を必死に上げている。
まだ十三歳の少年だった。けれど、その面差しはやはりお義父様とは似ていなかった。
「ええ。あなたにトルドール侯爵家の血は流れていない。それは事実です」
私は静かに告げた。
「あなたの父親は、あの市井の家で護衛として暮らしていた男、エリックです」
シモンの肩が、わずかに震える。
「ただ……ノーマン・トルドールが、あなたを息子として思っていることも事実です。それだけは、どうか分かってちょうだい」
私は、隣に座るお義父様へと視線を向けた。お義父様は黙ったまま、向かいに座るシモンを見つめている。
お義父様が、重い口を開いた。
「シモン。お前には、侯爵家と長年取引のある、遠方の商会に向かってもらう。そこで世話になりながら、十五歳になったら平民が通う学園に通いなさい。養育費と、学園を卒業するまでの学費は侯爵家が面倒を見る」
シモンは、黙ってお義父様の言葉を聞いている。
「お前の母、ダニエラは領地で暮らしてもらう。外部との接触は許されない。大人になったら会いに行くことは構わない。それまでは、勉強に励みなさい」
シモンは泣きそうな顔を俯けた。
その姿を見ていると、胸の奥がわずかに痛み、一年半前、修道院へ向かった自分の姿が思い浮かんだ。
あの日、私も、自分の居場所を奪われたと思った。家から遠ざけられ、『自分は捨てられたのだ』と悟った。周囲はすべて敵に見え、この世に信じられるものなど何もないと思っていた。
今のシモンの気持ちを完全に理解できるとは言えない。
けれど――。
「シモン」
私は努めて優しい声で呼びかけた。
「今のあなたに何を言っても、こちらの真意は伝わらないかもしれないわ」
シモンが顔を上げる。
「なぜ、自分が。なぜ、母上が。なぜ、ここに置いてくれないのか……。きっと、たくさんの怒りがあると思うの」
シモンは何も言わない。
「私もね、自分ではどうすることもできない状況に置かれて、家から捨てられたと思ったことがあるの」
その言葉に、シモンの瞳がわずかに揺れた。
「だから、今のあなたの気持ちが分かるとは言わないわ。私とあなたでは、事情が違うもの」
私は、まっすぐシモンを見つめた。
「それでも……今は、こんなことで負けないで。行った先で環境に慣れ、学園で勉強に励みなさい。そして、自分で生きていく力を身につけるの。今の少年のあなたには、その時間が必要なのよ」
私は一度、言葉を切った。
「いつか、自分の人生を自分で選べるようになるために。だから、今は耐えて、励みなさい。周囲の理不尽に負けてはいけないわ」
シモンは、黙ったまま私を見つめている。
「強くおなりなさい、シモン。あなた自身の力で、周囲を黙らせるくらいに」
急に熱く語り始めた私の言葉を、シモンは真っ直ぐな瞳で受け止めていた。
今は伝わらないのかもしれない。それでも、いつかこの言葉の意味を分かってくれたらいい。これが、当時の私が誰かにかけてほしかった言葉だったのかもしれない。
「では、私は出立の準備をしてまいります」
私は立ち上がった。
「……最後は、父子二人でお過ごしください。失礼いたします」
そう告げ、私はそっと扉を開けて応接室を後にした。
廊下を歩いていると、背後からシモンの泣き声が漏れてきた。
まだ十三歳の少年らしい、抑えきれない泣き方だった。
私は足を止めなかった。
(あの日の私も、誰かに縋って泣きたかったのかしら……)
◇
やがて、馬車の出発の時刻が来た。
馬車に乗り込み、去っていくシモンの後ろ姿を、私とアレックス様はエントランスから静かに見送った。お義父様は、二階の窓辺から一人、シモンを見送っていることだろう。
「……これで、ようやく落ち着きましたね」
「ああ。……これからは、僕たちの時間を始めよう、ロクサーヌ」
ダニエラが屋敷を去ったことで、アレックス様の中にも、長く胸に残っていた何かが、ようやく一区切りついたよう見えた。
それは、亡き母の無念を少しだけ晴らせたような、複雑な感情だったのかもしれない。
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