表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚十年、婚姻無効を申し立てます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 婚姻無効

その朝、エルザが、私の髪を、結ってくれた。


普段より、少し、上に、結い上げた。


「奥様」

「本日は、束ねたほうが、宜しいかと」


エルザの声は、いつもより、少しだけ、低かった。


着るものは、二週間前に、お義母様と、一緒に、選んでおいた。


黒、ではない。

喪服に見える色は、選ばなかった。

灰青色の、簡素な、長衣。

結婚式に着た、白絹のドレスでも、ない、けれど。

普段の社交着でも、ない。


——婚姻無効の請願者として、司教座に立つ女が、着るものを、私は、知らなかった。

ただ、知らないなりに、選ぶしか、なかった。




屋敷を、出る前に、机の引き出しから、請願書の本紙を、取り出した。


署名欄には、すでに三つ、名前が、入っている。


アデール・アヴェルニュ。

エルザ・ヴァインミラー。

エルメリア侯爵、ロデリック・エルメリア。


三人目のお父様の署名は、三日前、ご実家から、書状で、届いた一通だった。

お父様のお筆跡は、私が結婚を決めた朝、お父様が、お祝いの言葉を、お書きくださったときと、よく似た、深い字だった。




馬車の中で、私は、扇を、両手で、握っていた。


椿の柄の、扇。骨の二本目が、まだ、少し、曲がったままの、扇。


前の席に、お義母様。

隣に、エルザ。


殿下は、いらっしゃらなかった。


前夜、レゼリア大使館で、最後の打ち合わせをしたとき、殿下は、ご自分から、おっしゃった。


「あなたの婚姻無効は、あなたのお仕事です」

「私が、立ち会うものでは、ありません」

「私は、終わりの鐘の音を、別の場所で、お待ちします」


その言葉を、馬車の振動の中で、もう一度、私は、思い出していた。


殿下が、いらっしゃらないことが、今は、ありがたかった。




司教座は、王都の中心の、大聖堂の、南棟にあった。


普段は、教会の高位の方々のご議事に、使われる広間。

今日は、十一席の椅子が、半円に、並べられていた。

私の席は、その中央に、用意されていた。


レゼリア大使館の法律顧問の方が、卓の隣の、補佐席に、控えてくださっていた。

レゼリア大使閣下は、傍聴席で、扇を、軽く、ご自分の膝の上に、置いておられた。


旦那様は、向かいの席に、すでに、おられた。

クラヴァットの結び目は、整っていた。

ただ、両手は、卓の縁を、握ったり、離したり、していた。




司教様が、ご着席になった。

銀の十字架を、両手で、軽く、お持ちになった。


「アヴェルニュ伯爵夫人」

「セレスティーヌ・エルメリア・アヴェルニュ夫人」

「請願書を、ご確認いたします」


司教様の前の卓に、書類の束が、三つ、並べられた。


ひとつ目、席次表、五年分。

ふたつ目、贈答記録、十年分。

みっつ目、代筆文書の控え、十年分。


司教様が、それぞれを、ゆっくりと、お開きになった。


席次表の頁は、エルザが、五年前から、ご自分の細い字で、注釈を、入れてくれていた頁だった。

贈答記録の頁には、伯爵家家計簿の、夫人決裁欄の、私の筆跡。

代筆文書の控えの頁には、王宮宛の重要書面が、十年分、すべて、私の筆跡で、写してあった。




「証人、お一人ずつ、申し述べを」


司教様が、軽く、お頭を、お下げになった。


最初に、お義母様が、お立ちになった。


「私は、当家の母として」

「十年、息子の婚姻が、白いままであったことを、承知しております」


お義母様のお声は、平らだった。

ご自分の声に、感情を、乗せておられなかった。

ただ、事実を、申し上げる、声だった。


次に、エルザが、立った。


「私は、屋敷の侍女頭として」

「十年、寝室の扉が、一度も、開かれなかったことを、見てまいりました」


エルザの目は、伏せられたままだった。


最後に、お父様が、お立ちになった。


お父様のお声が、私の方を、ご覧にならずに、続いた。


「私は、我が娘の父として、申し上げます」

「我が娘は、嫁いでから十年、妻として、扱われませんでした」

「十年、それを、知っていながら、止めなかったのは、私自身の、落ち度です」


お父様は、お座りになるときに、一度、唇を、噛まれた。




司教様が、旦那様の方に、目を、お向けになった。


「アヴェルニュ伯爵」

「ご夫人のお申し立てに、何か、お返しに、なられたいことが、おありですか」


旦那様は、しばらく、何も、おっしゃらなかった。


ようやく、口を、お開きになって、私の方を、ご覧になった。


「セレスティーヌ」


声が、低かった。


「君なら……分かってくれると、思っていた」


私は、両手を、膝の上で、組み直した。


「ええ」


一拍、置いた。


「ずっと、分かっておりました」


旦那様の口元が、ほんの少し、止まった。


「だからこそ、もう、降りるのです」




旦那様は、何かを、おっしゃろうとして、結局、何も、おっしゃらなかった。


司教様が、ゆっくりと、銀の十字架を、お持ちになり直された。


「教会法第十七条二項に基づき」

「アヴェルニュ伯爵オーリックと」

「セレスティーヌ・エルメリア・アヴェルニュ夫人の婚姻は」

「なかったものと、いたします」

「本日より、当事者は」

「セレスティーヌ・エルメリアとして、未婚に、復します」


司教様が、十字架を、卓に、お置きになった。


大聖堂の外で、鐘が、鳴った。


三回、続けて。


婚姻無効の宣告の、合図の鐘、だった。


椅子から、立ち上がるときに、長衣の裾が、わずかに、揺れた。


それだけのことだった。

十年が、終わるのは。




アヴェルニュ伯爵邸の、玄関先。


馬車から、降りた。


玄関の階段に、十名の使用人が、並んでいた。


一番前に、エルザが、立っていた。

その後ろに、女中頭、家令補佐、御者のセドリック、洗濯婦、小間使い、料理人、若い見習いの庭師。


エルザが、一歩、進み出た。


「奥様……」

エルザは、一度、言葉を、切った。

「お供を、申し出てよろしいでしょうか」


「皆さま」


私は、玄関の階段の中ほどで、立ち止まった。


「この家にも、お仕事は、ございます」

「お残りになる方は、残ってください」

「お供したい方は、私と、一緒に」


並んでいた十名のうち、四名が、頭を下げて、屋敷の中へ、戻った。


残った六名は、その場に、立ったままだった。




お義母様が、馬車の前に、ご自分で、お進みになった。


内ポケットから、折りたたんだ書面を、お出しになった。


「セレスティーヌ」

「これは、ルクシャール村の譲渡証書です」


「アヴェルニュ伯爵領、北端の、小さな村」

「私個人の、ご私領、でした」


お義母様は、その書面を、私の方へ、差し出された。


「当家から、あなた個人への、私的分与です」

「十年の貢献への、当家、最後の決定」

「お受け取りください」


私は、両手で、その書面を、お受け取りした。


紙の重さの、ほかに、もう一つ、重さが、あった。


「ありがとうございます、お義母様」


お義母様は、それ以上、何も、おっしゃらなかった。

ただ、私の頬に、一度だけ、ご自分の手を、添えてくださった。


触れる時間は、短かった。

短かったけれど、私は、それを、覚えておく、と、決めた。




馬車に、乗り込んだ。


エルザを含む六名は、二台目と三台目の馬車に、分かれて、乗った。


御者台で、セドリックが、振り返った。


セドリックは、十年、私の馬車の御者を、務めてくれていた。

今朝、自分から、お供を、申し出てくれた、一人だった。


「奥様」


セドリックが、そう呼んで、一度、止まった。


「……いえ」


「エルメリア様」


「どちらへ、参りましょうか」


私は、窓の外を、見ながら、答えた。


「実家へ、お願いします」


一度、息を、ついた。


「それから——」

「レゼリアへ」


セドリックが、頷いた。

頷きは、深かった。


馬車が、ゆっくりと、動き出した。


玄関には、お義母様が、お一人で、立っておられた。

リーシャ様は、最初から、お姿が、見えなかった。


馬車は、王都の街路を、東へ、進んだ。




同じ日の、午後遅く。


王宮、東棟、文書管理庁。


古参の役人が、アヴェルニュ伯爵閣下ご自書、と、注釈の入った封書を、机の上に、開いていた。


中身は、レゼリア宛の、定例の通商報告書、一通。


役人は、最初の頁を、読み始めて、ペンを、止めた。


「これは……」

「アヴェルニュ伯の、ご名義だが」

「これまでとは、別人の、ご筆跡だ」


役人は、赤い筆を、取った。


訂正の朱を、頁の縁に、入れていった。


一頁につき、平均、三カ所。

五頁を、読み終えた時点で、訂正は、十六カ所に、なっていた。


「代筆人、不明記」

役人は、低く、つぶやいた。

「内容にも、重大な、誤りが」

「返却処理を、お願いいたします」


隣の若い書記官が、頷いた。

封書を、返送用の籠に、入れた。


籠は、まだ、空に、近かった。

ただ、その日、その籠に、入った最初の一通が、アヴェルニュ伯爵閣下、ご名義の、文書だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ