第4話 五年前の方
朝になって、机の引き出しを、開けた。
昨夜伏せて入れた便箋は、すでに、インクが、乾いていた。
アヴェルニュ伯爵オーリック殿。
教会法第十七条二項に基づき――。
そこまでで、止まっている。
私はその便箋を、もう一度、伏せて、引き出しに、戻した。
鏡台に向かい、髪を、結う。
扇は、もう一本、新しいものを、取り出した。
昨日まで使っていた、骨の一本が曲がったものは、ハンカチに包んで、机の端に、置いた。
捨てる気には、ならなかった。
朝の九時、応接間の準備を、私が直接、見て回った。
薪は、香気の薄い、灰の少ない種類を選んだ。
客人の衣服に、煤が移らないように。
紅茶は、レゼリア式の濃さで淹れる手順を、厨房に、再度、確認させた。
菓子は、塩気のある焼き菓子と、甘い砂糖菓子を、半々で。
家令のフリッツが、いつものように、卓上の銀器の角度を、最後に整えていた。
「奥様」
声を、少し、抑えていた。
私の方は、見ずに、卓の縁を、指先で揃え直していた。
「旦那様は」
「書斎で、お休みだそうでございます」
私は、頷いた。
リーシャ様の咳は、屋敷の奥から、薄く、聞こえている。
今日に限って、その咳は、いつもより少しだけ、調子よく聞こえた。
そう思った自分を、私は、注意した。
「夫人として、私が応対します」
そう言った私を、フリッツは、半分だけ振り返って、見た。
「畏まりました、夫人」
「夫人」と、フリッツが私に向かって呼んだのは、今朝、初めてだった。
昨日のお義母様のご宣言が、まだ、屋敷の空気の中に、ほんのり、残っていた。
十時の鐘とともに、玄関で、馬車の止まる音がした。
案内されてきたのは、四人だった。
先頭の方が、レゼリア王国王弟、ルシアン・ド・ロアール殿下。
第二位、レゼリア大使閣下。
あとの二人は、書記官と、護衛役。
殿下は、手袋を外しながら、ご挨拶になった。
外し方が、急がない。
一本一本、白絹の指先を、ゆっくりと、抜く。
それから、わずかに、頭を下げられた。
頭の下げ方が、レゼリア式とエルディア式の、ちょうど、中間だった。
「アヴェルニュ伯爵夫人」
低い声だった。
高くも、深すぎもしない。
ただ、一度聞いたら、忘れにくい類の、低さだった。
形式どおりの紹介と、形式どおりの茶が、卓に運ばれた。
殿下は、紅茶のカップに、すぐには、手を触れなかった。
じっと、湯気を、見ておられた。
私は、向かいの席で、扇を、膝に置いた。
新しい扇は、骨の角度が、まだ、少し、固かった。
「アヴェルニュ夫人」
殿下が、もう一度、私を、呼ばれた。
二度目の声は、最初より、ほんの少しだけ、低かった。
「五年前の、エルディア・レゼリア国境会議で、私は、あなたに、救われました」
応接間の中で、二つ、音が、消えた。
ひとつは、フリッツの注ぎ手が、紅茶の壺を、卓の縁で、一瞬、止めた音。
もうひとつは、レゼリア大使閣下が、ご自分の主君の方へ動かしかけた視線を、途中で、止めた音。
「殿下」
私の声が、自分でも、思っていたよりも、半拍、遅れた。
「あの会議のことは、もう、ずいぶん、前のことでございますが」
「五年前は、私にとっては、まだ、昨日でございます」
殿下は、ようやく、カップに、指を伸ばされた。
持ち上げる手に、迷いが、なかった。
「あの夜、急に席次が変わりました。二十名の卓を、扇一本で組み直された方が、おられました」
殿下の目が、卓の上の、私の扇に、一度、留まった。
「そして、その方は、当時、アヴェルニュ伯爵閣下、ご自身では、ありませんでした」
廊下で、慌てた靴音がした。
一拍遅れて、応接間の扉が、半分、開いた。
旦那様が、立っておられた。
クラヴァットの結び目が、いつもより、一段、緩かった。
「殿下、誠に、申し訳ない。私が、その、急な体調で……」
殿下は、立ち上がりは、なさらなかった。
礼を、半分だけ、返された。
それは、招かれざる訪問への礼ではなく、招かれざる遅刻への、礼だった。
旦那様は、何度か、口を開き、結局、空いていた長椅子の端に、腰を、下ろされた。
腰を下ろすときに、上着の裾を、整えそびれた。
「アヴェルニュ伯爵閣下」
殿下は、初めて、旦那様の方に、お声をかけられた。
「ご夫人と、五年前の借りを、お返しするお話を、しておりました」
旦那様が、私を、見た。
私と、五年前の、借り。
言葉が、旦那様の中で、繋がらないことが、向かい側の席からも、分かった。
「閣下、よろしければ、応接室の隣で、別件の段取りを」
レゼリア大使閣下が、立ち上がられた。
フリッツが、迷わずに、続いた。
大使は、旦那様の方も、見た。
「アヴェルニュ伯爵閣下にも、ご同席いただければ、誠に、幸甚でございます」
旦那様は、何かを言いかけて、結局、立ち上がられた。
礼の角度を、ご自分でも、決めかねている顔だった。
三人の足音が、隣室の扉の向こうに、消えた。
応接間に、私と、殿下、二人だけが、残った。
扉の閉まる音のあと、紅茶の壺が、ようやく、卓の上に、静かに、置かれた音が、した。
私は、扇を、膝の上に置いたまま、両手で、抱えた。
「殿下」
声が、自分でも、思っていたよりも、小さかった。
「あの会議のことを、本当に、覚えていらしたのですか」
殿下は、すぐには、お答えにならなかった。
カップを、卓に、戻された。
戻し方が、音を、立てなかった。
「アヴェルニュ夫人」
殿下は、視線を、逸らさなかった。
「あの夜、誰が場を整えていたか、私は、今でも、覚えております」
私は、何かを、お答えするべきだった。
けれど、何を、お答えするべきか、分からなかった。
殿下も、その先を、急いでは、おっしゃらなかった。
ただ、視線を、逸らさずに、私を、見ておられた。
五年間、誰にも、見られていないと思っていた仕事を、私は、確かに、誰かに、見られていた。
その事実だけを、私は、紅茶の湯気の向こうで、ゆっくりと、受け取った。
扇を抱えている指の、力が、ほんの少しだけ、緩んだ。
やがて、扉が、再び、開いた。
三人が、戻ってきた。
レゼリア大使閣下の手には、新しい書類の束が、加わっていた。
殿下は、立ち上がられた。
帰り際の礼を整えるのに、殿下は、もう一度、手袋を、ゆっくりと、はめ直された。
一本一本、急がずに。
そして、旦那様の方ではなく、私の方に、向かって、お話しになった。
「では、また、明日」
「外交補佐の件で、夫人に、お話を、伺いに参ります」
旦那様が、私を、見た。
「夫人」と「外交補佐」という二つの言葉が、どう繋がるのか、まだ、お分かりにならない顔だった。
殿下は、最後に、もう一度、軽く頭を下げられて、応接間を、出ていかれた。
玄関で、馬車の扉が、閉じる音がした。
旦那様は、応接間の入口に、まだ、立っておられた。
「セレスティーヌ」
声が、低かった。
怒っているのではなかった。
何を、怒ればよいのかが、分かっていない、声だった。
「あの方は、いったい、何の話を」
私は、首を、一つ、振った。
私自身、その話の、全体の形は、まだ、分かっていなかった。
ただ、ひとつだけ、分かっていた。
五年前の、私の徹夜は、誰にも、見られなかったわけでは、なかった。
引き出しの、書きかけの便箋の続きは。
もう、夜を待たずに、書くことが、できる気が、した。




