第16話 夫婦で出席する夜会と、口紅の痕
アレックス様と夫婦として初めて参加する社交の場――ジャイロ公爵家の夜会へ向かうため、私たちは馬車へと乗り込んだ。
ジャイロ公爵邸の絢爛豪華な大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、会場を満たしていた喧噪がしんと静まり返った。
ロクサーヌが身に纏うのは、夜の星空を思わせる深いミッドナイトブルーのシルクドレス。白い肌をいっそう際立たせる最高級の生地は、彼女が優雅に歩を進めるたび、裾にあしらわれた繊細な銀糸の刺繍が月光のように妖しく揺らめく。
胸元を飾るのは、ロクサーヌの美しい紺碧の瞳に似合うトルドール侯爵家から贈られた大粒のサファイア。
ロクサーヌの凛とした紺碧の瞳と響き合い、余計な装飾を削ぎ落としたからこそ際立つ、圧倒的な美しさと品格を放っていた。流れるような金色の髪は、一筋の乱れもなく複雑に結い上げられ、輝くダイヤモンドの髪飾りがその美貌を完成させている。
その隣に並ぶアレックスもまた、仕立ての良い漆黒の夜会服に身を包み、金色の髪と色っぽい琥珀色の瞳、整った容貌が華やかさを添えていた。
「——ご覧になって、あのお二人のお美しさを」
「まるで月光の女神と、光を纏う貴公子のようですわね……」
並び立つ二人の姿は、まさに息をのむほど美しく、絵画から抜け出してきたかのようだった。社交界でもひときわ目を引くその姿に、居合わせた貴族たちの視線が一瞬にして奪われていく。
ロクサーヌは横に立つ夫の腕にそっと手を添え、気高い淑女の笑みを浮かべながら、ゆっくりと会場の中央へと歩みを進めた。
会場では久しぶりに両親であるカークランド公爵夫妻の姿もあった。
トルドール侯爵夫妻も参加していたが、義母のダニエラは他の夫人たちと交流することもなく、社交をする夫と共に過ごしているようだった。
それにしても、アレックス様に言い寄る夫人たちの多さには辟易する。淑女の微笑みを張り付けながら、内心では酷くげんなりしていた。
「ちょっと、挨拶をしてくるね。すぐに戻るけれど、ロクサーヌも友人たちと過ごすといいよ」
そう言って、アレックス様は友人たちの元へと歩いていく。
……学園時代も『孤高の未来の第二王子妃』として過ごした私に、心許せる友人などいるはずもないのに。
物珍しげに向けられる視線と、侯爵家におもねる男たちからのダンスの誘いにもうんざりして、私は果実水のグラスを受け取ると、人目を避けるように静かな回廊へと足を向けた。
すると遠くに、先ほど別れたばかりの夫の姿が見えた。
(え? なぜ、こんなところに……?)
胸騒ぎがして足音を忍ばせ、柱の陰に身を潜めながら距離を詰める。やがて、二人の話し声が、耳に届く。
「アレックス様、今夜もご一緒できるのでしょう? 最近はまったくお会いできなくて寂しいですわ……」
「……ドイル子爵夫人、君も知っての通り、私は結婚したんだ。これまで通りには遊べないよ」
「まあ! アレックス様ともあろうお方が奥様が怖いのですの? それとも、やはり噂通りの我儘な方なのかしら?」
「……『噂通り』とは、聞き捨てならないね」
「ですが! 噂では、第二王子殿下に婚約を破棄されて修道院に入った方を、王命で押し付けられたのでございましょう? お気の毒ですわ」
「……誤解があるようだね。妻は我儘でもないし、押し付けられたわけでもない。それに、婚約は『解消』であって、『破棄』ではないよ。妙な噂を流すのはやめてもらおうか」
「……まあ、お優しいこと。でしたら、やっぱり別室で『癒しの時間』が必要なのではありませんこと? ねえ、よろしいでしょう? ねえ」
「いや、今夜は遠慮しておくよ。妻を待たせているから、失礼するよ」
「えっ、そんな……! では、口付けだけで我慢しますわ。ねえ、よろしいでしょう?」
女は甘えるようにアレックス様の首に腕を回した。その瞬間――少し離れた場所で、柱の陰に立つ私と、しっかりと目が合った。
私よりもいくつか年上と思われる、艶やかな美貌の女が、一瞬だけ驚きに目を見張り…… 次の瞬間、ひどく意地の悪い笑みを浮かべて見つめ返してきた。
私が見ていると知った上で、女は彼にねっとりと唇を重ねる。
アレックス様は一瞬、身を固くしたように見えたが、突然のことに対応が遅れたのか、すぐには彼女を引き離さなかった。
(……ああ、やっぱり。報告書にあった通りの『遊び人』だったのね)
ほんの少しでも、優しく声をかけてくれた彼に、期待してしまった自分が情けない。
(バカね、私は。結局、信じられるのは自分だけなのだわ)
私は二人に背を向け、果実水の入ったグラスを握りしめて、煌びやかな会場へと戻った。
大広間の壁際で社交用の微笑みを貼り付け、侯爵家のために役割をこなす。それが私に与えられた唯一の生き方なのだから。
喉の奥に込み上げる熱いものを、歯を食いしばって呑み込んだ。
(負けない。こんなところで、絶対に負けないわ……)
ほどなくして戻ってきたアレックス様は、何事もなかったかのような美しい笑顔を向けてくる。
「やあ、ロクサーヌ。友人との話が長引いてしまって遅くなった。何事もなかったかい?」
嘘を吐く夫に、私は完璧な笑みで嘘を返す。
「はい。ご夫人方とお話をしておりましたわ」
「そうかい。挨拶も終わったし、では、そろそろお暇しようか」
「……ええ。はい」
アレックス様はロクサーヌの笑みに一瞬だけ微かな違和感を覚えたが、その理由を深く考えることもなく、彼女の手を取って会場を後にした。
◇
馬車の中は、重苦しい無言の時間が流れていた。
「疲れたのかい?」
静寂に耐かねたように、アレックスが問いかける。
「……はい。久しぶりの夜会でしたので」
「そうか。これから社交シーズンが本格化するから、少しずつ慣れていくといい」
「はい」
ロクサーヌは視線を窓の外に向けたまま、淡々と短く答えるだけだった。
やがて馬車は侯爵邸に到着し、馬車を降りた二人はエントランスで足を止める。
「それじゃあ、ロクサーヌ。今夜はゆっくり休むといい」
「はい。……お気遣いありがとうございます」
一礼して背を向けたロクサーヌが数歩歩いて、ピタリと足を止めた。
「アレックス様」、振り返ることもなく夫の名を呼ぶ。
「ん? なんだい、ロクサーヌ?」
ロクサーヌは極めて静かな声で呟いた。
「唇の端に、紅が残っておりますわ。……拭き取りきれていなかったようですね。近くで見なければ気づかない程度ですけれど」
「っ……!?」
「政略結婚とはいえ、王命によって結ばれた夫婦ですもの。新婚の今くらいは、噂を避けるべきかと存じます。人目につく場所ではなく、休憩室をご利用ください。……それでは、お休みなさいませ」
そう告げると、一度も振り返ることなく寝室へと向かい歩き出した。
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