第6話 母と妻と乳姉妹
翌朝、私は、清書を終えた請願書を、書き物机の引き出しに、しまった。
鍵を、かけた。
鍵は、首にかけた細い鎖に、通した。
朝食には、降りなかった。
顔を、整える気には、ならなかったし、整わないままで、降りていく気にも、ならなかった。
ただ、部屋の窓を、少し、開けた。
冬と春の中間の、冷たい空気が、寝室の方へ、流れてきた。
階下で、お義母様の靴音が、書斎の方へ、向かっていくのが、聞こえた。
お義母様が、ご自分から、旦那様の書斎を、訪ねていらっしゃることは、滅多に、ない。
その朝のお義母様の手には、紙の角が、二束、抱えられているのが、廊下の半開きの戸の前を通り過ぎる一瞬で、見えた。
エルザが、午前のうちに、私の部屋へ、紅茶を、運んでくれた。
エルザの足音は、いつもより、ほんの少しだけ、軽かった。
何かを、知っていらっしゃる、足音だった。
「奥様」
「大奥様は、書斎で、旦那様と」
エルザは、それ以上は、何も、おっしゃらなかった。
ただ、紅茶を、温めなおして、すぐに、出ていかれた。
同じ朝、アヴェルニュ伯爵の書斎で。
卓の上に、二冊の写本が、並べて、置かれていた。
一冊は、エルディア教会法。
一冊は、エルディア王国文書法。
どちらも、紙の縁が、少しずつ、磨り減っていた。
お義母様が、長く、ご自分でお持ちだった写本だ、と、後で、分かることになる。
お義母様は、息子の正面の椅子に、腰を、下ろされた。
息子の書斎で、椅子に、座られたのは、ご主人様が亡くなられて以来、十年で、初めてのことだった。
「オーリック」
お義母様は、最初の写本の、開いた頁に、指先を、添えられた。
「教会法、第十七条二項」
「三年以上の白い結婚は、夫人側からの、婚姻無効請願が、認められます」
「お前は、十年、それを、妻に与えてきました」
旦那様は、答えなかった。
お義母様は、もう一冊の写本へ、指を、移された。
「文書法、第八条」
「代筆人を明記せず、貴族の名で公文書を提出した場合、文書法違反に、問われます」
「お前は、十年、妻の名を、文書から、消し続けてきました」
旦那様の手が、ようやく、卓の縁に、置かれた。
何かを、握ろうとして、握る物が、見つからない、置き方だった。
「母上、リーシャは、家族で……」
お義母様の手は、卓の写本の上から、動かなかった。
「リーシャは、家族では、ありません」
一度、息を、お整えになった。
「お前が、家族同然、と、呼んだ娘です」
「妻と、混同しては、いけませんでした」
その「いけませんでした」を、お義母様は、息子に向けて、というよりも、ご自分のほうへ、向けて、おっしゃった。
「だが、リーシャの咳が……」
「咳がある令嬢を、屋敷に、引き取った」
「これは、慈悲です」
「夜会のエスコートを、譲った」
「屋敷の女主人席に、座らせた」
「夫人の名義で、贈り物を、彼女に、贈った」
お義母様は、ひとつずつ、指を、卓の上で、立てていかれた。
「これは、慈悲では、ありません」
「これは、妻の領分を、奪うこと、です」
「社交界は、この線を、見ております」
「お前だけが、見ていませんでした」
お義母様は、しばらく、何も、おっしゃらなかった。
その沈黙の中で、ご自分の手元の写本に、目を、落とされた。
——私は、息子を、信じておりました。
あの子は、誠実な性質ですから、いつか、妻の存在に、気づくと。
そう信じて、待っておりました。
十年、たっても、気がつきませんでした。
私が、信じていたのは、息子では、ありませんでした。
私自身の、楽な、解釈でございました。
——そう、私は、待っていたふりを、していた。
十年、私は、何もしないことを「待つこと」と呼んで、自分を、慰めて、おりました。
それも、今日で、終わりに、いたします。
「オーリック」
お義母様は、ようやく、息子の方へ、視線を、戻された。
「ひとつだけ、訊きたいことが、あります」
「先月の、新年夜会」
「リーシャが、セレスティーヌの席に、座ったとき」
「お前は、何を、感じましたか」
旦那様は、口を、開きかけて、止めた。
もう一度、開きかけて、止めた。
答えが、出てこなかった。
出てこない、ということは、答えだった。
「お前は、何も……感じませんでしたね」
お義母様は、椅子から、立ち上がられた。
「それが」
しばらく、お義母様は、その先を、おっしゃらなかった。
ご自分でも、最後まで、おっしゃるのに、迷っておられた。
「それが、お前の、罪、です」
夜。
お義母様が、私の部屋を、訪ねていらっしゃった。
お義母様は、扉を入られて、まず、私の机の、引き出しの鍵の方を、ご覧になった。
「セレスティーヌ」
「清書は、終わりましたか」
私は、首の鎖から、鍵を、外した。
引き出しから、請願書を、取り出した。
お義母様は、それを、両手で、受け取られた。
最後まで、お読みになった。
それから、署名欄を、ご覧になった。
「請願者には、お前の名」
「証人欄は、まだ、空いております」
お義母様は、ご自分の万年筆を、内ポケットから、お出しになった。
「セレスティーヌ」
お義母様の声は、低かった。
「証人として、私が、立ちます」
「これは、当家の女主人としての、最後の仕事です」
万年筆の先が、署名欄に、触れた。
お名前は、二段に分けて、書かれた。
アデール・アヴェルニュ。
先代アヴェルニュ伯爵未亡人。
筆跡は、震えていなかった。
ただ、書き終えたあと、ご自分の指の先を、ほんの少しだけ、見つめておられた。
扉が、控えめに、叩かれた。
エルザだった。
「失礼いたします、奥様」
「もし、よろしければ」
それだけ、おっしゃって、エルザは、お義母様の隣に、立った。
私は、エルザに、万年筆を、渡した。
エルザは、署名欄の、二段目に、ご自分の名前を、書かれた。
エルザ・ヴァインミラー。
当家、侍女頭。
書き終わったあと、エルザは、一度だけ、軽く、礼をされた。
そして、何も、おっしゃらずに、廊下へ、戻られた。
三人目の証人は、明日、エルメリア侯爵家へ、書状で、お願いすることになる。
同じ夜、レゼリア大使館、ルシアンの執務室。
王太子妃殿下のご名義での、非公式の便箋が、机の上に、置かれていた。
公式書面では、なかった。
私的な、ご連絡として、届けられた、一通。
文面は、簡潔だった。
「もし、レゼリアに、アヴェルニュ夫人の席が、おありなら」
「私は、彼女の背中を、押したく、存じます」
ルシアンは、その手紙を、二度、読んだ。
それから、便箋を、たたんで、内ポケットに、入れた。
馬車を、ご自分の私邸の方へ、戻させた。
私邸の書斎の、抽斗の一段目。
五年前の議事録は、革表紙のまま、そこに、置いてある。
ルシアンは、それを、開いた。
中ほどのページに、薄い、茶色のリボンが、挟まれていた。
ご自分の指の腹で、そのリボンの端を、なぞった。
——席は、五年前から、空けてあります。
蝋燭の芯が、一度だけ、揺れた。
議事録を、閉じる。
茶色いリボンは、また、そのページに、挟まれたままで、抽斗の一段目に、戻された。




