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白い結婚十年、婚姻無効を申し立てます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 隣席の主

「リーシャも連れていきたいんだ」


支度を終えて、扇の骨を確かめていた手が、止まった。

玄関先には、もう馬車が二台、白い湯気を立てている。


「彼女、王宮を、一度も見たことがないんだ」


旦那様の声は、こちらを見ていなかった。

階段の上で、リーシャ様が、外套を羽織って、こちらを覗いている。


招待状を、私はもう一度、開いた。

家紋は、二つ。

名前は、二つ。


旦那様も、リーシャ様も、私の手元の招待状は、見ていなかった。


「……馬車を、もう一台、お願いします」


執事のフリッツが頷いた。

頷きが、いつもより、少しだけ深かった。




王宮の門が見える頃、楽団の前奏は、もう三曲目だった。


案内係の若い男が、馬車から降りた私たちを、迎えた。

招待状を確認する手が、一度、止まった。

それから、もう一度、確認した。


「アヴェルニュ伯爵閣下、夫人、こちらへ」


リーシャ様の方は、見なかった。


アヴェルニュ家の卓は、入口から数えて三列目だった。

円卓の中央に、名札が二つ、置かれている。

オーリック・アヴェルニュ伯爵。

セレスティーヌ・アヴェルニュ。


「兄さま、こちらが私たちの席ですわよね」


リーシャ様は、案内係が口を開く前に、自分で歩いていった。

そして、私の名札の上に、白い指先を、そっと置いた。


旦那様は、ほんの一拍だけ、戸惑った顔をした。

それから、いつもの落ち着いた顔で、リーシャ様の隣に腰を下ろした。




私は、自分の名札のところまで、歩かなかった。

案内係が、私を見て、それから、視線を伏せた。


「奥様、お席は……」

「ええ、ありがとう」


それ以上、彼に言わせなかった。

彼が口にすれば、彼の仕事の一部になってしまう。

若い案内係に、それを背負わせるのは、私の役目ではなかった。


壁際の柱のそばに、私は静かに下がった。

扇を、ひとつ開く。

新年用に新しく仕立てた扇だったのに、骨の一本が、いつのまにか、また、曲がっていた。


何か言えば、負ける。

言わなくても、負ける。


ならば私は、扇の骨を、押し戻すほうに、力を使うほうがましだった。

押し戻せなかった。




三つ離れた卓で、マロワ公爵夫人の扇が、一度、止まった。


そのまた隣の卓では、若い令嬢が顔を上げかけて、母親が、そっと娘の手の甲を押さえた。


視線は、集まらない。

集まらないのに、確かに、こちらへ向けられている。


リーシャ様は、それに気づいていなかった。

旦那様も、たぶん。


リーシャ様は、給仕の少年に微笑みかけて、シャンパンの杯を受け取った。

受け取るときに、指の二本が、杯の腹を、軽く、撫でた。

確かめるように、もう一度、撫でた。


そのことに気づく令嬢が、この会場には、たぶん、半分はいた。




「アヴェルニュ夫人」


声は、静かに、近づいた。


エルディア王太子妃殿下だった。

ご婚姻されて十年と少し。

私が嫁いだ年と、ほぼ同じだ。


殿下は、扇を片手に、円卓のそばに立たれた。

案内係の若い男が、姿勢を正した。

リーシャ様が、半拍遅れて、立ち上がった。


「マイラ・コルマール嬢」


王太子妃殿下は、私を見たまま、リーシャ様の名を、お呼びになった。


「アヴェルニュ夫人は、そちらの席では?」


会場の音が、一段、低くなった。


リーシャ様の唇が、開いて、止まった。

「あ、あの……私は、その……」


旦那様が、慌てて立ち上がった。

「殿下、これは、その、リーシャは、家族同然で……」


「家族同然で、夫人の席にお座りに」


殿下は、扇の角度を、ほんの少しだけ、変えられた。

それは、答えを期待しない問いだった。


旦那様は、続きを言おうとして、言葉が、整わなかった。


リーシャ様の指は、まだ、私の名札の上に、置かれたままだった。

殿下は、その指をご覧になって、それから、私を見た。




「アヴェルニュ夫人」


殿下は、私の方へ、扇を一度、傾けられた。


「よろしければ、今夜は、私の卓でご一緒に」


会場の音が、すっと、戻った。

給仕たちが、音もなく動き始めた。

マロワ公爵夫人が、ようやく扇を閉じた。


「畏れ多うございます、殿下」


それだけ言って、私は、殿下の手の届く距離まで、歩いた。

殿下の手袋は、白絹だった。

その白絹が、ごく自然に、私の腕に触れた。


「あなた、紅茶はミルクを少し、でしたわね」

「……はい、殿下」


なぜ、ご存知なのだろう。

そう思った瞬間、殿下の口の端が、ほんの少し、上がられた。


「ええ、知っております」


王族卓の私の席には、すでに名札が用意されていた。

セレスティーヌ・アヴェルニュ。

今夜のために、書き加えられたばかりの、まだ乾きかけの墨だった。


私は十年、夜会というものに出てきた。

夫の隣以外の席に座るのは、今夜が、初めてだった。




三列目の卓では、旦那様が、まだ、立ったままだった。

リーシャ様は、いつの間にか、自分の手を、名札から離していた。


そして、誰も座らない椅子の前で、その指は、行き場を、失っていた。




同じ夜、レゼリア王宮、北棟。


ルシアンの執務室には、まだ蝋燭が二本、灯っていた。

書記官は半時前に退出している。

机の上には、エルディアからの定期報告の写しが、いつもの順で並んでいる。


最後の一通の前で、指が止まった。


ふた月前と、同じ筆跡だった。

半年前とも、同じだった。

五年前の、あの夜とも。


「アヴェルニュ伯」名義で送られてくる重要文書は、五年前から、ずっと、同じ人物の手で書かれている。

伯爵の自筆では、ない。

代筆人の名も、ない。


「また、夫人の筆跡か」


ルシアンの声は、低く、誰にも届かなかった。


机の上に、書きかけの便箋を、一枚、引き寄せる。

ペンに、インクをつけ直す。


エルディア王国、新年使節団派遣の件。


ペン先が、一度、紙の上で、止まった。


派遣団長は、私が務める。


ペンを置く。

窓の外で、レゼリアの冬の空が、ずいぶん明るかった。


茶色いリボンは、議事録のページに、今夜も、挟まれたままだった。

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