第8話 婚姻無効
その朝、エルザが、私の髪を、結ってくれた。
普段より、少し、上に、結い上げた。
「奥様」
「本日は、束ねたほうが、宜しいかと」
エルザの声は、いつもより、少しだけ、低かった。
着るものは、二週間前に、お義母様と、一緒に、選んでおいた。
黒、ではない。
喪服に見える色は、選ばなかった。
灰青色の、簡素な、長衣。
結婚式に着た、白絹のドレスでも、ない、けれど。
普段の社交着でも、ない。
——婚姻無効の請願者として、司教座に立つ女が、着るものを、私は、知らなかった。
ただ、知らないなりに、選ぶしか、なかった。
屋敷を、出る前に、机の引き出しから、請願書の本紙を、取り出した。
署名欄には、すでに三つ、名前が、入っている。
アデール・アヴェルニュ。
エルザ・ヴァインミラー。
エルメリア侯爵、ロデリック・エルメリア。
三人目のお父様の署名は、三日前、ご実家から、書状で、届いた一通だった。
お父様のお筆跡は、私が結婚を決めた朝、お父様が、お祝いの言葉を、お書きくださったときと、よく似た、深い字だった。
馬車の中で、私は、扇を、両手で、握っていた。
椿の柄の、扇。骨の二本目が、まだ、少し、曲がったままの、扇。
前の席に、お義母様。
隣に、エルザ。
殿下は、いらっしゃらなかった。
前夜、レゼリア大使館で、最後の打ち合わせをしたとき、殿下は、ご自分から、おっしゃった。
「あなたの婚姻無効は、あなたのお仕事です」
「私が、立ち会うものでは、ありません」
「私は、終わりの鐘の音を、別の場所で、お待ちします」
その言葉を、馬車の振動の中で、もう一度、私は、思い出していた。
殿下が、いらっしゃらないことが、今は、ありがたかった。
司教座は、王都の中心の、大聖堂の、南棟にあった。
普段は、教会の高位の方々のご議事に、使われる広間。
今日は、十一席の椅子が、半円に、並べられていた。
私の席は、その中央に、用意されていた。
レゼリア大使館の法律顧問の方が、卓の隣の、補佐席に、控えてくださっていた。
レゼリア大使閣下は、傍聴席で、扇を、軽く、ご自分の膝の上に、置いておられた。
旦那様は、向かいの席に、すでに、おられた。
クラヴァットの結び目は、整っていた。
ただ、両手は、卓の縁を、握ったり、離したり、していた。
司教様が、ご着席になった。
銀の十字架を、両手で、軽く、お持ちになった。
「アヴェルニュ伯爵夫人」
「セレスティーヌ・エルメリア・アヴェルニュ夫人」
「請願書を、ご確認いたします」
司教様の前の卓に、書類の束が、三つ、並べられた。
ひとつ目、席次表、五年分。
ふたつ目、贈答記録、十年分。
みっつ目、代筆文書の控え、十年分。
司教様が、それぞれを、ゆっくりと、お開きになった。
席次表の頁は、エルザが、五年前から、ご自分の細い字で、注釈を、入れてくれていた頁だった。
贈答記録の頁には、伯爵家家計簿の、夫人決裁欄の、私の筆跡。
代筆文書の控えの頁には、王宮宛の重要書面が、十年分、すべて、私の筆跡で、写してあった。
「証人、お一人ずつ、申し述べを」
司教様が、軽く、お頭を、お下げになった。
最初に、お義母様が、お立ちになった。
「私は、当家の母として」
「十年、息子の婚姻が、白いままであったことを、承知しております」
お義母様のお声は、平らだった。
ご自分の声に、感情を、乗せておられなかった。
ただ、事実を、申し上げる、声だった。
次に、エルザが、立った。
「私は、屋敷の侍女頭として」
「十年、寝室の扉が、一度も、開かれなかったことを、見てまいりました」
エルザの目は、伏せられたままだった。
最後に、お父様が、お立ちになった。
お父様のお声が、私の方を、ご覧にならずに、続いた。
「私は、我が娘の父として、申し上げます」
「我が娘は、嫁いでから十年、妻として、扱われませんでした」
「十年、それを、知っていながら、止めなかったのは、私自身の、落ち度です」
お父様は、お座りになるときに、一度、唇を、噛まれた。
司教様が、旦那様の方に、目を、お向けになった。
「アヴェルニュ伯爵」
「ご夫人のお申し立てに、何か、お返しに、なられたいことが、おありですか」
旦那様は、しばらく、何も、おっしゃらなかった。
ようやく、口を、お開きになって、私の方を、ご覧になった。
「セレスティーヌ」
声が、低かった。
「君なら……分かってくれると、思っていた」
私は、両手を、膝の上で、組み直した。
「ええ」
一拍、置いた。
「ずっと、分かっておりました」
旦那様の口元が、ほんの少し、止まった。
「だからこそ、もう、降りるのです」
旦那様は、何かを、おっしゃろうとして、結局、何も、おっしゃらなかった。
司教様が、ゆっくりと、銀の十字架を、お持ちになり直された。
「教会法第十七条二項に基づき」
「アヴェルニュ伯爵オーリックと」
「セレスティーヌ・エルメリア・アヴェルニュ夫人の婚姻は」
「なかったものと、いたします」
「本日より、当事者は」
「セレスティーヌ・エルメリアとして、未婚に、復します」
司教様が、十字架を、卓に、お置きになった。
大聖堂の外で、鐘が、鳴った。
三回、続けて。
婚姻無効の宣告の、合図の鐘、だった。
椅子から、立ち上がるときに、長衣の裾が、わずかに、揺れた。
それだけのことだった。
十年が、終わるのは。
アヴェルニュ伯爵邸の、玄関先。
馬車から、降りた。
玄関の階段に、十名の使用人が、並んでいた。
一番前に、エルザが、立っていた。
その後ろに、女中頭、家令補佐、御者のセドリック、洗濯婦、小間使い、料理人、若い見習いの庭師。
エルザが、一歩、進み出た。
「奥様……」
エルザは、一度、言葉を、切った。
「お供を、申し出てよろしいでしょうか」
「皆さま」
私は、玄関の階段の中ほどで、立ち止まった。
「この家にも、お仕事は、ございます」
「お残りになる方は、残ってください」
「お供したい方は、私と、一緒に」
並んでいた十名のうち、四名が、頭を下げて、屋敷の中へ、戻った。
残った六名は、その場に、立ったままだった。
お義母様が、馬車の前に、ご自分で、お進みになった。
内ポケットから、折りたたんだ書面を、お出しになった。
「セレスティーヌ」
「これは、ルクシャール村の譲渡証書です」
「アヴェルニュ伯爵領、北端の、小さな村」
「私個人の、ご私領、でした」
お義母様は、その書面を、私の方へ、差し出された。
「当家から、あなた個人への、私的分与です」
「十年の貢献への、当家、最後の決定」
「お受け取りください」
私は、両手で、その書面を、お受け取りした。
紙の重さの、ほかに、もう一つ、重さが、あった。
「ありがとうございます、お義母様」
お義母様は、それ以上、何も、おっしゃらなかった。
ただ、私の頬に、一度だけ、ご自分の手を、添えてくださった。
触れる時間は、短かった。
短かったけれど、私は、それを、覚えておく、と、決めた。
馬車に、乗り込んだ。
エルザを含む六名は、二台目と三台目の馬車に、分かれて、乗った。
御者台で、セドリックが、振り返った。
セドリックは、十年、私の馬車の御者を、務めてくれていた。
今朝、自分から、お供を、申し出てくれた、一人だった。
「奥様」
セドリックが、そう呼んで、一度、止まった。
「……いえ」
「エルメリア様」
「どちらへ、参りましょうか」
私は、窓の外を、見ながら、答えた。
「実家へ、お願いします」
一度、息を、ついた。
「それから——」
「レゼリアへ」
セドリックが、頷いた。
頷きは、深かった。
馬車が、ゆっくりと、動き出した。
玄関には、お義母様が、お一人で、立っておられた。
リーシャ様は、最初から、お姿が、見えなかった。
馬車は、王都の街路を、東へ、進んだ。
同じ日の、午後遅く。
王宮、東棟、文書管理庁。
古参の役人が、アヴェルニュ伯爵閣下ご自書、と、注釈の入った封書を、机の上に、開いていた。
中身は、レゼリア宛の、定例の通商報告書、一通。
役人は、最初の頁を、読み始めて、ペンを、止めた。
「これは……」
「アヴェルニュ伯の、ご名義だが」
「これまでとは、別人の、ご筆跡だ」
役人は、赤い筆を、取った。
訂正の朱を、頁の縁に、入れていった。
一頁につき、平均、三カ所。
五頁を、読み終えた時点で、訂正は、十六カ所に、なっていた。
「代筆人、不明記」
役人は、低く、つぶやいた。
「内容にも、重大な、誤りが」
「返却処理を、お願いいたします」
隣の若い書記官が、頷いた。
封書を、返送用の籠に、入れた。
籠は、まだ、空に、近かった。
ただ、その日、その籠に、入った最初の一通が、アヴェルニュ伯爵閣下、ご名義の、文書だった。




