第10話 役割ではなく、あなた自身を
半年が、たっていた。
エルディア王国、アヴェルニュ伯爵領は、その半年で、確実に、傾いていた。
オーリック自筆の外交文書は、王宮から、三度、差し戻された。
代筆人、不明記。
文書管理庁から、「過去十年分の代筆実態調査」の通達が、屋敷に、届いていた。
秋の収穫祭の予算案は、提出期日に、間に合わなかった。
領地内の村落巡察記録は、半年分が、空白のまま。
社交シーズンの招待状は、去年の三分の一に、減っていた。
執務机の前で、オーリックは、長く、立ち尽くしていた。
卓には、王宮から戻された外交文書の束が、積まれている。
朱の訂正が、頁の端から、漏れていた。
——俺は。
——俺は、十年、何を、していたんだ。
母の言葉が、頭の中で、もう一度、立ち上がった。
「お前は、何も、感じませんでした」
「それが、お前の、罪です」
その夜、オーリックは、生涯、独身で、過ごすことを、決めた。
執務机の上で、半時、燃え続けた蝋燭が、ようやく、芯から、崩れた。
同じ秋。
レゼリア王宮、南庭園。
秋の最後の薔薇が、咲いていた。
私が、ここに、移って、ちょうど、半年。
午前のうちに、私の執務机に、二通の手紙が、届いていた。
一通目は、エルディア王太子妃殿下、ご名義の、祝電だった。
「エルメリア閣下」
「ご就任から、半年、お変わりなく、お過ごしのご様子、何より、嬉しく存じます」
「あの夜、皆が、見ておりました」
「やっと、ふさわしい場所へ、お進みになられた」
「アヴェルニュ家のことは、もう、ご案じには、なられませんよう」
文末に、追伸が、あった。
王太子妃殿下のご筆跡では、なかった。
深い、お義母様の、ご筆跡だった。
「セレスティーヌ」
「私の、娘で、いてくれて、ありがとう」
「義母の権限で、これからも、あなたを、娘と、呼びます」
私は、その追伸を、二度、読んだ。
二度目は、声に、出さずに、唇だけで、なぞった。
二通目は、マイラ・コルマール様、ご名義だった。
半年前に届いた、薄いベージュ色の便箋とは、違う、白い、しっかりした紙だった。
筆跡は、前の一通より、ずいぶん、整っていた。
「セレスティーヌ姉様」
「療養院で、初めて、自分の名前で、呼ばれました」
「誰かの、妹で、なく」
「ただの、マイラとして」
「姉様、これは、罰では、ありません」
「私が、自分で、選んだ、場所です」
「どうか、ご心配、なさいませんよう」
「姉様の、ご健勝を、お祈り申し上げます」
私は、二通の手紙を、机の上に、並べた。
王太子妃殿下と、お義母様の、追伸。
マイラ様の、二通目。
三人の女性が、それぞれ、別の場所から、私のところまで、紙を、寄越してくださっていた。
十年の、構造が。
ようやく、四人の意思の上で、解体されていた。
私と、王太子妃殿下と、お義母様と、マイラ様。
四人とも、別の場所に、立って、別の方向を、見ている。
それで、よかった。
夕刻、私は、王宮の南庭園に、出ていた。
秋の薔薇は、もう、終わりに、近かった。
何輪かが、まだ、咲き残っていた。
風が、長く、止んだ瞬間が、あった。
その止んだ瞬間に。
庭園の入口の方から、靴音が、聞こえた。
一度、聞いただけで、誰の足音か、私には、分かるように、なっていた。
私は、振り返った。
礼服、だった。
王宮の儀礼の場で、お召しになる、深い藍青の、礼服。
普段の執務服とは、違った。
殿下が、私の前で、立ち止まられた。
「殿下」
私は、軽く、頭を、下げた。
「お返事を、お待たせ、いたしました」
殿下は、静かに、頷かれた。
「では、伺います」
殿下は、ご自分の片膝を、敷石の上に、つかれた。
礼服の裾が、薄い秋の埃を、わずかに、引いた。
殿下は、ご自分の手を、私の手の方へ、ゆっくりと、伸ばされた。
ただし、握っては、こられなかった。
私が、応えるかどうかを、待っておられた。
——噴水の前と、同じ、距離の取り方だった。
「セレスティーヌ・エルメリア閣下」
殿下は、私の正式な称号で、お話を、お始めになった。
「外交補佐官として、ではなく」
「ルシアン・ド・ロアール、個人として」
「あなたの、隣に、立たせていただきたく、存じます」
殿下は、一度、息を、お整えになった。
「私の、妻に、なって、いただけますか」
それから、お声を、もう一段、低くなさった。
「役割では、なく」
「あなた、ご自身を」
私は、しばらく、お答えを、しなかった。
殿下の手は、まだ、敷石の上に、伸ばされたまま、止まっていた。
私は、ゆっくりと、自分の手を、上げた。
十年ぶり、だった。
自分から、誰かの手の方へ、自分の手を、伸ばしたのは。
私の指先が、殿下の指先に、触れた。
殿下は、それでも、ご自分から、握っては、こられなかった。
私の指が、しっかりと、握るのを、待っておられた。
私は、握った。
「殿下」
「私を、見つけてくださって、ありがとうございます」
「ルシアン様」
殿下の名前を、お呼びしたのは、これが、初めてだった。
「私が、もう一度、自分を、信じられるように、なるまで」
「待ってくださって、ありがとうございます」
私の指の中で。
殿下の手が、初めて、握り返してくださった。
その握りは、強くは、なかった。
ただ、十年と、五年と、半年を、すべて、束ねた、握りだった。
「はい」
私は、続けた。
「あなたの、隣に、立ちます」
「私、自身として」
殿下は、ご自分から、お立ちになった。
立たれるときに、ほんの一拍、ふらつかれたように、私には、見えた。
気のせい、だったかもしれない。
庭園のテラスに、二脚の椅子が、並んでいた。
殿下は、ご自分から、私を、その一方の椅子の方へ、お導きになった。
私たちは、並んで、腰を、下ろした。
私の隣に、もう、椅子は、空いていなかった。
十年ぶりに、私の隣の席に、ちゃんと、人が、いた。
殿下は、何も、おっしゃらなかった。
私も、何も、申し上げなかった。
秋の最後の薔薇の香りが、夕風に、ほんの少しだけ、混じっていた。
同じ夕刻、エルディア王国、エルメリア侯爵邸。
父と、母が、応接間の灯りの下で、レゼリアからの一通の手紙を、ご一緒に、お読みになっていた。
私が、ご報告のために、便箋に、書いた一通。
婚約のお話を、申し上げる、一通。
母が、便箋の角を、指で、二度、撫でられた。
撫でる手の力が、いつもより、軽かった。
涙では、なかったかもしれない。
ただ、便箋に、触れていたい、というだけのお手の動き、だった。
父は、便箋を、しばらく、ご覧になっていた。
やがて、低く、つぶやかれた。
「セレスティーヌは」
「自分の足で、歩いた」
母が、頷かれた。
頷きは、何度も、続いた。
窓の外で、エルディア王都の、夜の鐘が、遠く、鳴った。
その鐘の音は、半年前、私が、馬車で王都を、出るときに、聞いた音と、同じ高さだった。
レゼリアの庭園では、二人が、並んで、秋の空を、見上げていた。
誰も、急がなかった。
十年を、取り戻すのに、急ぐ理由は、もう、なかった。
殿下のお手は、私の手の中で、まだ、握られたままだった。
私の手も、殿下の手の中で、握られたままだった。
そして、私の隣の椅子には、誰かが、座っていた。
——十年、寝室の扉は、閉じたままだった。
けれど、今日。
私の、隣の席は、空いていない。
それは、誰かに、座ってもらったから、では、なかった。
私が、自分で。
この席を、選んだから、だった。
秋の空に、星が、ひとつ、出た。
殿下のお手は、まだ、私の手の中に、あった。
私の手も、殿下の手の中に、あった。
握りに、強さは、なかった。
ただ、解く理由が、もう、なかった。
レゼリア王宮の塔で、夜の鐘が、鳴り始めた。
その音は、エルディアの鐘より、ほんの少しだけ、高く、軽い。
私は、その音を、聞いていた。
ずっと、聞いていた。
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