第3話 奥様と姉様
冬祭りの朝、屋敷の前庭で、月桂樹の枝を切る音がしていた。
庭師頭の年老いた声が、若い見習いに、剪定の角度を指示している。
私は二階の自室の窓辺で、その音を聞きながら、新年の招待状の返書を整えていた。
返書は、十二通あった。
そのうち、夫婦連名で出すものは、二通だけだった。
残りの十通は、王太子妃殿下が、私の名前一つで出してよいと、夜会の翌朝、わざわざ便箋で知らせてくださっていた。
「奥様、本年もよろしくお願いいたします」
正面玄関のほうから、若い男の声が、跳ねるように聞こえた。
二週間前に雇い入れた、新しい見習いの庭師だった。
名前は、まだ、覚えていない。
私は窓を覗いた。
玄関先で、若い庭師が、深く礼をしていた。
その正面に、リーシャ様が立っていた。
裾の長い、新しい外套を羽織っていた。
リーシャ様は、にこやかに頷き、片手で、軽くその挨拶を、受けた。
玄関の階段の上に、お義母様が立っておられた。
月桂樹を一枝、手に握ったままで。
その指が、白くなるほど、強く握り込まれていた。
一時間後、エルザが、私の部屋の扉を叩いた。
「奥様、大奥様より、大広間へ、と」
エルザの声は、いつもより、ほんの少し、低かった。
「お義母様が?」
「皆を、と。屋敷で働く者は、全員、と」
私は、ペンを置いた。
返書の三通目は、書きかけのままで、まだ、インクが、乾いていなかった。
大広間には、屋敷で働く者が、立っていた。
厨房の女中から、馬丁、洗濯婦、若い庭師の見習いまで。
私が顔を知っている者も、まだ名前と顔が結びついていない者も。
全員、いた。
階段の踊り場に、お義母様が立っておられた。
旦那様は、領地の冬祭りの陳情を聞きに、街道沿いの村まで出ておられて、屋敷にはおられない。
リーシャ様は、私の少し前、第一列の端のほうに、所在なげに立っていた。
不思議そうな顔をしていた。
お義母様の声は、低く、しかし、奥まで届いた。
「皆、聞きなさい」
ひとつだけ、皆の呼吸が、揃って止まった気がした。
「この家の女主人は、セレスティーヌ・アヴェルニュ伯爵夫人です」
風が、廊下の奥で、扉を一度、軽く鳴らした。
「マイラ様は、当家のお預かりの令嬢です。今後、お二人を、混同して呼ぶことは、許しません」
リーシャ様の肩が、揺れた。
それから、止まった。
お義母様は、若い庭師の方を、見なかった。
庭師の方も、お義母様の方を、見なかった。
ただ、そこにいる二十数名の使用人が、皆、息を半分だけ吐いて、もう半分を、まだ、吸い込んでいた。
「以上です」
短い宣言だった。
お義母様は、月桂樹の枝を、まだ、手に持ったままだった。
解散したあと、廊下の角で、リーシャ様が、私を呼び止めた。
「姉様」
私は振り返った。
「あの、私……」
その先が、続かなかった。
リーシャ様は、口を開けかけて、結局、閉じた。
それから、もう一度、開けかけて、もう一度、閉じた。
「またあとで、お話ししましょうね」
私はそう言って、軽く頭を下げ、自室への階段を、上った。
階段を上りながら、私は気がついた。
リーシャ様が、私を「姉様」と呼んだのは、たぶん、十年で、初めてだった。
そしてその呼び方は、もう、私の中で、痛くは、なかった。
夜、お義母様が、私の部屋を訪ねてこられた。
火の入った炉の前に、二人で腰を下ろした。
お義母様は、湯気の立つ茶を、半分ほど飲んでから、ようやく、口を開かれた。
「セレスティーヌ」
そう呼ばれたのは、十年で、もしかしたら、四度目か、五度目だった。
普段は、皆と同じく、「アヴェルニュ夫人」と。
「私は、十年、あなたに頼り続けてきました」
カップを、お義母様は、両手で持っておられた。
「もう、あなたは、十分、やりました」
私は何か答えようとして、答えが、見つからなかった。
その代わり、扇を、膝に置いた。
新年に新しく仕立てた、骨の一本が曲がったままの、あの扇だった。
それを、置いた。
扉が、控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
エルザだった。
両手に、布で包んだ重い帳面を、抱えていた。
「奥様」
エルザは、その帳面を、私の前の小卓に置いた。
布を、ゆっくりとほどく。
革表紙の、分厚い帳面が、三冊あった。
表紙には、何も書かれていない。
私は、上の一冊を、開いた。
席次表だった。
五年前の春、王宮春の夜会の席次表。
夫の隣には、私の名。
そして、その隣には、マイラ・コルマール、と、後から書き加えられた、別の筆跡。
次のページも、夜会だった。
私の隣の席に、別の名前。
その次のページも。
その次も。
五年分の春・秋・新年の夜会の席次表が、年代順に、揃っていた。
それぞれの表に、エルザの細い字で、ささやかな注釈が、添えられていた。
「席次変更の理由、明記なし」
「贈答記録、夫人名義のままお預かり令嬢に贈与」
「アヴェルニュ伯名義の文書、奥様の筆跡。代筆人記載なし」
私は、顔を上げた。
「エルザ」
声が、少し、震えた。
「これは、いつから」
エルザは、両手をきちんと前で組んで、立ったままだった。
「五年前の、国境会議の翌朝でございます」
その朝のことを、私は、覚えている。
旦那様が高熱を出し、急遽、私が国境会議の場に向かい、徹夜で席次の調整と通訳をした。
明け方、馬車で屋敷に戻った。
玄関で、私を迎えたのは、エルザだった。
「あの朝、玄関でお迎えしたときの奥様のお顔を見て、私は、決めました」
エルザは、目を伏せたまま、低く、続けた。
「いつか、奥様が、これを必要となさる日が、来ると」
お義母様が、両手のカップを、そっと、卓に置かれた。
何かをおっしゃろうとして、お義母様は、結局、何も、おっしゃらなかった。
二人が、私の部屋を出ていったあと。
私は、書き物机の前に、座った。
新しい便箋を、一枚、引き寄せる。
ペンに、インクをつける。
紙の右上に、日付を入れる。
左の余白に、宛先を書く。
アヴェルニュ伯爵オーリック殿。
そこまで書いて、ペンが、一度、止まった。
止まったけれど、置かなかった。
教会法第十七条二項に基づき、婚姻無効の請願を申し立てます――
書き終わらなかった。
書き終わらないまま、私は、ペンを、止めた。
窓の外を、見た。
薄い雪の匂いがした。
そのとき、遠くで、王宮の鐘が、鳴った。
夜半に、こんな時刻に鐘が鳴るのは、ひとつだけだった。
他国の使節団が、王都に入ったときの合図。
数日のうちに、レゼリア王国の使節団が、登城する。
書きかけの便箋を、私は、折りたたまずに、机の引き出しに、伏せて入れた。
インクが、まだ、乾いていなかった。




