第15話 義母の難癖と、王妃の言葉
トルドール侯爵邸に戻ったロクサーヌは、侍女の介助で普段着のドレスへと着替えると、夕食の時間まで自室で過ごしていた。
その日の夕食の席にアレックスの姿はなかった。仕事で王宮から戻っておらず、侯爵夫妻も晩餐会に招かれて出かけている。
今夜は、私一人の気楽な夕食だった。
「シモンは在宅かしら? 彼の夕食は?」
私が侍女長に尋ねると、
「はい。シモン様は、自室でお召し上がりになるそうです」
と返事があった。
「そう」
私は、それだけ答えた。
夕食を終えた私は執務室でしばらく家政に関する書類に目を通していた。一通りの仕事を終えて自室へ戻り、ナイトドレスに着替えると、私は窓辺に佇み、月を見上げた。
婚約解消を告げられてからの一年半と、嫁いでからの三週間が、まるで幻なのではと思えてくる。
(私の人生は、あの日――アドルフ殿下に婚約解消を宣言された時で終わってしまったのだわ……。今の私は、ただ生かされているだけ。それなら、せめて立派にお人形としての役割を全うするだけだわ)
心はとうに凍りつき、涙など二度と流れないと思っていたのに……。
自分でも気づかぬうちに頬を伝い落ちる冷たい涙を拭おうともせず、ただ、青く美しい月を見つめていた。
ちょうどその時、王宮での政務を終え、ようやくトルドール侯爵家へと帰宅したアレックスは、馬車から降りると何気なくロクサーヌの部屋を見上げた。
夜の闇に浮かび上がる細いシルエット。その頬に、月光を受けた何かが一瞬きらめいた。
(美しいな……。まるで月の女神が佇んでいるかのようだ。だが……泣いていたのか? なぜだ?)
アレックスは出迎えの家令に上着を預けると、吸い寄せられるようにロクサーヌの部屋へと向かった。
コンコンコン、と軽く扉を叩く。
時刻は既に十時を回っていた。扉を叩いてから『しまった、遅い時間だったか』と後悔したものの、アレックスは扉の前で返事を待った。
しばらくすると、中から「どなた? どうかされましたか?」と、ロクサーヌの静かな声が聞こえた。
「私だ。今、王宮から戻ったのだが……少し話せるだろうか?」
「……。申し訳ございません。すでに寝支度が済んでおります。急ぎの要件でなければ、明日にしていただけますでしょうか」
やんわりとした、けれど確かな拒絶の言葉がくぐもった声と共に返ってきた。
声をかければ、たいていの女性は喜んで自分を受け入れる。そんな思い込みがどこかにあったアレックスは、思いがけない拒絶に一瞬、言葉を失った。
「っ! あ、そうか。……ああ、それなら……明日の朝食の席で話そう」
「はい、アレックス様も。遅くまでお勤めお疲れ様でございました。おやすみなさいませ」
「……ああ。おやすみ、ロクサーヌ」
アレックスは閉じられた扉をしばらく見つめていた。
先ほどまで、月明かりの下で泣いていたように見えた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
(……やはり、何かあったのだろうか)
そう思いながらも、今は無理に踏み込むべきではないと判断し、静かにその場を離れた。
◇
翌朝、朝食の席で顔を合わせた時には、ロクサーヌは昨夜の涙など微塵も感じさせない美しい微笑みを浮かべていた。
「おはよう、ロクサーヌ。すまないね、なかなか時間が取れなくて。邸での生活に不便はないかい?」
「おはようございます、アレックス様。使用人の皆様には大変よくしていただき、つつがなく暮らせておりますわ」
穏やかな微笑みにアレックスが胸を撫でおろしたその時、遅れてやってきた侯爵夫妻が席についた。
「おはようございます、父上、……ダニエラ様」
「おはようございます。お義父様、お義母様」
(……アレックス様は侯爵夫人を『お義母様』とは呼ばないのね。閣下もそれを容認していらっしゃる、と)
夫の呼び方から家庭の歪みを鋭く読み解くロクサーヌ。すると、ダニエラが扇で口元を隠しながら、粘りつくような視線をロクサーヌに向けた。
「あら、ロクサーヌさん。昨日のお茶会では、随分と華やかなお姿でしたわね。王妃殿下のお茶会ですもの、立派な装いが必要なのは分かりますけれど……修道院から戻られたばかりですし、少し驚いてしまいましたわ」
姑からの、遠回しながらも明らかな嫌味。
アレックスが眉をひそめかけた瞬間、ロクサーヌは動揺することもなく、極上の笑みを深めた。
「お気遣い感謝いたします、お義母様。ですが、あのお衣装と宝石はすべて、私をトルドール侯爵家に迎えるにあたり『我が家の嫁として恥じぬ身なりを』と、お義父様が整えてくださったものですの」
「なっ……!」
さらにロクサーヌは、追い打ちをかけるように微笑んだ。
「それに、王妃殿下からも『さすがは王子妃教育を受けた淑女、洗練されたドレスがよく似合っているわ』とお褒めの言葉を賜りましたわ。……お義母様はお茶会で遠くのお席にいらっしゃいましたから、聞こえませんでしたのね。ふふ、配慮が足りず申し訳ございません」
そこで、一旦、言葉を切った私は、三人の視線を意識しながら、ゆっくりと微笑んだ。
「お義母様こそ、今朝は随分と華やかなお召し物でいらっしゃいますのね。……お義父様のお好みに合わせられたのでございましょうか? 仲がおよろしくて羨ましい限りですわ」
上品な言葉の裏に、鋭い皮肉を込めた一言だった。
顔を真っ赤にして絶句するダニエラをよそに、ロクサーヌは優雅に一礼した。
「それでは、私どもはこれで失礼いたします。どうぞ、ごゆっくり」
アレックスもロクサーヌに合わせて立ち上がる。
「父上、失礼します」
ロクサーヌとともに食堂を出たアレックスは、どこか感心したような目で新妻を見つめた。
「……君は、なかなか頼もしい妻だな」
「あら、アレックス様。妻として、家の恥にならぬように尽力しているだけでございますわ」
隣を歩くアレックスを見つめるロクサーヌの瞳は、どこまでも澄んで、そして冷たかった。
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