第5話 エスコート
春の夜会の、その日の朝のことだった。
私は寝室で、夜会用の扇を、絹の箱から、取り出していた。
椿の柄。
嫁ぐ前に、母が、私に持たせてくれた、春用の一本だった。
新年に使っていた、骨の曲がった扇は、ハンカチに包んだまま、机の端に、置きっぱなしになっていた。
旦那様が、寝室の扉を、軽く、叩かれた。
旦那様が、ご自分から、私の部屋を訪ねていらっしゃることは、もう、ずいぶん、なかった。
「セレスティーヌ」
扉から、半分だけ、お顔を出された。
中には、入ってこられなかった。
「リーシャを、今夜の夜会に、連れていきたい」
私の手の中で、椿の扇が、ほんの少しだけ、傾いた。
「彼女、王宮を、一度も、見たことがないんだ」
「君は、今夜は、休んでいい」
私は、扇の絹の箱の蓋を、ゆっくりと、閉じた。
「……ええ、どうぞ」
旦那様は、何かを、おっしゃろうとして、結局、おっしゃらなかった。
扉が、静かに、閉じた。
椿の扇を、絹の箱に、戻した。
その上から、骨の曲がった扇のハンカチ包みを、重ねて、置いた。
夕方になっても、私は、化粧台には、向かわなかった。
鏡の中の自分が、こんな日に、何の顔をすればよいのか、分からなかった。
夕食を運んでくれたエルザは、何も、訊かなかった。
ただ、いつもより、薪を、一本、多く、炉に、入れていった。
その夜、王宮春の夜会は、いつもの時刻に、始まった。
私は、その場には、いなかった。
王宮、東の大広間。
エルディア王太子妃殿下、ご主催。
春の夜会と、レゼリア使節団歓送の宴を兼ねた、合同の宴席。
ルシアンは、入口で礼を受けたあと、会場をひととおり、見渡した。
レゼリア大使夫妻、書記官、護衛役、そして、エルディアの主要な貴族たちが、それぞれの卓に、ついていた。
三列目、入口から数えて三番目の、円卓。
アヴェルニュ伯爵閣下は、いた。
その隣にいたのは、別の、若い令嬢だった。
ルシアンは、視線を、すぐには、戻さなかった。
その視線に、王太子妃殿下が、最初に、気づかれた。
殿下は、扇を片手に、ご自分から、アヴェルニュ伯爵の卓へ、お進みになった。
「アヴェルニュ伯爵閣下」
伯爵が、慌てて、立ち上がった。
「ご夫人は、本日、ご欠席ですか」
「ええ、殿下。家のことで」
殿下のお眉が、ほんの一瞬だけ、上がった。
すぐに、もとに、戻った。
「そう」
殿下は、それ以上、お訊きにならなかった。
扇を、軽く、ご自分の頬の前で、止められた。
止められたまま、しばらく、何も、おっしゃらなかった。
ルシアンの隣で、大使夫人が、扇の陰から、小さく、囁いた。
「閣下」
「アヴェルニュ夫人は、ご欠席だそうでございます」
「家庭のご事情で、と」
ルシアンの顔から、その夜の温度が、消えた。
グラスを持つ指の力が、ほんの少しだけ、増した。
その変化に気づいたのは、隣の、大使夫人だけだった。
ルシアンは、グラスを、卓に、戻した。
戻し方が、最初の一度より、わずかに、低く、硬かった。
「……そうですか」
それだけ、低く、答えた。
それから、しばらく、ご自分の手元の杯を、見ておられた。
一刻ほどあとのこと。
控えの間で、王太子妃殿下と、レゼリア大使閣下が、二人だけで、立っておられた。
殿下の扇は、閉じていた。
大使閣下の杯は、空だった。
「もし、レゼリアに、アヴェルニュ夫人の席が、おありなら」
殿下は、扇を、卓の縁に、軽く、置かれた。
「私としては、その背中を、ほんの少し、押させていただきたく、存じます」
大使閣下は、すぐには、お答えにならなかった。
ご自分の杯を、手の中で、一度、回された。
「席は、随分、前から、空けてございます」
殿下が、軽く、息を、吐かれた。
「ならば、両国の話として、まとめて参りましょう」
大使閣下が、頭を、深く、下げられた。
控えの間の扉の向こうから、楽団の音が、薄く、漏れてきていた。
翌朝。
朝の十時、玄関に、正式書面が、届いた。
紋章は、レゼリア王国外務省。
蝋印は、二重。
受け取ったのは、家令のフリッツだった。
フリッツは、その書面を、最初に、旦那様の書斎へ、運んだ。
当家宛の正式書面は、十年、その順で、扱われてきた。
書斎で、旦那様は、その書面を、半時、開かれずに、卓の上に、置いておられた。
開いたあと、もう半時、お返事を、書き始めることが、おできに、ならなかった。
書面を読んだフリッツが、私のもとへ、足音だけで、知らせに来た。
私は、書斎の扉を、自分で、叩いた。
嫁いでから十年で、私の方から、書斎の扉を叩いたのは、これが、二度目だった。
一度目は、嫁いだ最初の朝、形式上の、ご挨拶でだった。
「セレスティーヌ」
旦那様は、卓の前に、座っておられた。
書面は、卓の上に、開かれて、置かれていた。
旦那様の手は、書面のそばで、止まったまま、何も、握っていなかった。
「これは、何かの、間違いではないか」
「外交補佐の件で、夫人に、直接、と」
私は、卓の縁に、片手を、置いた。
もう片方の手で、書面を、ゆっくりと、引き寄せた。
旦那様の指は、それを、引き止めなかった。
引き止められなかった、と言うほうが、近かった。
「旦那様」
「これは、私への書面でございます」
「私が、応対いたします」
私が、と。
自分の声で、自分が、そう言ったのは、十年で、初めてだった。
旦那様は、何かを、おっしゃろうとして、結局、おっしゃらなかった。
私は、書面を、両手で抱えて、書斎を、出た。
その夜。
寝室の書き物机に、新しい便箋を、一束、用意した。
引き出しから、書きかけの便箋を、取り出した。
インクは、もう、すっかり、乾いていた。
「アヴェルニュ伯爵オーリック殿」
そこまでを、私は、まず、読み直した。
それから、その紙を、折りたたんだ。
ひとつ、二つ、四つ、八つに、畳んだ。
炉に、入れた。
紙は、すぐに、灰になった。
下書きは、もう、要らなかった。
新しい便箋に、ペンを、つけた。
今度は、迷わなかった。
「アヴェルニュ伯爵オーリック殿」
「教会法第十七条二項に基づき、婚姻無効の請願を、申し立てます」
ペンを、止めずに、続けた。
「私は、貴殿のお屋敷で、十年、家令と妻の役を、兼ねて参りました」
「家令の働きは、ご評価いただけたかと、存じます」
「妻の役を、賜ることは、ございませんでした」
ペンを、一度、止める。
ここまでで、十年が、終わる。
「分かっていたからこそ、もう、降りるのです」
書き終えたあと、その言葉が、自分の声で、もう一度、立ち上がってきた。
ペンを、置いた。
蝋燭の芯が、一度だけ、大きく、揺れた。




