表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚十年、婚姻無効を申し立てます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/10

第7話 庭園で

その前夜のことだった。


夕食のあと、私は、屋敷の三階の物置から、春茶会用の披肩を、取り出していた。


絹の、若草色の、長い披肩。

嫁ぐ前の年に、母が、私のために、仕立ててくれた一枚だった。

十年、ほとんど、出していなかった。

明日の春茶会では、王太子妃殿下のお席の、二つ隣に、私の席が、用意されているという話だった。


階段を、降りかけたところで。

廊下の角の、二人の影に、気づいた。




旦那様と、リーシャ様だった。


リーシャ様は、いつものように、旦那様の腕に、白い指を、添えようとしていた。


ただ、その指が、いつもの位置に、辿り着く、前に。


旦那様が、初めて、その手を、見ておられた。


「リーシャ」


旦那様のお声が、低かった。

昨日まで、リーシャ様に向けておられた声とは、別の、低さだった。


「お前、なぜ、俺の腕を、取るんだ」


リーシャ様の指が、宙で、止まった。


「だって、ずっと……兄さまは、私を……」


その先が、続かなかった。


私は、階段の半ばで、披肩を、抱え直して、もう一段、後ろに、下がった。

二人は、気づかなかった。


披肩の絹の縁が、ほんの少しだけ、私の指の力で、しわを、寄せた。




翌日、王宮春茶会。


王太子妃殿下、ご主催の、春の最初の茶会。

エルディアの主だった貴婦人と、レゼリア使節団のご一行が、ご参加。


会場は、王宮の南庭、温室の隣の、屋根のある中庭だった。

ガラス越しの陽が、敷石の上に、薄く、降りていた。


私の席は、主賓席だった。


王太子妃殿下の、二つ隣。

ご自分の手で、その席を、私のために、お決めくださっていた。




旦那様は、それでも、お見えになった。


リーシャ様を、伴って。


会場の入口で、案内係が、招待状を、確認した。

そのあと、リーシャ様の方を、見て、しばらく、目線を、伏せた。


王太子妃殿下は、ご自分の杯を、卓に、置かれた。


何もおっしゃらずに、ご自分のお隣で、扇を、お止めになっていた、マロワ公爵夫人の方を、ご覧になった。


マロワ公爵夫人が、ご自分から、お立ちになった。


「殿下」

「よろしければ、席次表に、一筆、入れさせていただきたく、存じます」


王太子妃殿下が、扇を、軽く、お振りになった。


マロワ公爵夫人は、卓の上の、席次表の控えを、引き寄せられた。

ご自分のペンを、取られた。


席次表の上に、新しい筆跡が、加わった。


「アヴェルニュ夫人を、本日の主賓席へ」

「マイラ・コルマール嬢は、男爵令嬢席へ」


会場の音が、半拍、止まった。


リーシャ様の頬から、首までが、一瞬で、赤くなった。

旦那様は、立ったまま、ほんの数秒、お動きにならなかった。


王太子妃殿下は、それ以上、何も、おっしゃらなかった。

マロワ公爵夫人も、何も、おっしゃらなかった。


ただ、ペンを、卓に、戻されたのは、マロワ公爵夫人の手だった。




茶会が、半ばを、過ぎた頃のことだった。


主賓席は、思っていた以上に、忙しい席だった。


各国の大使夫人、王太子妃殿下、エルディアの主だった貴婦人の方々が、次々に、私に、お言葉をかけてくださった。


一人ひとり、丁寧に、お返事をするうちに、扇を握る手が、いつもより、少しだけ、固くなっていた。


何度目かに、扇を、開いた瞬間。


骨の角度が、ほんの少しだけ、ずれた。

椿の柄の、春用の扇。

ずれたのは、骨の、二本目だった。


私は、それを、悟られないように、片手で、押さえ直した。

押さえ直しながら、息を、一度、長く、吐いた。


三つ離れた卓で、紅茶のカップが、卓に、戻る音が、ひとつだけ、聞こえた。


その音を、立てたのは、ルシアン殿下だった。




殿下が、ご自分の席から、立ち上がられた。


主賓席の方へ、まっすぐ、お進みになった。

歩幅は、急がなかった。

ただ、迷われなかった。


「アヴェルニュ夫人」


殿下のお声は、私の卓の前で、止まった。


「レゼリア式の作法で、夜の庭園で、星を、見るのが、流行っております」


「少し、お付き合いいただけますか」


王太子妃殿下が、扇を、軽く、お振りになった。


「どうぞ、ごゆっくり、見ていらっしゃい」


私は、扇を、両手で、握ったまま、席から、立った。


旦那様の方は、見なかった。




王宮の南の、奥の庭園。


春の最初の薔薇は、まだ、蕾だった。

噴水は、水を、止めていた。


——春の最初の薔薇が、咲くまで、この噴水は、動かさない。


いつだったか、私が嫁ぐ前の春、王宮のお茶会で、案内係の老いた女官が、若い令嬢たちに、そう、教えていた話を、ふと、思い出した。


殿下は、無言で、歩かれた。

私も、無言で、ついて、歩いた。


噴水の前で、殿下が、立ち止まられた。


石の鉢の縁が、月明かりで、白く、見えていた。




「アヴェルニュ夫人」


殿下のお声は、低かった。

昼の応接間より、もう少し、低かった。


「あなたが、お疲れでいらっしゃることは、私が、見ていれば、分かります」


私は、扇を、ゆっくりと、閉じた。

閉じた扇を、両手で、握った。


何かを、お答えしようとした。

答えが、出てこなかった。


代わりに、頬を、何かが、伝った。


涙だった。


声は、立てなかった。

立てる気にも、ならなかった。


ただ、頬を、伝った。

もう一筋、伝った。




殿下は、私の方へ、一歩も、お進みにならなかった。


手も、お伸ばしにならなかった。


ただ、噴水の前で、私と、少しだけ、距離を、置いたまま、立っておられた。


私の涙が、止まるのを、待っておられた。


触れて、こられなかった。

ただ、立って、いてくださった。


それで、私は、息を、することが、できた。




やがて、涙が、止まった。


ハンカチを、頬に、押さえた。


「ご無礼を、お許しください、殿下」


「ご無礼では、ございません」


殿下は、一拍、置かれた。


「夫人」

「もし、よろしければ」


ことばが、わずかに、つまった。

殿下も、少しだけ、緊張しておられるのが、その間で、分かった。


「婚姻無効請願のお手続きで、私どもの大使館に、法律顧問が、おります」

「彼を、お手伝いに、お貸しさせていただけますか」


殿下は、続けられた。


「あなたの婚姻無効は、あなたのお仕事です」

「ただ、書類仕事のほうは、私どもの大使館の、法律顧問に、お任せいただければ、と」


私は、ハンカチを、握った手のひらの中で、もう一度、握り直した。


「ありがたく、お願い、申し上げます」




噴水の石を、月の影が、ゆっくりと、横切っていった。


「殿下」


私は、扇を、もう一度、握り直した。


「殿下が、私のために、お席を、ご用意くださっていることを」

「お義母様から、伺いました」


殿下は、一度、息を、ついた。


「アヴェルニュ夫人」

「あなたが、お選びになる場所が、レゼリアでなくとも、よいのです」

「ただ、あなたを、正しく、扱う場所で、あってほしい」

「それが、私の、唯一の願いでございます」


私は、噴水の方を、見た。

水の止まった石の鉢の縁が、月明かりで、白く、見えた。


「殿下」


「私は、レゼリアを、選びます」

「殿下が、見てくださっていた場所、ですから」




殿下は、何も、お答えにならなかった。


ただ、一度、ゆっくりと、頭を、下げられた。


その下げ方は、レゼリア式とエルディア式の、ちょうど、中間だった。

初めて、お会いした朝と、同じ、角度だった。


噴水の向こうで、温室のガラスが、月の光を、薄く、跳ね返していた。


私の手の中の扇は、骨の二本目が、まだ、少し、曲がったままだった。


そのまま、寝ても、起きても、たぶん、もう、直らない。


直さなくて、よかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ