第2話 ただ一瞬の激情、そして世界の反転
あの日、貴族学園のサロンで何が起きたのか。
真実は、誰の耳にも届かなかった。
ただ、『嫉妬に狂ったカークランド公爵令嬢が、哀れな下級貴族の少女の頬を打ち、怪我を負わせた』という醜悪な噂だけが、一瞬にして尾ひれを伴って学園へ、そして王宮へと瞬く間に広まった。
私と両親が公爵邸へと帰宅した日の夜。
待っていたのは、両親からの、氷のように冷たい視線と叱責だった。
「ロクサーヌ、お前は自分が何をしたのか分かっているのか」
格調高い応接室で、父・カークランド公爵バーナードが、感情の消えた低い声で重々しく口を開いた。その隣では、いつも私を優しく見守ってくれていたはずの母イザベルが、額を押さえて深くため息をついている。
「あろうことか他の令嬢に手を上げるなど……。我がカークランド公爵家の名に泥を塗るだけでなく、ドイル侯爵家、ひいてはリッチモンド公爵家の名にまで傷をつけたのだぞ」
その声に、激しい怒りはなかった。ただ、有無を言わせぬ絶対的な冷徹さと、張り詰めたような鋭さだけが室内に満ちている。
「お父様、お聞きください! 私は、彼女にあまりに不躾な侮辱を……」
私が縋るように声を上げると、父はそれを遮るように冷たく手を挙げた。その目は私を見るのではなく、机の上の書類へと落とされている。
「理由など関係ない。お前がその手を下した際、王家の至宝であるサファイアの指輪まで傷つけた。その事実だけがすべてだ。……あの子爵令嬢の頬の傷など些細なことだ。第二王子殿下の色恋沙汰など問題にもならん。そこのところをお前は理解していない」
父の言葉は、突き放すようでいて、どこか私をこれ以上の追及から遮断するような奇妙な早さがあった。
私は縋るような思いで、父の隣に座る母を見た。
母の実家は、王妃殿下のご実家であるリッチモンド公爵家の傍系にあたるドイル侯爵家だ。王宮のドロドロとした権力闘争や策略を知る母ならば、あの下級貴族の娘が仕掛けた罠の可能性に、きっと気づいてくれるかもしれない。そう期待した。
けれど、母がゆっくりと上げた瞳に宿っていたのは、慈愛ではなく、冷徹な拒絶だった。
ただ、その奥には、私には読み取れないほど僅かな苦痛の色が、一瞬だけ揺らいだ気がした。
「王妃殿下からのお言葉も、陛下より下された正式な処分書状も、すべて拝見しております」
母の手元には、王家の紋章が押された処分書状があった。
「お母様……」
先ほど王宮で陛下から告げられた決定が、逃れようのない正式な沙汰として刻まれていた。母が冷淡な声で、そこに記された決定事項を淡々と読み上げる。
『カークランド公爵令嬢ロクサーヌ。第二王子アドルフとの婚約は解消とし、王家の至宝を損ない、暴挙に及んだ不覚の罰として、王家直轄領にあるトラファルガー修道院での謹慎を命ずる』
届けられたのは、私情など微塵も挟まれていない、ただの公式文書だった。
幼い頃から私を実の娘のように可愛がり、『アドルフの良き妻に』と言ってくださっていた、憧れの王妃殿下。
(ああ、私との思い出も、積み重ねてきた努力も、すべてこの紙切れ一枚で処理されてしまうのね……)
アドルフ殿下だけでなく、あれほど私を慈しんでくれた王妃殿下までもが、私の言葉に寄り添うことなく、私を『不要な汚点』として切り捨てたのだ。
「王家より下されたご沙汰通り、お前は今後、学園への登校を一切禁じられる。幸いにも王家のお慈悲により、定期試験のみを修道院で受け、卒業資格だけは残していただけることになった。……カークランド家の面目が完全に潰されずに済んだことを、ありがたく思いなさい」
父の言葉は、事実上の追放宣言だった。
私は、王子妃教育で教えられた通り、通達に対して甘んじて受け入れる返答をするしかなかった。
「……はい。申し訳……ございませんでした」
これ以上、何を言っても無駄だった。
私はもう、家族として守られる存在ではない。一刻も早く人目から隠したい、不祥事そのものになってしまったのだ。
私は深く頭を下げ、自室へと退室した。
翌日から、私の世界は完全に反転した。
華やかなドレスはすべてクローゼットの奥に仕舞われ、いつの間に手配されたのか、地味なドレスだけが用意されていた。広大な公爵邸の、さらに奥まった場所が、一週間後に修道院へと出発するまでの私の部屋になった。
(心の準備と、質素な生活に慣れろということなのかしらね……。さっさと修道院へと送ってくれたらいいのに)
朝、目を覚ましても、私を美しく着飾らせてくれる侍女はいない。朝食、昼食、夕食――すべての食事が、たった一枚のトレイに載せられて自室の机に運ばれてくる。それを出迎えるのも、私を憐れむような、あるいは腫れ物に触るような目を向けた、最低限の使用人のみだった。
パタン、と重い扉が閉まり、完全な静寂が部屋を支配する。
ぽつんと一人、ベッドの端に腰掛けた私は、膝の上できつく拳を握りしめた。溢れそうになる涙を堪えるために天井を見上げると、脳裏に鮮やかに蘇ってくるのは、かつての輝かしい記憶だった。
冷たい部屋の静寂が、遠い記憶の扉を無理やり開いていく。
――あれは、私がまだ五歳の頃。
母に連れられて初めて足を踏み入れた、王宮の美しい庭園。色とりどりの薔薇が咲き誇るその場所で、私はエメラルダ王妃殿下、そして、年の同じ第二王子アドルフ殿下と出会った。
「まぁ、ロクサーヌ。なんて愛らしいのかしら。まるでお人形さんのように可愛らしいわ。イザベル、この子を私にちょうだい」
「お戯れを、王妃殿下。私の大切な娘でございますよ」
二人の母たちが楽しげに笑い合う側で、私は緊張のあまり、小さな身体を強張らせてドレスの裾を握りしめていた。そんな私を覗き込んできたのが、輝くような金髪と、悪戯っぽくきらめく翡翠の瞳を持った男の子――アドルフ第二王子殿下だった。
「ねえ、君がロクサーヌ? 僕はアドルフ。そんなに怯えなくていいよ。僕の城にきたんだから、君は僕が守ってあげる!」
ふんぞり返って得意げに胸を張る五歳のアドルフ殿下の姿に、私の緊張は一瞬で吹き飛んでしまった。思わず、くすりと小さな笑い声を漏らしてしまう。
「まぁ、ご挨拶が立派ですこと。ロクサーヌ、殿下にお礼を」
「……はい。アドルフ殿下、よろしくお願いいたします」
私が精一杯の礼を尽くすと、アドルフ殿下は嬉しそうに私の小さな手を握りしめ、お茶会のテーブルへと引っ張っていった。
「ロクサーヌ、この苺のタルト、すっごく美味しいんだよ。君にあげる!」
「おい、アドルフ。ロクサーヌにばっかり格好いいところを見せてズルいぞ!」
まだ幼い王太子エドワード殿下や三男のパトリック殿下も混ざり、私たちはまるで本当の兄妹のように笑い転げた。あの時、私を見つめるアドルフ殿下の瞳には、確かな温もりと、幼いながらも私を特別に思う光が宿っていた。
お茶会の終わりに、アドルフ殿下は私の耳元で、そっと小さな声で囁いたのだ。
「ロクサーヌ。大きくなったら、僕のお嫁さんになってね。約束だよ」
その言葉が、私の人生のすべてになった。
あの約束を胸に、私たちは共に成長していった。そしていつしか、幼い日の約束は正式な婚約へと変わっていた。
十歳を過ぎ、互いに身分を弁えたお茶会になっても、二人きりになれば、かつてのような気の置けない会話を交わした。
「ロクサーヌ、また家庭教師に怒られちゃったよ。歴史の年号なんて、覚えて何になるんだ?」
「もう、アドルフ殿下。王国の歴史は王族の歴史でもあるのですよ。次期王子妃になる私がこれほど勉強しているのですから、殿下が怠けていては困ります。ほら、ここを復習してください」
「うげぇ……ロクサーヌは厳しいなぁ。でも、君が僕のために怒ってくれるのは、ちょっと嬉しいかも」
頭を掻きむしりながらも、殿下はいつも私の言葉に真剣に耳を傾け、最後には優しく微笑んでくれた。私たちの気持ちは誰よりも深く結ばれていると、あの少女が現れるその瞬間まで、私は心から信じていたのに。
「……嘘つき」
ぽつりと呟いた私の声は、誰もいない冷たい部屋の壁に跳ね返り、虚しく消えた。
あの約束も、重ねた笑顔も、すべては偽りだったのだろうか。私は膝に顔を伏せ、声を殺して泣き続けた。
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