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修道院帰りの『王子の元婚約者』、遊び人侯爵令息の腕に囚われる  作者: 恋せよ恋


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第10話 能面の夫と、泣き崩れた洗濯場

 翌朝、侍女に身支度を整えてもらい、食堂へと向かうと、アレックスは昨夜の不実など微塵も感じさせない、爽やかな笑顔を浮かべて私を迎えた。


「おはよう、ロクサーヌ。今朝も美しいね。昨日はよく眠れたかな? 何か不都合があれば、すぐに侍女長に言うといい。急いで改善させるからね」


 昨夜、彼がリリアナを自分の寝室へ招き入れるところを見ていなければ、この言葉に騙されていただろう。私は淑女らしい笑みを浮かべたまま、答えた。


「……おはようございます、アレックス様。いいえ、とても快適に過ごせておりますわ。お心遣いありがとうございます」


「相変わらず堅苦しいね。でも、まあ、まだ二日目だし、おいおいね」


 何食わぬ顔で微笑む彼に、胸の奥が冷え切っていく。



 朝食が終盤に差し掛かった頃、ようやく食堂の扉が開き、ノーマン侯爵夫妻、そして一人の少年が姿を現した。


「おはよう、ロクサーヌ。昨日は眠れたかな?」


「はい、お義父様。お心遣いありがとうございます」


「ああ、君にまだ、シモンを紹介していなかったね」


 侯爵が笑顔で少年の肩を抱き寄せる。


「ダニエラの連れ子、シモンだ。シモン、アレックスの妻となる次期侯爵夫人のロクサーヌだよ」


 紹介された少年は、栗色の髪に切れ長の明るい茶色の目をした、おとなしい印象の少年だった。私はその顔をじっと見つめ、内心で眉をひそめた。


(あら……。お義父様には、少しも似ていないのね)


 報告書にあった『実子疑惑』を思えば、もっと侯爵閣下に似ているかと思った。けれど、こうして見る限り、誰に似ているのかはよく分からなかった。



「ロクサーヌ様、トルドール《《侯爵家の次男》》、シモンです。これから仲良くしてください」


 十二歳の少年らしい、少し高い声で健気に挨拶される。私はその純粋な瞳に応えるように、柔らかな笑みを浮かべた。


「シモン。これから、義姉弟として仲良くしていきましょうね」


 私とシモンが笑顔で初対面の挨拶を交わす。その様子を、ノーマン侯爵とダニエラ夫人は微笑ましげに見つめていた。



 ――だが、ふと隣に視線を移した瞬間、私は背筋が凍るような思いがした。


 アレックスが、感情のない冷たい顔で、私たちを見つめていたのだ。

 その琥珀色の瞳には、隠しきれない憎悪が宿っていた。私は、そのあまりの迫力に言葉を失った。



 朝食を終え、王宮へと出仕するアレックスを見送るため、私は玄関へと向かった。


 馬車に乗り込む直前、アレックスは私の元へ歩み寄ると、何の前触れもなく、私の頬にそっと口づけを落とした。そして、周囲を魅了するような麗しい笑顔を残して、足早に去っていった。


 私はあまりのことに、その場に釘付けになって固まっていた。


 周囲の使用人たちからは、新婚の若奥様が、名残惜しそうに走り去る馬車を見送っている微笑ましい光景に映っただろう。


 だが、私の心は大混乱を起こしていた。


(はっ!? な、何をするの、あの男! こんな、みんなの前で、突然……っ!)


 淑女の笑みを浮かべていたけれど、その下では、恋愛経験のない私は心臓が爆発しそうなほど動揺していた。頬に残った微かな熱が、なかなか引かなかった。



 顔が赤くなるのを必死に抑えながら、私は気持ちを切り替えた。今日からは、この歪んだ屋敷の内情を把握しなければならない。今日からは、この歪な邸内を把握するための戦いが始まるのだ。


 私は家令のクロードと侍女長のアメリアに案内され、侯爵邸を見て回りながら、下級使用人たちの紹介を受けていた。


 やがて、邸の片隅にある洗濯場へ足を運んだ時のことだった。


 そこでは、山のように積まれたリネンを前に、若い二人の下級使用人が、冷たい水に手を入れて必死に洗濯をしていた。



「あなたのお名前は?」


 私が気さくに声をかけた瞬間、洗濯場の空気がピシリと固まった。


 名を尋ねられた少女は、まるで死刑宣告でも受けたかのようにカタカタと身を震わせ、その場にどさりとひれ伏したのだ。


 後ろに控えていた侍女長のアメリアが、慌てて声を上げる。


「若奥様。何か、この者に粗相があったでしょうか!?」


「……え? どういうことかしら」


「な、名を尋ねられましたので、何か処罰を下されるのではないかと……」


 アメリアの言葉に、私はこの屋敷の異常なまでの身分格差と、下級使用人への冷遇を察した。


 第二王子妃となるために育てられてきた私にとって、使用人の名前を把握することは、上に立つ者としての基本だった。



 私はすぐに笑みを浮かべ、ひれ伏す少女の肩に優しく手を置いた。


「まあ。誤解させてしまったのね。我が家で働いてくれている大切な使用人だもの、名前を覚えるのは当然でしょう? だから尋ねただけよ。安心してちょうだい」


 私の穏やかな声に、少女は恐る恐る、涙目で顔を上げた。


「……メ、メリーです。……若奥様」


「メリーね、覚えたわ。そちらのあなたは?」


 もう一人の少女が、直立不動で声を張り上げる。


「はいっ! あたしは、ジェニスです!」


「ジェニスね。……ところで、この広い邸のリネンを、二人だけで洗濯しているの?」


「はい……」


「そう。二人だけで大丈夫? 無理をしていないかしら」


 私の問いかけに、二人は顔を見合わせ、気まずそうに視線を落とした。


「……それは……。えっと……」


「大丈夫よ。心配しないで答えてちょうだい。私が聞いたのだから、誰にも処罰なんてさせないわ」


 私がそう言うと、二人は少しだけ顔を上げた。メリーが意を決したように口を開く。


 私は背後を振り返り、アメリアに冷たい視線を向けた。


「侍女長。この屋敷の人事権は、一体どうなっているのかしら?」


「……それは……」


 アメリアは一瞬言葉に詰まり、ちらりと洗濯場の少女たちへ視線を向けた。


「……はい。人員に関することは、すべてダニエラ奥様のご判断となっております……」


 なるほど、と私は得心した。

 あの『足りていない』侯爵夫人が、現場の状況も知らずに人事を管理しているのだ。


 私は小さく頷いた。


「そう。ではアメリア、早急に、お義母様に面会の時間を伺ってちょうだい。人事の件で相談があると」


「……は、はい。かしこまりました」


 アメリアが驚きに目を見張る中、私は再びメリーとジェニスに向き直った。

 二人の手を順番に取ってみると、どちらも赤く腫れ上がり、ひび割れていた。その痛々しい手を見て、胸が痛んだ。


「メリー、ジェニス。手荒れがひどいわね。すぐに肌を保護する手袋を手配させます。それから軟膏を塗って、できるだけ水に触れないようにしなさい。……人員不足のせいで、すぐに休ませてあげられなくてごめんなさいね。代わりの人員が整うまで、もう少しだけ待っていてちょうだい」


 次期侯爵夫人であるロクサーヌが、下級使用人の手を握り、あろうことか『謝罪』まで口にしたのだ。


 二人は、信じられないものを見るように私を見つめていた。そして次の瞬間、大粒の涙をこぼし、顔を覆って泣き始めた。これまで、どれほど辛い思いをしてきたのだろう。



「あらあら。泣かせてしまったわね」


 私は困ったように微笑むと、アメリアを振り返った。


「アメリア。彼女たちにあたたかいお茶を。二人を少し休ませてあげて。……メリー、ジェニス。甘いものでも食べて、少し落ち着いてから、また仕事に戻ってちょうだい」


「は、はい……っ! グスッ、がんばりまずっ……!」


 涙を拭いながら必死に頷く二人を残し、私は洗濯場を後にした。



 その後も私は、厨房、庭師、厩舎、裏方まで邸内を巡り、出会った使用人一人ひとりに名前を尋ねながら挨拶をして回った。その傍ら、仕事の様子や職場の環境にも目を配っていた。


 ダニエラ夫人が放置し、歪みきったこの屋敷の『家政』。


 愛など信じない。そんな私だからこそ、この歪んだ屋敷の中を、徹底的に変えてやろうと静かに決意するのだった。


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