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修道院帰りの『王子の元婚約者』、遊び人侯爵令息の腕に囚われる  作者: 恋せよ恋


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第1話 完璧なる薔薇の、あまりに呆気ない転落

 王宮のまばゆい舞踏会。豪奢なシャンデリアの光を浴びて、貴族たちが私に深く膝を折る。


 カークランド公爵家の次女、ロクサーヌ。それが私の名だ。


 我が家は建国以来の名門有力貴族であり、私の母は、王妃殿下のご実家であるリッチモンド公爵家の傍系にあたるドイル侯爵家の次女だった。母は現王妃エメラルダ陛下とは従姉妹であり、幼馴染でもあった。


 三大公爵家の一角を担う家柄に加え、王妃殿下からも娘同然に可愛がられていた。

 母に連れられて幼い頃から王宮のお茶会に通い、三人の王子たちとは幼馴染のように育った。


「ロクサーヌ様は、アドルフ第二王子殿下の婚約者に相応しいご令嬢ね」


「お美しくてご聡明で、そのうえお二人とも同い年でいらっしゃるなんて、本当にお似合いですわ」


 世間は、私たちを幼い頃からの婚約者同士として見ていた。

 私もまた、同い年の第二王子殿下とお互いに好意を抱き、いつか夫婦になるのだと疑いもせず信じていた。


 公私ともに認められた、淑女中の淑女。令嬢たちの見本であり、憧れの的。

 私の人生は、完璧な幸せが約束されている《《はずだった》》。


 ◇


 異変が起きたのは、私たちが十六歳になり、貴族学園の二年生に進級して間もない頃だった。


 いつものように学園のサロンへ向かうと、周囲の令嬢たちが私を見て、同情と好奇の混ざった視線を寄こし、ひそひそと囁き合った。


「ロクサーヌ様、またアドルフ殿下は……」


「ええ。今日もあの『地方貴族の子爵家の娘』とご一緒のようですわ」


 胸の奥が、ちりりと焼けるように痛む。



 ここ数ヶ月、アドルフ殿下の隣に私の席はなかった。

 殿下の傍らにいるのはいつも、学園に編入してきたヨーク子爵令嬢、マーガレットだった。


 地方の貧乏貴族の娘。

 洗練された社交界の作法も知らず、おどおどとした態度で男たちの庇護欲をかき立てる。可憐さだけが取り柄の娘だった。


 アドルフ殿下は彼女に付きっきりになり、私を避けるようになっていた。


(何かの気まぐれだわ。アドルフ殿下はただ、不慣れな彼女を助けていらっしゃるだけ。私との婚約を揺るがすほどのものではない……)


 自分に言い聞かせ、私は背筋を伸ばした。完璧な淑女は、これしきのことで取り乱したりはしない。


◇


 高位貴族と王族が利用するサロンの奥、いつもの特等席にアドルフ殿下とマーガレットの姿があった。

 

 私がアドルフ殿下に挨拶をしようと歩み寄ったその時、殿下が侍従に呼び止められ、マーガレットを残してその場を離れた。


 残されたマーガレットに、私はそのまま歩み寄った。


 周囲の喧騒から少し離れたサロンの片隅で、私たちは向かい合った。



「……アドルフ殿下は、本当にお優しい方ですわね」


 私への挨拶もなく、不意に話し始めたのは、マーガレットの方だった。


 彼女はアドルフ殿下の姿が見えなくなったことを視線で確認すると、それまでの儚げな態度を一変させ、まるで格上の私を見下すようにふっと唇を歪めた。


「ロクサーヌ様も、そう思われますでしょう?」



「……マーガレット様。アドルフ殿下を誘惑するような真似は、お控えになって」


 私が毅然と言い放つと、彼女は私にしか聞こえないほど小さな声で、くすりと笑った。


「誘惑? まさか。殿下は私といる時が一番楽しいとおっしゃってくださるわ。ねえ、ロクサーヌ様。どれだけ高貴な家柄でも、殿下に愛されていなければ意味がありませんわ。《《ドルフ》》も、貴女の細かくて厳しいお説教にはうんざりして、口煩くて退屈な女だとおっしゃっていましたもの」


「……ドルフ?」


 思わず、その呼び名に反応してしまった。


(アドルフ殿下は……愛称で呼ぶことを許していらっしゃるの? そんなにも二人は……)



 幼い頃、私たちは互いを『ドルフ』『ロクシー』と、愛称で呼び合っていた。

 けれど、王子妃教育が始まってから、私は『アドルフ殿下』と呼ぶようになった。将来の王子妃となる私には、愛称で呼ぶことは相応しくないと、教育係から厳しく言い聞かされていたからだ。


 王族への礼を忘れてはいけない。

 婚約者であっても、人前では『アドルフ殿下』とお呼びするように――。


 だから私は、いつしか『ドルフ』と呼ぶことをやめた。


(それなのに……この人は、殿下を愛称で呼んでいる)


 胸の奥が、ひやりと冷えた。



 そしてマーガレットは、自らの手のひらに載せた《《深く青く輝くサファイアの指輪》》を、私に見せつけるように誇らしげに掲げてみせた。


「……それに、未来の王子妃は私だと、殿下ご自身がこの指輪とともに約束してくださったのよ」


「――なっ!?」


 頭の芯が、真っ白に染まった。

 私がこれまで積み上げてきた努力、アドルフ殿下のために捧げた時間、そして彼への信頼。そのすべてを、何も知らないこの娘に、泥靴で踏みにじられたような屈辱だった。


 許せない! 怒りで頭が真っ白になった。


 気がつけば、私は右手を振り抜いていた。


 ――パァンッ!


 乾いた高い音が、静かなサロンに響き渡る。


 生まれて初めて他人の頬を打った右手がジンジンと痛むけれど、淑女である私の力など、大したものではないはずだった。


 彼女は頬を打たれた勢いに逆らわず、大きく身体を後ろへ反らした。


 その瞬間、彼女は指先を動かし、手のひらに載せていた指輪をわざと弾き飛ばした。


 ――カラン、カラン、カラン。


 サファイアの指輪が大理石の床を転がり、柱の角にぶつかり、ガツンと嫌な音が響く。



 そして、倒れ込む瞬間、彼女は自分の指先で左頬を軽く引っかいた。白く柔らかい肌に、赤い爪痕が残る。


「痛い……!」


 マーガレットは頬を押さえ、涙を流した。


 浅い傷だった。けれど、白い頬に浮かぶ赤い跡は、見る者の同情を誘うには十分だった。



 その瞬間、最悪のタイミングで、サロンの扉が開いた――。


「何をしている、ロクサーヌ!!」


 地を震わせるような怒号。現れたのは、アドルフ殿下だった。


 殿下は目を見開き、倒れ込んだマーガレットのもとへ慌てて駆け寄ると、その華奢な身体を抱きかかえた。


 

「あ……っ、殿下……! 私のことはいいのです、それより……お、王家の指輪が……っ!」


 涙を溢れさせ、怯えながらマーガレットが指さした先――大理石の床に転がっていた『サファイアの指輪』を目にした瞬間、殿下の顔に、激しい怒りが浮かんだ。そして、彼女の左頬に滲む血に気づいた瞬間、私に向けて一度も見たことのない冷酷な瞳を向けた。



「マーガレット嬢、大丈夫か!? ――なっ、頬から血が出ているではないか……!? なんて酷いことを! ロクサーヌ、君がこれほど醜い嫉妬に狂う女だったとはな! 身分の弱い彼女に危害を加え、頬を傷つけるだけでなく、王家の至宝にまで傷をつけるとは……淑女の風上にもおけない!」


「え? お、王家の、至宝……?」


 柱の根元に転がる、金細工の歪んだ『サファイアの指輪』へ視線を落とす。


(あの指輪が……王家のお品!? 彼女はただ、殿下が指輪とともに将来の王子妃になると約束してくれたと……っ)


 あまりの事態に血の気が引き、声が震える。


「殿下、違います、私は……! 彼女が、将来の王子妃は自分だなどと……っ!」


「言い訳は見苦しい! 王家の至宝を損ない、他者を傷つけて反省の色すらないとはな。失望したぞ、ロクサーヌ。君のような冷酷な女との婚約など、到底認められん。君との婚約を解消するよう、両陛下に私から強く進言させてもらう!」


 冷たく言い放ち、アドルフ殿下はマーガレットを横抱きにして、私を一瞥もせず去っていった。


 静まり返るサロン。周囲の高位貴族たちの冷ややかな視線が、容赦なく私に注がれていた。


◇


 ――だが、本当の絶望は、その日の夜に訪れた。


「……王家の影より、ことの真相は報告を受けている」


 王宮の奥深く――王族とごく限られた者だけが立ち入ることを許された一室。

 事態の重さゆえ急遽呼び出された私と両親であるカークランド公爵夫妻に、国王陛下と王妃殿下は、冷ややかな視線を注いでいた。



「あの子爵令嬢が指輪を見せてお前を煽ったことも、『王家の影』から報告を受け、すべて把握している。……なお、あれは王家に代々伝わる、王子が婚約者に贈るための指輪だった。王家の至宝を軽々しく持ち出し、あまつさえ婚約者でもない令嬢に渡したアドルフの愚行については、王家よりすでに謹慎処分が下されている」


「では、陛下……! それなら、私は……!」


 これで分かってもらえる。そう思って顔を上げた私に、王妃殿下から返ってきたのは救いどころか、情を一切交えぬ冷酷な断罪の言葉だった。


「勘違いしないで、ロクサーヌ。アドルフの落ち度も、子爵令嬢の挑発も、貴方の不始末とは別問題よ。真実がどうあれ、貴方が感情を爆発させ、我が王家の至宝に傷をつけたという事実は消えないわ。何より――」


 王妃殿下は深く、失望の溜息を吐かれた。


「あのような小者の稚拙な挑発一つにあっさりと嵌まり、己の感情すら抑えられず、自ら墓穴を掘るとは……。我が王家が求めていたのは、いかなる罠や奸計が仕掛けられようと優雅にいなし、裏では完璧に事を収めてみせるだけの器量よ。あのような小者すらあしらえぬ者に、王子妃としての未来など任せられないわ」


「……」


「カークランド公爵令嬢ロクサーヌ。王家の至宝を損なった罪により、王家直轄領のトラファルガー修道院での謹慎を命じる。多くの者がお前が手を上げたところを見ている。……王家の影が真相を把握しているからといって、表向きの事実まで覆すことはできぬ。しばらくは修道院で静かに頭を冷やすことだ」


「……っ」


「――ただし、進級や卒業に必要な試験は、修道院にて執り行わせる。必要な試験に合格すれば、卒業資格だけは与えてやろう。……それが、これまでの献身に対する我が王家の、せめてもの慈悲だ」


 両陛下の冷徹な沙汰の前に、私と両親はただ深く頭を垂れることしかできなかった。



 罠に落ちた悔しさから苦しいのではない。煽られたとはいえ取り乱し、取り返しのつかない過ちを犯してしまった己の未熟さ。


 幼い頃から共に育ち、誰よりも大切に思っていたアドルフ殿下。私を理解してくれると信じていた彼から向けられた、冷酷な視線。幼い頃から優しく可愛がってくれた王妃殿下の、慈愛など微塵もない断罪。



 完璧な淑女であろうと積み上げてきた矜持も、捧げてきた愛情も、何一つとして自分を守ってはくれず、『愚か者』の烙印とともに完膚なきまでに叩き潰された。



 静まり返った室内で、目の前が真っ暗になるような感覚とともに、私の胸の奥で何かがパキリと音を立てて壊れた。


(……そうか。努力も、信頼も、愛情も――私が信じていたものは、こんなにも脆かったのね)


 その日、私は知った。


 どれだけ尽くしても、どれだけ正しくあろうとしても、それだけでは誰かの心を繋ぎ止めることなどできないのだと。


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