第19話 ◆ ダニエラの動揺と、裏切りの露呈
シモンと二人、侍女が準備した着替えの入った鞄一つで馬車に押し込められ、トルドール侯爵邸の重厚な門扉が遠ざかっていく。
ガタガタと揺れる車内で、私は爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。
「なぜ……どうして私がこんな目に……っ!」
夫であるノーマン様からの『離縁状』を握りしめる。
つい先ほどまでトルドール侯爵夫人として優雅に暮らしていた私は、一瞬にしてすべてを失い、追われるように屋敷を放逐されたのだ。
隣で怯え、不安そうな表情のまま項垂れているシモンを横目に、私はまず、頼みの綱である実家のルース男爵邸へと馬車を走らせた。
◇
「お願い、お兄様! しばらくでいいから、私たちをここに置いてちょうだい! あのロクサーヌという女のせいで、私は着の身着のまま追い出されたのよ!」
だが、すがりつく私を待っていたのは、ルース男爵家当主である兄の罵倒だった。
これまで金を頼っていたトルドール侯爵家から追い出されたと知るや否や、兄は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「これで……これで我が家はもう終わりだ! お前という奴は、なんてことをしてくれたんだ!!」
これまで私が侯爵家から引き出した金銭で散々支援してやったというのに、ルース男爵家は『どうせトルドール侯爵家から毎月多額の金が入るのだから』と高を括り、領地経営を怠り、私財を遊興費や無駄な贅沢で使い果たしていたのだ。
「金のないお前なぞ養う余裕はない! 自分の力で生きるがいいさ。さあ、出て行け!」
「そんな! お兄様、あんまりですわ! これまでずっと援助してきたのは私よ! 行くところなんてないわ! ここに置いてちょうだい!」
「ふん。知らないとでも思っているのか? お前が護衛のエリックを市井の一軒家に囲っていることくらい知っているんだぞ。そこへ行けばいいだろう! さあ、出て行け! おい! 誰か、ダニエラを馬車まで連れて行け!」
「お兄様! お兄様――っ!」
冷酷に叩きつけられた門扉の音。
実家にすら見捨てられた私は、絶望に震えながら次の行き先を考えた。
◇
困り果てた私は、市井に暮らすバレリーの家へと向かった。
学園時代からの友人で、当時から私とノーマン様の交際を応援してくれていた親友だ。
元男爵令嬢であり、嫁いだ先の男爵家で早くに夫に先立たれ、娘のリリアナとともに実家に戻ったのち、平民となった女だ。
今回の顛末を話し、なんとか侯爵家に戻る方法はないか相談するつもりだった。だが、突然の訪問だったためか、あいにく留守で応答はなかった。
万策尽きた私が最後に向かったのは、かつて学園卒業後にノーマン様が私のために用意してくれた、市井の家だった。今は、そこにエリックを住まわせている。
そもそも、私が学園卒業後、この家で暮らすようになったのには理由がある。
ノーマン様は学園を卒業すると、かねてからの婚約者であった伯爵令嬢と結婚した。
だが、『君と別れる気はないよ』。そう告げられ、この家で暮らすようにと言われた。『愛しているのは君だけだよ、ダニエラ』とおっしゃってくださったけれど、ノーマン様に会えない時間は不安で、寂しくて、一人で泣いていることも多かった。
そんな私のそばにいたのが、当時護衛を務めていたエリックだった。
ノーマン様に会えない『寂しさ』と『心細さ』から、私はエリックと深い仲になった。
関係が始まった当時、私に彼への愛情はなかった。
ただ、寂しさを紛らわす相手。それだけだったはずなのに……。
そして数年して子ができ、ノーマン様もとても喜んでくださった。
しかし、喜んだのも束の間、生まれた子の髪と瞳の色を見て、私の不安が現実になったことを知った。
(この子の父親は……ノーマン様ではないのかもしれないわ。ああ、神様。お許しください!)
その後、『シモン』の出生の秘密は、私の弱みとなった。
エリックはその秘密を利用し、次第に私に対して強く出るようになっていった。
ノーマン様の奥様が亡くなられて、周囲の反対を押し切り、ノーマン様は私を後妻として侯爵家に迎えてくださった。もちろん、愛するシモンも我が子として迎えてくださった。
ただし、すでに庶子として認知されていたシモンには、侯爵家の養子としての地位を与えることはなかった。
『我が家の正統な後継はアレックスだ。シモンを後継にするつもりはない。それでも、あの子が私の息子であることに変わりはないよ』
そう言って、愛おしそうに私とシモンを抱きしめてくれた。
◇
本当は実家やバレリーに相談に乗ってもらい、せめてこの小さな家だけは守りたかった。
けれど、エリックがこのまま私を当てにし続ければ、やがては生活のために家を手放すことになってしまう。それではシモンの生活まで不安定になってしまう。
(もう、エリックには出て行ってもらうしかないわ)
やがて馬車は、市井にあるエリックの住む小さな家の前に到着した。
シモンには馬車の中で待つよう言い聞かせ、私は一人で鍵を開けて中へ入った。
時刻はすでに正午近いというのに、雨戸が閉められ、まるで夕方のように薄暗く静まり返った室内。しかし、リビングのテーブルの上には、外から持ち帰ったらしい食べ物の容器と、ワインの空き瓶が放置されていた。
「えっ……。グラスが、二つ……?」
不審に思った私は、足音を忍ばせながら、廊下の奥にある寝室へ向かった。
扉の前まで来て、ノブに手をかけようとしたその時――中からよく知る男女の楽しそうな話し声が聞こえてきた。
『ねえ、エリック。ダニエラに私との関係がバレたら困るんじゃない? 好きなんでしょう?』
『ははっ、ダニエラのことか? あれは、ただの都合の良い金づるだよ。あんな真面目で面白みのない女、最初から愛してなんかいるわけないだろ。バレリー、お前の方がずっといい女だ』
「――っ!!」
頭の中で、何かがぶつりと切れた。
『ダニエラの笑顔を見ていると腹が立つのよね。何にもしないで、ただ侯爵の言うままに生きてきたくせに、今は侯爵夫人の座におさまってさ。余裕ぶって私を見下して……。ああ、いい気なものよね』
『おいおい。まあ、そう怒んなよ、バレリー。俺たちはせいぜいダニエラの金で面白おかしく暮らせばいいんだよ。侯爵夫人を利用して、楽しく遊ぼうぜ、なあ』
――エリック! これまで散々、金を無心してきたくせに! バレリーもよ! 親友のふりをして私を騙したのね! お前たちごとき平民に、こんなふうに馬鹿にされていたなんて!
時には私への愛を囁き、長い時間を共に過ごしてきたエリック。そして、『大切な親友よ』と笑っていたバレリー。きっと、二人はいつも陰で私を嘲笑していたのだ。
激怒した私は寝室の扉を一気に開け放つ。
「二人とも、私を馬鹿にするなんて、絶対に許さないわ――!!」
「なっ、ダニエラ!?」
「キャッ! 何よいきなり!」
ベッドの上で裸のまま抱き合っていたエリックとバレリーが、慌てて跳ね起きる。
私が目を血走らせて飛びかかると、護衛を務めていたエリックは私の手首を力任せに捻り上げ、そのまま私を突き飛ばした。
「キャッ!」
ドンッ!!
その勢いで、私は壁際に置かれた戸棚にぶつかり、床に倒れた。
怒りのおさまらない私は、戸棚の上に置かれた空の花瓶を両手で掴むと、そのままベッドサイドに立つエリックに向かって飛びかかった。
揉み合う中で、エリックが私から奪い取った花瓶が私の頭に当たり、私は絶叫と共に、頭から血を流して床に倒れ込んだ。
「ぎゃっ……!」
「あっ! ダニエラ!?」
「キャァァァァァッ!! ダニエラ!? エリック、ダニエラの頭から血が!!」
私の絶叫とバレリーの悲鳴、そしてエリックの狼狽した声が、室内に響いた。
二階の窓から漏れ聞こえた悲鳴と物音に異変を察した御者が、すぐさま屋敷へ駆け込み、二階へ駆け上がった。
そこで目にしたのは、頭から血を流して倒れている私と、床に転がる花瓶、そして裸の男女の姿だった。
御者はすぐさま騎士団へ知らせに走った。
「シモン……を……。シモンを……ノーマン様に……っ」
私は朦朧とする意識の中で最後の言葉を告げると、そのまま意識を失った。
その後、駆けつけた騎士団によって、エリックとバレリーはその場で捕縛された。
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