第18話 侯爵の絶望と、裏切りへの処罰
大騒ぎの末、ダニエラとシモンが侯爵邸を追い出された、その夜。
広々とした豪奢な食堂で、私は義父ノーマンと二人、向かい合って食卓についていた。
かつてアレックス、ダニエラ、シモンが顔を揃えていた、歪な食卓。だが今や、そこには静寂だけが残っていた。
「……ロクサーヌ」
運ばれてきた料理に一口も手をつけず、ワイングラスを弄んでいたお義父様が、しわがれた声で口を開いた。
いつもの威厳は見る影もなく、壮年の男らしい魅力を備えた端正な顔には、疲労と落胆が色濃く滲んでいた。
「私は……取り返しのつかない過ちを犯した愚かな男だ。亡き妻の思いを踏みにじり、我が子のアレックスを傷つけ……。挙げ句、他人の男の種を愛おしそうに育てていたのだからな。社交界の嘲笑が目に浮かぶようだ……」
己の愚行を恥じ、弱音を吐く侯爵家当主。
だが、私は気品ある所作でナイフとフォークを置くと、慰めの言葉ひとつかけず、ただ冷徹な光を宿した瞳で義父を見つめた。
「お義父様。今必要なのは、過ぎた過去への後悔でも、ご自身の不運を嘆くことでもございません」
「……」
「これ以上、トルドール侯爵家の名誉を傷つけぬよう、完璧な始末をつけること。そして社交界への口止めと、失われた家政の信頼を取り戻すことです」
一切の情も通わない、まったくの正論。
ノーマンは気圧されたように言葉を詰まらせた。
「お義父様には、しばらくお心を休めていただくのがよろしいでしょう。……今後の家政と、ダニエラ様の件に関する残務整理は、この私が責任を持って差配いたしますわ」
「……ああ。君に任せよう。トルドール侯爵家のことを、頼んだよ……」
ノーマンは力なく頷いた。
名門トルドール侯爵家を長年支えてきた、立派な当主であるノーマン。そんな彼が、すべてを私に投げ出したわけではない。今はただ、妻に裏切られた衝撃と、これまで気づけなかった家の問題を前に、冷静に判断できる状態ではなかったのだ。
だからこそノーマンは、すでに私に任せていた家政を、これからもしばらく私に託すことにした。
こうして私は、名門トルドール侯爵家の家政を引き続き預かることになった。
◇
しかし、その日の深夜。
まだ片付けるべき『厄介ごと』が残っていることを確認するため、私は薄く開けたドアから廊下の気配をうかがっていた。
柱時計が夜の十一時を告げると同時に、薄暗い廊下を静かに歩く気配があった。
背中が大きく開いた白い夜着を纏った女性――元男爵令嬢のリリアナだ。
彼女は昼間に私が叩きつけた警告など意にも介さず、アレックスの寝室へと向かい、慣れた手つきでドアを叩いた。そして、吸い込まれるように部屋の中へと消えていく。
(……ダニエラ様が放逐された直後だというのに、まだアレックス様にすがりつこうというのかしら。本当に、浅ましいこと)
私は胸の奥に走る熱い疼きを冷たく押し殺すと、静かに自室の扉を閉めた。
◇
翌朝。ダニエラという後ろ盾を失ったものの、まだ状況を理解していないリリアナを追い出すべく、私は朝食の席でアレックス様に話を切り出した。
食堂には、私とアレックス様の二人が向かい合って座っていた。
昨夜の不貞行為など微塵も感じさせず、アレックスはいつもの麗しい笑みを浮かべて私を見つめている。
私はナプキンで唇を拭うと、淑女の笑みを崩さぬまま、静かに切り出した。
「アレックス様。ダニエラ様ゆかりのリリアナには出て行ってもらいますが……彼女を、あなたの愛人としてこの邸にとどめますか?」
ぴくり、とアレックスの手が止まった。
彼は琥珀色の瞳を丸くし、何を言われたのか理解できないという顔で首を傾げた。
「は? 何を言っているんだい、ロクサーヌ」
「……お二人は親密なのではなくて? これまでにも、夜更けにあなたの寝室へ向かう彼女の姿を、私は何度か目撃しております。それに、昨夜も……」
私の淡々とした指摘に、アレックスは一瞬だけ呆然とし――次の瞬間、すべての合点がいったように頭を抱えた。
「――っ! そういうことか。ロクサーヌ、それは酷い誤解だ!」
彼は慌てて椅子から立ち上がり、必死の様相で食卓を回り込んで私との距離を詰めてきた。いつもの余裕に満ちた紳士の仮面は、見る影もなく剥がれ落ちている。
「あの侍女が、深夜、勝手に僕の部屋を訪ねてきていただけだ。もちろん、即座に部屋からは追い出していたんだよ。不快極まりなくて、僕は彼女に心底迷惑していたんだ。暇を出すことに異論なんてあるはずがない。むしろ清々するよ!」
「……」
必死に弁明し、私に嫌われていないかを恐れるように早口で言葉を重ねるアレックス。その瞳には、嘘偽りのない焦燥が浮かんでいた。
少なくとも、私には嘘をついているようには見えなかった。
(……部屋に入れて……いなかったの?)
二度とも、彼女が部屋へ入ったところまでしか見ていなかった。扉が閉まった後、中で何が起きていたのかまでは分からなかったのだ。
「……そうでございますか」
私の口からぽつりと漏れた言葉。
胸の奥でずっと重く冷たく渦巻いていた冷たい塊が、すうっと溶けて消えていくような不思議な感覚。
「本当に、本当なんだ。僕が求めているのは君だけだ、ロクサーヌ」
私に向かって手を伸ばしかけ、けれど触れて良いものか躊躇するように空中で止まるアレックス様の手。
私はその様子を見つめながら、ほんのわずかに、自分自身の心が解き放たれていくのを感じていた。
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