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白い結婚十年、婚姻無効を申し立てます  作者: 九葉(くずは)


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第9話 閣下

三月、たった。


エルディアの春が、レゼリアの夏に、入れ替わっていた。


レゼリア王宮、北塔の控えの間で、エルザが、就任式用の礼装を、整えてくれていた。


礼装は、レゼリア式だった。

エルディアより、襟が、ひとつ、高い。

袖が、ふたつ、短い。

色は、藍青の、深い、しずかな色。


左胸には、エルメリア家の家紋を、小さく、刺してもらっていた。

アヴェルニュ家の家紋ではない。

私の生家の、家紋だった。




「エルメリア様」


エルザが、刺繍の角度を、最終確認しながら、お声をかけた。


「エルメリア様」と、エルザが私に呼ぶようになって、まだ、三月。

それでも、その響きは、少しずつ、私の身体に、馴染んできていた。


「はい」


「式典の終わりに、ルシアン殿下が、ご私邸の応接で、お待ちだそうです」

「夕刻、お迎えの馬車が、参ります」


私は、頷いた。


エルザは、それ以上、何も、おっしゃらなかった。

ただ、礼装の襟元を、もう一度、軽く、お整えくださった。




就任式は、王宮の中央広間で、執り行われた。


エルディアの王宮より、天井が、もう一段、高かった。

壁の色も、もう一段、暗かった。

ガラス窓は、エルディアより、縦に、長かった。


私の前に、レゼリア国王陛下が、お立ちになっておられた。

ルシアン殿下は、その斜め後ろに、お控えになっていた。


ご兄弟は、お顔立ちが、似ておられた。

ただ、お笑いになる頻度が、まったく、違った。




儀礼長の声が、広間の天井まで、届いた。


「セレスティーヌ・エルメリア閣下、外交補佐官に、任ぜらる」


一拍、置かれた。


「エルメリア」と、私の生家の姓で、呼ばれたのは、嫁いだ最初の日以来、誰の口からも、聞いたことのない、響きだった。


「閣下」と、敬称で呼ばれたのは、生まれてから、初めてだった。


二つの新しい音が、私の名前の中に、入って、来た。


身体の中で、なじむのに、まだ、少し、時間が、かかった。




レゼリア国王陛下が、ご自分の手で、辞令の書を、私の方へ、お渡しくださった。


「お受けいただき、感謝いたします、夫人……」


陛下は、そこで、ご自分で、お止めになった。


「いえ、夫人では、ありませんでしたね」


陛下は、目を、軽く、お細めになった。


「閣下、です」


それから、軽く、ご自分の弟君の方へ、視線を、お向けになった。


「弟の眼鏡に、三十年ぶりに、叶った方だ」


周囲の儀典官の方々が、ほんの少しだけ、笑われた。

ルシアン殿下も、お顔を、ほんの少しだけ、伏せられた。

お耳の縁が、少しだけ、赤くなっておられたように、私には、見えた。

気のせい、だったかもしれない。




その夜、ルシアン殿下のご私邸の、応接の間。


ご私邸は、王宮から、馬車で、四半時の距離。

古い、石造りの、二階建ての館だった。


応接の間の、長椅子は、二人掛けが、二脚、向かい合わせに、置かれていた。

紅茶は、レゼリア式で、淹れられていた。

殿下は、ご自分の手で、その一杯を、私に、お差し出しになった。


二人だけで、向かい合わせに、座った。


殿下は、しばらく、何も、おっしゃらなかった。

ご自分の紅茶の湯気を、ご覧になっていた。


やがて、お顔を、お上げになった。


「閣下」


殿下が、私を、そう呼ばれたのは、これが、最初だった。


「あなたを、役割で、縛りたくは、ありません」

「外交補佐官の任期は、三年です」


殿下は、一度、息を、お整えになった。


「三年後、もし、あなたが、お望みなら」

「どこの国へでも、お進みになれる道を、私のほうで、ご用意、いたします」




「殿下」


私は、紅茶のカップを、卓に、戻した。


「私は、ここに、居ます」


殿下は、すぐには、お答えにならなかった。

一拍、置かれた。

それから、ゆっくりと、頷かれた。


「それでも、私は」


殿下のお声が、わずかに、低くなった。


「あなたの隣に、いたい、と」

「外交補佐官の同僚として、ではなく」

「ルシアン・ド・ロアール、個人として」


殿下は、そこで、ご自分のお手を、ご自分の膝の上で、軽く、握り直された。


私は、答えようとした。


いいえ、では、なかった。

はい、でも、なかった。




——私は、まだ、誰かに、求められることに、慣れていない。


十年の沈黙が、私の中に、音のない場所を、作っていた。


その場所を、埋めるのに、もう少し、時間が、ほしかった。




「殿下」


私の声は、自分でも、思っていたよりも、小さかった。


「次に、お会いした時に」


一度、息を、ついた。


「お返事を、申し上げます」


殿下は、頷かれた。

急がず、深く。


「では、お待ちいたします」


「それも、私の仕事です」




殿下のお声は、いつもと、同じ低さだった。


ただ、その「お待ちいたします」の音は、五年と、三月と、これから先の何月かを、すべて、束ねた音、だった。


私は、それ以上、お答えしなかった。

紅茶のカップを、もう一度、両手で、握った。


カップの底が、私の手のひらの中で、ほんの少しだけ、温かかった。




数日が、たった。


王宮の、私の執務室は、北棟の三階に、用意されていた。


朝の文書整理の途中で、若い書記官が、一通の私信を、お持ちになった。


「閣下、エルディアから、お届けの、一通です」


差出人の名は、マイラ・コルマール。


紙は、薄い、ベージュ色。

折りたたみの跡が、少し、ぎこちなかった。

蝋印は、なかった。


私は、ペーパーナイフを、使わずに、指で、封を、開いた。


文字は、ぎこちなく、揃って、いなかった。


リーシャ様が、ご自分で、便箋に向かって、何かを、お書きになるのは、これが、初めてのことだったのかも、しれなかった。




「セレスティーヌ姉様」


「私は、ずっと、甘えて、おりました」


「明日、アヴェルニュ伯爵邸を、出ます」


「叔父の修道院併設の、療養院に、入ります」


「兄さまには、これからは、妹がいないことを」

「ご自分で、考えていただきたいのです」


文末に、署名は、なかった。

ただ、最後に、小さく、こう、書かれていた。


「姉様の、ご健勝を、お祈り申し上げます」




私は、手紙を、ゆっくりと、畳んだ。


同じ折りたたみの跡を、もう一度、なぞった。

指の腹に、紙の繊維の感触が、伝わった。


リーシャ様が、ご自分の意思で、屋敷を、お出になる。


十年、私が、待ち続けたものを。

リーシャ様は、三月で、ご自分のものに、された。


妬む気持ちが、なかった、とは、言えなかった。

ただ、その気持ちは、思っていたよりも、軽かった。

ずっと、軽かった。




窓の外。


レゼリアの、夏の、夕暮れが、王宮の塔の影を、長く、敷石の上に、伸ばしていた。

やがて、薄い藍青の空に、星が、一つ、二つと、出はじめた。


エルディアの空とは、違う、星の出方だった。


王宮の塔の鐘が、夕の合図を、鳴らした。

鐘の音は、エルディアより、ほんの少しだけ、高く、軽かった。


私は、手紙を、書類入れの、一番下の段に、静かに、しまった。


その上に、ルシアン殿下からいただいた、辞令の書を、重ねた。


二つの紙は、まったく、別の方向から、私のところまで、届いた、二つの紙、だった。


ただ、同じ机の、同じ段に、しまわれた。


それで、よかった。

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